烏と年代記

たまき

烏と年代記

 二八七五年 新しい王が立つ


 それは、秋に色づく頃合だった。中庭の赤く染まる木々が見下ろせる階段の踊り場で、不意に彼女は気が付いたのだった。制服を翻し、笑って走り抜けていく生徒たちが気が付いていない、その影に。おいで、と彼女を導く声と白い手。窓の向こうから差し出されたその手を、彼女は誘われるままに取った。不思議と怖いとは思わなかった。窓をすり抜け、あたたかな母胎をすり抜けて。彼女は知らない世界であたらしく生まれ落ちたのだった。



 少女は、その国の言葉で烏と呼ばれていた。貧民街のひどく薄暗い路地裏の片隅で怯えたように身体を抱え、隠れるように生きていく。空腹を感じると、そっと影から這い出て、屋台の裏に廃棄された食料を漁った。食べられるものなら、何でも良かった。唾を吐かれるのも、罵声を浴びせられるのも、暴力により僅かな食糧を奪われることも当たり前の日々。ずっとその場所でそうやって、生きていくのだとおもっていた。


 貧民街の中でも特に悪臭のひどいその路地裏では身寄りのない子どもや職にあぶれた大人たちが毎日、その日一日の生活に全てをかけて暮らしていた。烏は目立たないように襤褸を纏い、黒い髪は油と汚れでべっとりと固まり伸び放題に伸びたままで。


 そんな毎日を支えていたのは、ここではないどこかに、本当の居場所があるという想いだった。少女には烏として生まれる前の記憶がある。そこで、友人や家族に囲まれて生活していた彼女は、気が付いたときにはこの世界で烏と呼ばれていた。石造りの建物に寄りかかり冷たい地べたに座り、知らない言葉の子守歌を口遊んだ。烏、という名前に似合わず、少女の歌声は儚くもうつくしく、聴く者の心に響いた。歌うときだけは、誰も烏に声を荒げず、止めなかった。少女は骨と皮だけのようなゆびさきで、思い出だけを大切になぞり続けていた。


 たった一度だけ、信じていた友達に話したことがあった。


「あたし、ほんとうはもっとうんと遠いところから来たの」


 囁くような、少し舌足らずな話し方で烏は言った。


「わたしは白い手に導かれて、ここまで」


 それは、この国の言語ではない言葉で紡がれた。そう言われた木兎ミミズクは、ふーん、そうと興味なさげに頷いただけだった。


 木兎はその路地裏の中でも綺麗な子どもだった。金の髪は汚れてはいたが、毎日櫛で梳いていることをみんなが知っていた。彼女は大きな瞳でやわらかく笑う。小さく生きる烏のことも、木兎は受け入れていた。

 彼女にだけ話したはずのその話は、知らない間に路地裏中に広まっていた。


「嘘つき烏!」


 烏が影から姿を現すと、からかうように嘲笑うように路地裏の子どもたちが囃し立てる。囲まれてしまった烏はその場に蹲り耳を塞ぐ。それでも、隙間を縫って声は届く。なにも、聞きたくなかった。視線が降り注ぐのが怖かった。地べたはいつも冷たい。


「おまえがちいさいときから、ここにいるのを知ってるぞ」

「デタラメな言葉で話をしたって、騙されないんだからな」


 降り注ぐ言葉に、ちがうと応えかけて頭を上げる。人に隠れるように木兎が立っていた。汚れたサイズの合わない生成色のドレスは洗濯屋の椋鳥ムクドリがこっそり洗ってくれているのを、烏は知っている。烏と違って、周囲の大人に甘えるのが上手な娘だった。烏は木兎を見つめ、木兎は烏を見ていた。ふいに木兎は視線を逸らし、そのまま背中で視線を遮ると走り去る。その背中を烏は見つめていた。なにひとつ、言葉が思い浮かばなかった。


 烏はもう、誰のことも信じることはなかった。周りからは嘘つきだと思われていたし、烏も信用していなかった。ただ、毎日食べて寝て、生きることだけを考える。それが、彼女の毎日だった。

 辛くなるたびに空を見上げた。いつか本当に烏のように飛んでいけたら、そうしたら、元の場所に戻れるかもしれない。そんな気がしていた。青い空と暗い空を飾る星と仄かに明るい月が、烏を慰めてくれた。そして、なつかしい歌を口ずさみ、思い出の輪郭をなぞる。



 ギラギラと照りつける太陽が路地裏を照りつける日のこと。質素な馬車、わざと質素そうに見せている上等な馬車が一台、この町にやってきたという話が貧民街中を駆け巡った。何かを探しているようだという。


 烏はその話を聞き流し、頭上から燦々と降る光から逃れるように陰を求めてずるずると移動していた。ようやく見つけた僅かな隙間に身体をねじ込むように蹲る。


 木菟は念入りに金の髪を櫛で梳き、いっとうお気に入りのドレスを身につけた。だれもかれもが、そのひとがやってきたということを知っていたし、探しているのがなにかを気にしていた。


 その馬車は日が傾きかけた頃にその路地の近くにひっそりと止まった。皆、気にしないような振りをしながら、固唾を飲み、馬車の動向を見つめている。


 馬車を降りてきたのは背の高い、黒い衣服を身につけた、まだ青年と呼ぶに相応しい男。彼は眩しそうに目を細め、そのあたりを見回す。土色をした髪が日の光を浴びて飴色に透けていた。ふと、路地の入り口に座る男と視線が合い、見られていることに気がつくと軽く咳払いをしてみせる。そして、何事もないかのような表情でその路地裏に足を踏み入れた。臭いと、まとわりつくような視線。汚れたもの、そして人。彼は表情に出さないように気をつけながら、注意深く視線を送る。諦めようと、小さく息を吐いた時、彼は大きな箱の陰にうずくまるその姿を見つけたのだった。彼が彼女に近づいていくのに気がついた時、見守る人々の口から漏れたのは、驚きと嫉妬、そしてドロドロとした感情のかたまり。


 彼は笑顔を浮かべ、陰に隠れる彼女に声をかけた。少女はとても驚き、何も言えずに小さく縮こまった。

 こんにちは、とその人は言った。烏からは逆光になってその表情を伺うことはできなかったが、ただ、その声はとても優しくおもえた。

 烏が身を隠すように影に入ろうとしていることに気がつくと、彼はさらに近づき、膝を抱えて座る烏に視線を合わせるように片膝をついて屈む。

 汚れてしまう、と烏はおもった。綺麗な服なのに汚れてしまうと。咄嗟に手を伸ばす。はっと気がついて慌てて引いた時にはすでに遅く、ついと引かれた手の勢いで烏は立ち上がった。軽い身体は浮かび上がりそうになる。立ち上がった男性の腹のあたりに目線があたる。近すぎるその人からは良い香りがした。


「あなたが、烏ですね?」


 その物言いは質問の形式は取っていたが、確信に満ちたものだった。烏を見下ろすその人は彼女の手を離すつもりはなさそうに、手首を握る。仕方なしにそうだと烏が頷いた。ボサボサの髪の毛の陰になり、表情が見えなくなる。


「あなたを探していました」


 困惑するように俯けば、ボサボサの髪が視界を遮る。少女のちいさな世界が出来上がる。しかし、烏の髪の毛は男に払われ、現れたその瞳にまっすぐに射貫かれてしまう。


「主人があなたと話したいと。その後、帰りたければいつでも此処に帰って来れば良い」


 烏は渋々頷くことしかできなかった。ただ、そのひとのすべてを見透かすような目が怖かった。

 


 烏が馬車に乗せられ、連れて行かれたのは少女の世界のすべてだった貧民街すらも抜けた先、都の中心近くの大きな屋敷だった。見たことのない綺麗で大きな建物に、烏は目をまあるくして何も言えずにただただ見つめ続けた。その様子を男性は静かな瞳で見つめていた。何を考えているかを外に漏れないようにしているようにも見えた。


 屋敷の中に入ると、烏は女性たちに囲まれ、問答無用で服を剥がされ身体を強く擦られたり、何度も髪を梳かれたりする。その後、一度も袖を通したことの無いような薄い青みがかったデイドレスを着せられた。白い花の刺繍が裾に広がる。烏は何も言えず、されるがままになっていた。


「できました」


 髪をこれでもかと引っ張られ、顔には粉を叩かれる。目をつむっていた烏はその声に顔を上げる。鏡に、見たことの無い女の子が立っていた。思わず鏡に触れると、向こう側の女の子も同じように鏡に触れる。


「さあ、お待ちですよ」


 髪を編み込んで結いあげていた女性が背中を押す。烏はやわからい感触の椅子を名残惜しく思いながら滑り落ちるように立ち上がった。

 履きなれない靴が窮屈で脱ぎたくなるのを我慢しながら烏は前を歩く女性の後をついていく。周りの人たちが皆、深い緑色をした揃いの格好をしていることにようやく気がついた。


「失礼いたします」


 外から中へと声をかけると、その女性は烏に目配せをする。そして、そっと開いた扉から中へ入るように背中を押した。烏は覚束ない足取りで中へと入る。視線が集まるのを感じ、心臓が跳ね上がった。俯いたまま動けないでいる彼女の傍に、路地裏で声をかけた男性が立つ。


「怖がらなくて良いのですよ、さあこちらへ」


 案内されたのは部屋の中央にあるソファ。向かい合う椅子に恰幅の良い男性が座っていた。お腹の出たそのひとは白金の髪を後ろに撫でつけていた。ソファは烏の重みを受けて沈んでいく。足が床につかないのが落ち着かない。


「君の名前は?」


 からす、と彼女は答えたとおもった。しかし、本当のところ、きちんと受け答えが出来ているのか自信はなかった。


「からす、烏か」


 そのひとはしみじみと呟く。その名を咀嚼しているようにも見えて、烏は気恥ずかしくなる。屑を漁り、黒々とした影とぎらりと光る目をした鳥。


「君の歌を聞いた」


 その言葉に烏は顔を上げた。目の前の男性が微笑みかける。


「君は、遠くから来たと言ったそうだね」


 それは、うんと前に漏らしたことのある話。木菟の目を思い出し、烏は胸が痛くなる。しかし、この話をこんなに頭の良さそうで偉そうなひとが信じてくれているのが嬉しかったし不思議でならなかった。


「……ほんとうよ」


 消え入るような声で答えると、目の前の男性が嬉しそうに微笑む。そして、烏を連れてきた男性と目を合わせ、何かを感じ取ったように頷きあう。


「これを、読めるかね?」


 見えないところに置かれていた一冊の古い本が、烏の前に置かれた。固い表紙が擦り切れて角が丸くなり、黴くさい臭いがしている。その本をそのひとは大事そうに優しく撫でた。

 烏は文字が読めない。無理だ、と首を振ろうとした烏を引き止めるように、そっと本の頁が開かれた。そこには、記号のようなものが並んでいる。しかし、烏にはそれがひどく懐かしいもののように思えた。


「なんと書かれている?」


 烏は読める通りにその言葉を口にする。しかし、かつて烏が口にした言葉で、彼らには伝わらない。それでも、この書物を読めるというそのこと自体が彼にとってはとても大切なこと。鋭く、目が光るのを少女は見た。


「どうやら、君はほんもののようだ」


 ほんもの、と問いかける前に彼が興奮したように告げる。


「私達は、この書物に書かれた文字の読める人を探していた。我こそはと名乗りをあげる人々にも会ったが」


 そこで言葉を切った男性は首を振る。にせもの、ばかりだったのだろうと烏はおもった。


「どういう意味だ?」


 その問いに、烏は言葉を詰まらせた。烏の知っている言葉では簡単すぎて、うまく説明ができない。


「あの、ええっと、“火に焼かれて“、それから”水があふれる前に”」


 たどたどしく口にした言葉に、目の前の大人たちが「おお」と感嘆の声を上げた。争いが、災害の前触れが、と興奮したように口にしている。それを、烏は何も言えないまま見つめていた。


「私達は、この書物に書かれた文字の読める人を探していた。王になるさだめの人を」

「王になるさだめ?」


 たどたどしく繰り返したその言葉は、驚くほど力無く聞こえた。少女は身動ぎするたびに椅子から滑り落ちそうになるのを、必死に足を伸ばして踏みとどまっていた。


「この書物は、真の王だけが読むことのできる、過去も未来も記された年代記の写し。この国は君を必要としている」


 烏は戸惑いを隠せないまま、ちいさく頷いた。必要だという言葉が、心の裡のやわらかい部分に突き刺さり、少女をこの場所へと縫い留めてしまった。

 綺麗であたたかいぬくもりに触れてしまった以上、路地裏の汚れて暗く、お腹を空かせる日々にはもう戻れなかった。そしてなにより、あの場所ではもう、烏の居場所ではなくなってしまった。彼女はあの時、選ばれてこの屋敷にまで来てしまったのだから。もう、戻ることはできなかった。



 烏は、そのままその男の家の養子となり、教育を受けることになった。彼はこの国の宰相で、代々その職を継いでいるのだと言う。慣れない衣服での生活、文字の読めない彼女に最低限の教育と人前に出るためのマナー。それが、毎日怒涛のように烏の生活のなかに詰め込まれていった。起床から就寝まで、決められた通りに決められた物事を学んでいく。それは、烏にとって新鮮だった。

 あの路地裏での毎日は生きることが全てで、それ以外のことは不要だった。生きる為に、食べる為に必要のないことが一日を占める。それが烏にとっては楽しかった。着慣れないドレスと履き慣れない靴で、毎日身体中が痛かったし、覚えることが多すぎて、何度教えられても頭から零れ落ちていくものばかりだったけれど。

 烏は与えられた部屋の信じられないくらいやわらかい毛布に包まりながら寝ようとしていたとき、ふとこの国の王について知らないことに気がついた。王、と呼ばれるひとが存在していることは知っている。しかし、顔も知らない。おとこだと思っていたが、自分を王にするというくらいなのだから、おんなかもしれなかった。


「どんなひとなんだろう」


 ぼんやりと、天蓋を見つめ呟いた。何も知らない、この国のことを。

 よし、と少女は強く息を吐いた。足音を立てないように裸足のまま部屋を抜ける。誰にも、この彼女の行動を知られてはいけないような、そんな直感があった。

 辿り着いたのは、烏が勉強を教わる小さな部屋。そこには、様々な本が置かれている。彼女が知りたいこともそこにあるはずだった。

 他の部屋と比べ、質素なノブを引いた。ガツンと扉を開くのを阻む音がする。大きく響いた音に、慌てて動きを止めた。息を潜め、耳をすます。しん、と静かな夜の空気が辺りを覆っていた。大丈夫だ、と小さく息を吐く。物音に気がついて、近づいてくるものはいない。目の前には固く閉ざされた扉の前で、先ほどとは異なる意味で烏はため息をついた。今夜、知らなければならないことがある気がした。


「何をしている?」


 はっと、息を飲む。ゆっくりと、声の方へと振り向いた。廊下の端から近づいてくる影が見えた。この屋敷の息子のひとり。年の近い彼は、鶯と呼ばれていた。春を告げる鳥の名。成人したら、春に纏わる名前へと変わるのだろう、先日、学んだ知識を元に考える。この国の貴族たちは、成人する前と後で名前を呼び分ける。

 お義兄さまと呼ぶと良い、と屋敷の当主はそう言ったが、彼は烏のことを嫌っていて、よく冷たい言葉を浴びせかけた。貧民街の孤児だったのだろう、と嘲笑う。だから、彼女は鶯のことが苦手だった。冷たい瞳で見られると、何を話して良いのか分からなくなってしまう。

 彼もまた、寝る前だったのだろう。寝間着姿をしていた。普段は、撫でつけている薄茶の髪が、跳ねているのを見つけ、親近感が少しだけ沸いてくる。

 何も言えないでいる烏に対し、鶯は鼻を鳴らし、笑ってみせた。


「教室の前で何をしていると聞いているんだ。鍵がかかっているだろう」


 そんなことも知らなかったのか、と告げるその声が普段よりも幼く聞こえ、烏は小さく頷いた。あの路地裏の子どもたちのひとりに、似ている気がした。反応が返ってきたことに驚いたのか、彼は僅かに目を泳がせた。そして、視線を反らすように鍵穴をにらみつけた。


「夜になると、不要な部屋にはすべて鍵をかけることになっているんだ、覚えておけ」


 再び、烏はその言葉に頷いた。覚えておく、と彼女は心に決めた。烏には知らないことが多すぎる。


「忘れもの、取りにきたけど、明日にする」


 ありがとうと付け加えると、鶯は少し迷ったような表情を浮かべた。その妙な間に、彼女が焦ったような表情を浮かべると、少し待てと言い置いて、どこかへと歩き出した。烏は本当に待っていて良いのか迷いながら、扉の前で膝を抱えて座りこむ。ひんやりとした冷たさが薄手の寝間着をいとも簡単に通り抜けてくる。待つことも、冷たさも慣れていた。夜の冷たさは、烏を容易にあの頃へと連れ戻す。

 路地裏の隅で、毎日のように彼女は日々をやり過ごしていた。いつか、と言い続けて擦り切れてしまった言葉たちにすがって。いつか、あの場所に帰れる、と。あたたかい、あの場所に。


「寝たのか」


 上から降ってきた言葉に、彼女は顔を上げた。ふわりと、夜の底を歩いていた彼女を掬い上げる。もう、あの場所ではないのだ。


「待っていて、と言ったのはあなたではないの」


 反論されたことに、言葉を詰まらせ、鶯は誤魔化すように咳払いをする。そして、ほらというように掌の中に隠していたものを見せつける。それは、古い鍵。


「ここの鍵を借りてきた。忘れたものを取るのだろう」


 烏は呆気に取られた表情で、彼を眺める。こういうことをしてくれるひとだとおもっていなかったし、その行為がとても嬉しかった。彼女は、だれかに何かをしてもらうことに慣れていない。


「ありがとう」


 嬉しい、と付け加えると、ふんと鶯は鼻を鳴らしてみせる。

 鍵を開けた部屋の中は、薄暗い。それでも、外から降る月の明かりで、何も見えないわけではなかった。この部屋の夜は静かで、そしてやさしい。そこで、烏ははたと気がつく。実際のところ、忘れものをしたわけではない。あれは、ここに入るための言い訳だったし、ここでどの本を手に取れば良いのかも分からなかった。仕方なく、壁一面に広がる本の背表紙を眺める。どれも、ひどく難しい単語が並んでいて、読める気がしなかった。


「なあ、本当に王になるつもりなのか」


 鶯がおもむろに尋ねた。どう応えるのが正しいのか、彼女は知らない。何も知らない。


「あたしは、きっと王になるんだとおもう。ねえ、今の王さまについて、教えて」


 そんなことも知らないのか、と呆れたような表情を浮かべたのは一瞬で、すぐさま何かに気がついたように口を鎖した。彼の予想はあたっているだろうと、烏はおもう。それでも良いと、おもっていた。大人たちに担ぎ上げられ、何も知らない人形のままでも。

 なにかを考えるように鶯がそっと目を閉じる。しばらくそのままにしていたが、やがて目を開けると、ふっと息をついた。そして、教室の中を見渡すと、本棚へと近寄る。


「これと、あとこの辺りだな」

 抜き出した本を数冊、烏の方へと差し出す。

「手始めにこの辺りの本を読んでみたら良い。知りたいことの答えが見つかるかもしれない」


 受け取った上製本は、手の中で重く感じられた。その本を胸に掻き寄せ、烏はありがとうと告げる。


「このことは、秘密にしてくれる?」


 上目遣いをするように尋ねると、鶯は当たり前だと一蹴する。


「父上に伝わったら、怒られるのは一緒だからな。これはふたりだけの秘密だ」


 ひみつ、という言葉がとても甘やかに響く。ふたりだけの秘密なのだと、口の中で転がしてみると、あまりの嬉しさに頬が緩んだ。

 その夜から、昼間には教えてもらえない物事を学ぶようになった。この国のこと、王のこと、人形には不要な知識をひとしきり。鶯は烏に大切なことを教えてくれる。それは昼間の庭のこともあれば、夜の教室のこともあった。烏は鶯が本当はやさしいひとであることにも気がついていたし、今の王を尊敬していることも気がついていた。彼は、彼女を王にすることを認めていなかった。


「あの方は、本当にすばらしいひとだから」


 そう熱っぽい瞳で話す様子を眺めるのが烏は好きだった。まっすぐに話のできることをうらやましく思っていたのかもしれない。烏もまた、そんな風に必要とされることを望んでいた。


「ねえ、もっと教えて」


 隣に座り、様々な話をねだる。彼は、彼女と過ごした時間の分だけ、優しく話をし、そしてやわらかく彼女に触れた。


「あれは、かつてこの国が危機にあった時に現れた聖女が残したという年代記なんだ」


 ふと、鶯は烏の知る言葉で書かれた年代記について話すことがあった。亡くなる前に彼女が書き記したその年代記は大切に保管され、そのうちにこの書物を読み解ける者が王になる、と言われるようになっていた。何百年も前の話で、それが本当であると鶯は信じていないようだった。

 鶯の父であるこの国の宰相家は密かに写しを作成し、新たな王を探していた。


「過去と未来が書かれた年代記、そのようなものがあっても、この国の役に立つことはなかった」


 淡々と紡がれるその言葉に、烏は年代記について打ち明けてしまいたくなる。あの書物に書かれた内容を、彼女は以前に比べ、理解できるようになっていた。あれは、年代記などではなく――。

 その言葉を発するよりも前に、鶯は黙り込んだ烏に何かをおもったのか、烏の手を取った。掌を重ね、ゆびさきで熱をなぞる。それだけで、烏は何も言えなくなってしまう。烏はもう言葉のひとつも持っていなかった。ただ、その熱に飢えていた。



 季節が巡るたび、烏はたくさんのことを知り、大人になっていく。


「一緒に行かないか」


 父親である当主に逆らい、王の騎士として屋敷から出て行くことになった朝、鶯は烏に手を差しのべた。王になることはないと、好きに生きろと彼は言った。

 烏はその手を取ることはできなかった。夜の教室で顔を近づけて一冊の本を読んだ日々も、昼間の庭で並んで歩いた日々も、少女にとってはとても大切なもの。しかし、彼はたった一言でも、彼女が必要だとは言ってくれなかった。


「どうか、ご無事で」


 彼のゆびさきに小さく唇を落とす。この国でこれから何が起こるか、彼女は知っている。

 そうか、と寂しげに呟いたその表情を、烏は最後まで忘れることはないだろうとおもう。

 路地裏で生活していた日々の輪郭がぼやけるようになった頃。彼女を王にすべく反乱が起こった。彼女はそれを、ぼんやりと眺めていた。ただ、古い年代記を言われるままに読み解いていた。それが、この国とって意味のないことだと、もう分かっていた。



 頭を垂れた人々の間を、少女は玉座へと進む。並ぶ人々を見下ろすように、数段登った先にあるその椅子は烏が想像していたよりも質素で、それでいて重々しく見えた。傍の男が、烏の手を取り玉座へと導く。ひとつ頷き、手を離す。


「お座りください」


 その声に誘われるまま、彼女は浅く腰掛けた。石造りのそれは、とても冷たい。

 見下ろした先には、顔の見えないひとびと。年代記と言われているあの本が、日記と料理の手順書であることを、少女だけが知っていた。それでも、全てをひとりで抱え、玉座に身を沈める。もう、遠い懐かしいあの場所へ帰ることは叶わない。

 こうして、この国には偽王が立った。



 数年後、偽りの女王は、前王の騎士たちの手により討ち取られ、傀儡政権は終わりを告げる。生き残っていた前王の王子を王とし、国の再建を行った。

 女王を誅した、かつて鶯と呼ばれていた彼は、英雄として名を残す。彼は、長年にわたり思い続けていた女性を娶り、生涯愛したと言う。貴族でもない、ただのむすめの名を、烏。かつて、貧民街で嘘つき烏と呼ばれた子どもと同じ名前をしていた。

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烏と年代記 たまき @maamey_c0

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