(2)

 いつも通り、人気のない展示室に足を踏み入れる。赤ん坊の展示が始まった直後はわずかに見物客が増えたけれど、盛り上がりはあっという間に冷めた。当たり前だ、生まれたのはごく普通の赤ん坊なんだから。

 母は一般的新生児にまるで興味がなかった。父と一般的成人女性の間に子どもができたことも、「あんな環境だしね」とあっさり受け流す。彼女の左手で輝く、真新しい指輪がまぶしい。

 硝子の向こう側、〈母〉はリビングで我が子にミルクを与え、赤ん坊が泣き出せば腕を揺らしてあやす。すると、自室で仕事をしていた〈父〉がリビングに現れた。軽く言葉を交わしてから、〈父〉は〈母〉に麦茶を入れてカップを差し出す。それから〈娘〉を自分の腕に収めて、〈母〉と話しながら赤ん坊にミルクを飲ませる。

「父さん」

 声が聞こえた。誰かの声が、すぐそばで。

「母さん」

 もう一度聞こえた。私の声ではなかった。私が腰かけているベンチの反対側に、ブレザーの制服を着た誰かが座っている。見間違えるはずがない、毎日見ていたんだから。私は思わず彼に近づいた。

「もしかして、一般的男子高校生さんですか?」

 彼は私に気付いていなかったらしい。突然電源が入ったおもちゃみたいに肩を跳ねさせる。目を丸くしてこちらを向く彼に、私は急いで続けた。

「私、お父さんのー……。一般的成人男性の娘なんです。高橋円香まどかって言います」

 一般的男子高校生は納得したらしく、曖昧に頷いた。彼はやっぱりどこにでもいそうな普通の高校生だ。一度しか『一般的核家族生体展示』を見ていなければ、きっと彼の顔を思い出せなかった。

「あの、えっと……」

「佐藤です。佐藤洋一」

「洋一君、その、どうしてここに?」

「展示する子どもは一人でいいらしいです」

 一般的男子高校生はそう言って、輝く箱に視線を送る。目を細め、リビングで語らう〈夫婦〉を見ている。それがどこか寂しそうに思えたから、私は思わず口を開いた。

「私たち、きょうだいってことですか? お父さんが同じ人だから」

「ああー……。じゃあ、俺が兄ちゃんですね」

「え……?」

「話はよく聞いてましたよ。〈父さん〉の外にいる娘が、俺の一つ年下だって」

「そっか。……あ! じゃあ、せっかくだからきょうだいみたいに話しませんか?」

 彼は視線をうろうろさせてから曖昧に頷く。見目麗しくもなければ、疎まれる原因にもならない顔。展示室が暗いので、肌艶や目の色はわからない。ただ、彼が私に興味を持ってくれたことだけがわかった。だって、箱の外で〈父〉の面影を残すのは私だけだ。


 私たちは博物館がある公園に併設されたコーヒーショップに入った。洋一はぎこちなく注文し席に着くと、しばらく手元のコーヒーカップを眺めていた。『外』というぶかぶかな服を着せられているせいで、体の重心がふらふらしているみたいに。

「洋一君って、箱の中でお客さんに見られても平気だった?」

「最初は変な感じだったけど、そのうち慣れたよ」

「そうなの?」

 私が聞き返せば、洋一はふと視線を上げる。硝子の向こうに広がる公園では、なかなかやって来ない秋の代わりに夏の名残が輝いていた。

「ただ白い壁に囲まれて生活してるだけだから。意識しなければ、自分たち以外のことは忘れちゃうんだ」

 彼は困ったようにふやけた笑みを向ける。その表情が私の父に重なって見えた。彼らが一緒に暮らしていたのは一年ほどのはずなのに、洋一と父の笑い方はそっくりだった。

「……外は広いよ。だから、不安になる。いきなり独りぼっちになったみたいに」

 コーヒーカップの中で揺れる洋一の顔が、波間に揶揄われて歪んで消える。彼の口元が薄っすら開いて、言葉は躊躇いがちに零れ落ちた。

「箱の中は居心地よかったよ。だから外に出てから、母親……実の母親に言っちゃってさ。『いつか博物館に帰りたい』って。そしたら泣かれて。……どうしたらいいかわからなくて、気付いたらここに来てた」

 私だって似たようなものだ。父がいない家、新しい恋に浮かれる母がいる家でどうしたらいいのか、あの日からずっとわからない。父の展示が決まったと知った夜、最後に父の炒飯を食べた夜、父を見送った朝、あの日からずっと。

 私たちは窓の外に佇む博物館を眺めた。私にとっては博物館。だけど洋一にとってあれはもう一つの家。少しの間だけ家族と暮らした家だ。

 しばらく黙ってから、洋一はふと思い出したように明るい声を上げた。

「円香さん、〈父さん〉の炒飯好きなんだよね?」

 彼の心は、まだ真っ白な箱の中にあるのかもしれない。



 私たちはほとんど毎日博物館で顔を合わせていた。約束した訳でもないのに、放課後に展示室へ足を運べば洋一がいる。だから二人してベンチに並んで座って、何をするでもなく『一般的核家族生体展示』を眺めた。

 硝子の向こうで〈娘〉は見事に成長していた。〈父〉は哺乳瓶でミルクを作り、〈母〉はその間におむつを替える。箱の中だけで生きる〈夫婦〉は、穏やかに子育てを続けている。

「お父さんって、箱の中ではどんな感じだった?」

 私が聞くと、洋一は私と硝子の間で視線を揺らしてからわずかに黙る。頭の中を見渡しているみたいな仕草が、〈息子〉時代に培われたものなのか元々の癖なのか私は知らない。

「家のことを完全に分業しようって言い出したのは〈父さん〉だったよ。こう……ルーレットっぽいのを紙で作って当番制にして。外でもそうだった?」

「よくお母さんが愚痴ってたから、違うと思う」

「じゃあ、外でできなかったことをあの中でやろうとしたんだろうね。俺たち、三人だけで上手くやってた」

 彼が黙り込んでしまったので、私は父の思い出話をもっと聞きたいと強請った。すると洋一はゆっくり立ち上がり、展示室の出入り口の方を向く。

「俺と〈父さん〉のお気に入りの場所があるよ」

 博物館が閉館した後であれば、一般的核家族の三人は館内を自由に歩き回れたらしい。一般客と同じ範囲に限って、就寝時間まで好きに見学ができたそうだ。

「俺たちは現代にいるから、時間と逆向きに展示を辿るんだ。歴史から段々人類の気配が消えて、動物と植物だけの世界になる」

 そうして彼は、空を舞う首長竜の復元骨格の下で立ち止まった。吹き抜けの空間を悠々と泳ぐ首長竜。地上には、当時の地層から発見された動植物の化石が並んでいる。

「俺、よくあの首長竜を見てたんだ。床に座ってさ。ここ、閉館時間になると照明が落ちて非常灯だけになるんだよね。薄暗い中で、ずーっと一人でぼーっと首長竜を眺めてた。そしたら、時々〈父さん〉と鉢合わせるようになってさ。俺、親とあんな風に話したことなかったから結構楽しかったよ。〈父さん〉、子どもの頃にあれを見てずっと憧れてたらしい。子どもの頃の夢は恐竜博士だったって言ってた」

「そうなの? 知らなかった」

「本当の娘に、叶わなかった夢の話をするのは恥ずかしいだろうね」

 偽物の〈父〉と〈息子〉が、夜の博物館で首長竜の復元骨格を眺める。まるで昔から知っている秘密基地で、天体観察をするように。もしかしたら父は、自分の子どもと秘密を分け合ってみたかったのかもしれない。

 化石たちは黙っている。首長竜は空を舞いながら、こちらになんか見向きもしない。他の見物客の姿はなく、博物館は時間が止まった大きな箱だ。

「全部、普通のもののはずなのにさ」

 洋一が言った。彼は首長竜の骨を見上げていた。

「俺とか〈父さん〉とか〈母さん〉みたいに、全部『一般的なんちゃら』のはずだったのに」

「これが? 恐竜の骨が?」

「だって、昔はああいうのが普通にいたんだよ。ただ中生代だっただけ、弥生時代だっただけ、宇宙だっただけ。時間と場所がここと違うだけで、普通のものが特別扱いされて博物館に並んでる。あの首長竜だって、首長竜の中で一番強いとか格好いいとかじゃない。ただ『残ってた』から選ばれた」

 何もかもが口をつぐんだまま、少し前まで自分たちと一緒に博物館に展示されていた男の子の声を聞いている。その後に響く私の声も。

「お父さん、最後にうちで過ごした夜に言ったの。私だけに」

「……それ、俺が聞いていいのかな」

 じゃあ、他の誰にこんなことが言えると思う?

「“一度でいいから、特別になってみたかったんだ”って」

 もうあの時の父の声は忘れてしまった。いつも通りの困ったような笑みはぼんやり覚えているのに。この記憶が本物か偽物なのか、今となってはわからない。

 洋一の声は、無口な首長竜みたいに穏やかに響く。

「……箱の中は気楽だったよ」

 彼はもう、真っ白な部屋の中には入れない。光り輝く硝子の向こうを眺める、ただの見物客でしかない。

「あの中にいれば考えないで済んだ。普通とか特別とかどうでもよかった。壁の向こうで誰かが見てたって、忘れちゃえばいてもいなくても同じだよ」

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