逆転した立場

三鹿ショート

逆転した立場

 己の手が届く範囲が、世界の全てではなかった。

 特定の地域において王者だったとしても、場所が異なれば、その権威は何の効力も持つことはないのである。

 土の味というものを初めて知りながら、私はそのようなことを思った。


***


 下駄箱の中には生塵が詰められ、机上には数多くの落書きが存在している。

 当初は涙を流しながら掃除をしたものだったが、今ではそのような気力が湧くことはない。

 画鋲が貼り付けられた椅子に座ったことで痛みに顔を歪める私を見て、他の生徒たちは笑みを浮かべていた。

 だが、彼女だけは、何の表情も浮かべていなかった。

 その反応が、私にとっては意外なものだった。

 何故なら、現在私が受けているこの仕打ちは、かつての彼女もまた、私の手によって味わったことがあるものだったからだ。

 ゆえに、良い気味だと笑みを浮かべたとしても、不思議なことではない。

 しかし、彼女はそのような行為に及ぶことはなかった。

 一体、彼女はどのような想いで、私の姿を目にしているのだろうか。

 訊ねようにも、今では私と彼女の住んでいる世界が異なっているために、気軽に話しかけるわけにはいかなかった。

 かつての彼女は、背が低く、十人並みの顔立ちであり、他者と目を合わせて会話をすることが出来ないような人間だった。

 だからこそ、私やその仲間が標的と決めたのだが、今の彼女は道を歩けば誰もが見惚れるほどに美しく成長していた。

 どれほどの努力を重ねたのか、私には分からない。

 だが、現在の状況に満足し、自身を磨くことを怠った私と大きな差異が生じたのは、当然のことだろう。

 因果応報とはこのような状況を指す言葉なのだと考えていると、私の頭部に何かの液体がかけられた。

 笑い声が聞こえてきたが、その声の主が誰であるのかなど、気になることではない。


***


 汚れた身体の上に汚れた制服を着用した後、帰宅のために校門へと向かった。

 地面を眺めながら駅へと歩を進めていると、不意に、何者かが私の名前を呼んだ。

 顔を上げると、大きな木の陰から彼女が姿を現した。

 まさか、彼女から接触してくるとは考えていなかったために、どのような言葉を吐くべきか、分からなかった。

 困惑する私に向かって、彼女は表情を変えることなく、

「寄り道でもしませんか」

 先導するように歩き始めた彼女の跡を、私は小走りで追った。


***


 到着した場所は、古びた喫茶店だった。

 彼女が何の迷いもなく店の中へと入っていったため、私は慌てて追った。

 店主らしき人間は彼女を認めると柔らかな笑みを浮かべて声をかけたが、彼女から私の名前を聞かされた瞬間、その表情が敵意に満ちた。

 私に近付こうとする店主を宥めながら、彼女は店の奥の席に座る。

 手招きされたために、私は彼女の対面に腰を下ろした。

 彼女は自身と私の分の珈琲を注文し、やがて届いたその液体を、身体に取り込んでいく。

 その様子を眺めながら、彼女が私をこの店に連れてきた真意を考える。

 私と共に行動することは、彼女にとって何の利益も無い。

 それどころか、かつて私から受けた仕打ちを思い出し、体調を崩してしまうことも考えられるのだ。

 そのような可能性が存在するにも関わらず、何故彼女は、私をこの店に連れてきたのだろうか。

 私が疑問に満ちた視線を向けていることに気が付いたのか、彼女は珈琲を飲む手を止めると、

「あなたには、休息する場所が必要だと考えたのです」

 どういう意味かと問うと、彼女は店主を一瞥してから、

「あなたに虐げられていたとき、私は己の人生に終止符を打とうかと考えましたが、そのようなとき、此処の店主に声をかけられ、珈琲を飲ませてもらったのです」

 彼女は眼前の容器を人差し指で突きながら、

「それは、苦くて飲むことができませんでした。それを伝えたところ、明日は飲むことができるようなものを出そうと言われたのです。ですが、次の日の珈琲もまた、あまり変化がありませんでした。再び同じことを伝えると、同じ言葉が返ってきたのです。そんなやり取りが、気が付けば半年以上も続いていました。そして、私はようやく理解したのです。そのようなやり取りを続けたのは、私を一日でも長く生きさせようとしたのではないか、ということを」

 彼女が目を向けると、店主は照れ笑いを浮かべた。

 彼女の言葉通り、おそらく店主は、全てを諦めたような表情を浮かべた彼女のことを見過ごすことができなかったのだろう。

 店主が過去に彼女と同じような目に遭っていたのか、友人が同様の行為に苦しんでいたのか、その理由は不明である。

 しかし、良い人間であることは、間違いなかった。

 そして、今度は彼女が、私に対して手を差し伸べようとしている。

 だが、理解に苦しむ行為だった。

 私は、彼女を虐げていた人間なのだ。

 苦しむ私のことを笑うのならば分かるが、自身を虐げていた人間に対して、何故彼女は手を差し伸べようとしているのか。

 私の疑問に、彼女は答えた。

「自分を苦しめた人間が自分と同じような目に遭うことなど、私は望んでいません。むしろ、私はあなたに対して、感謝しているのです。あなたから虐げられることが無ければ、私は店主と知り合うこともなく、己を磨こうと考えることも無かったのでしょうから」

 それから彼女は、無言で珈琲を飲み続けた。

 その姿を、私は見つめる。

 眼前の女性は、かつて私が虐げていた人間だが、同一人物ではない。

 自分を磨くことで魔手から逃れたことを思えば、これから私がどのような行動を取るべきなのかなど、考えるまでもない。

 今さらだが、私は頭を下げ、謝罪の言葉を吐いた。

 許されるとは思っていないが、そのように行動しなければならないと感じたのだ。

 頭を上げると、彼女は口元をわずかに緩めていた。


***


 翌日、私は厳しいということで有名な部活動に加わり、肉体と精神の双方を鍛えることにした。

 しばらくは私に対する仕打ちに変化は無かったが、やがて私の肉体が厚みを増し、部活動での立場が盤石と化すと、下駄箱や机が汚されることはなくなった。

 そして、かつてのような権威を得ることができたが、私はそれを己のために振るうことはなかった。

 人の目が届くことがない場所で虐げられている人間のために、私は走るのだ。

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