望まれない善意の末路
サミュエルは平均以上に空間認識能力に長けていたため、往路と同じ道を逆に辿ることで問題なくトラムの駅付近まで戻ることが出来た。駅さえ見えればあとは其処を目指して歩けばいい。
心残りがあるとすれば、道案内をしてくれた恩人を恐らくは自分の発言で怒らせてしまったであろうこと。サミュエルの認識では礼を失した覚えがないため、彼が急に怒り出して立ち去ってしまったようにしか思えなかったが、しかし、何の理由もなく
人が怒り出すというのも可笑しな話で。となれば自分が原因なのだろうということはわかる。わかるのだが、その原因がどんなに考えてもわからないのだ。
足を止め、溜息を吐く。中層に戻れば恐らく二度と下層には来ないだろう。両親が心配するため、どんなに遅くなっても日付が変わるまでは戻りたい。道を逸れれば、さすがに戻れるかどうかわからない。そう考えるとやはり彼のことは忘れて戻るしかないのだろう。
諦めて一歩踏み出したとき、視界の端に見覚えのある後ろ姿が映った。
「あの子は……ジャンク屋さんにいた……?」
チャイナ襟のメイド服。左腰に下げた、大きな飯ごう型のバケツ。そしてなにより目立つ、奇妙な紋様が刻まれた札がびっしり貼られた、彼女の身長を超す長さの柄がついたモップ。二つのお団子から伸びる細い三つ編みに、長い後ろ髪。
普通ならば初等教育を受けていて然るべき少女が、中層では壮年女性が行っている掃除婦の仕事に就いているとルークは言っていた。彼女について行けばそれが真実かどうかわかるかも知れないと、サミュエルは急いで小さな後ろ姿を追いかけた。
自分の半分ほどしかない身長の人影が、夜の倉庫街を駆けていく。角を曲がるのを見て、サミュエルも同じ角を曲がると、スカートの裾がひらりと一つの大きな倉庫へ飛び込んで行くのが見えた。
「シャッターが開いてる……」
半分ほど上がった状態で放置されているシャッターを見上げてから、中を覗くと、暗がりの中に小さな影があった。だがそれ以上に、サミュエルの目を引くものが闇の奥で蠢いていた。
「な……ッ!?」
倉庫の奥の壁に、べったりと張り付いた黒いタール状のなにか。それに無数の人の顔が浮かび上がっている。人面たちはそれぞれ苦悶の声を漏らしたり、狂ったように笑い続けたり、同じ言葉を繰り返したりしている。男の顔も女の顔もあり、老人から若者まで年齢も様々だ。
「き、君っ! 此処は危険……うぐ!?」
倉庫入口からサミュエルが叫んだときだった。突然背後に引っ張られ、喉がぐっと締まった。目を白黒させながら背後を見ると、其処には険しい顔のルークがいた。
「ルーク! 大変なんだ、中にジャンク屋さんで見たあの子が……」
「うるせえ! さっさと離れるぞ!」
鋭い剣幕で怒鳴りつけながらサミュエルの訴えを無視して手首を掴んで歩き出したルークが信じられず、サミュエルは思わず掴まれている手を振りほどいた。
「何故立ち去るんだ! 女の子が一人取り残されてるんだよ!?」
「取り残されてるだぁ!? いい加減テメェの物差しで下層を測るのをやめろ!」
「ッ! 君は下層下層と卑下するけど、下層だって同じ城市じゃないか! 女の子を怪異の巣に放置するなんて、なにを考えてるんだ!」
「だァから! アイツは掃除屋だっつったろ! 言葉の意味もわからねえなら余計な真似すんじゃねえよ!!」
ルークの剣幕に一瞬たじろいだものの、サミュエルは己の正義に背くようなことは出来なかった。女性と子供には優しく。お年寄りには親切に。恩には恩を。そうしてしっかり教育してくれた両親を尊敬しているし、間違っていると思ったこともない。
「……僕は、僕の信念を曲げるようなことはしたくない」
ルークに背を向け、震える声でそう言うと、倉庫に飛び込んだ。瞬間。
べちゃり。
靴底が、不快な音を立てて地面に張り付いた。
「なんだ……?」
倉庫街に点在する灯りが、サミュエルの足元を照らす。
最初は、足元を含めて全てが暗いだけだと思っていた。
数秒ののち、暗いのではなく、“黒いのだ”と気付いた。
「これは……」
片脚を上げると、ねちゃりと粘着質な音がした。靴底と地面が粘つく糸で繋がり、まるでゴムが張り付いているかのように足が地面へと引き寄せられる。
足をつくと再びべちゃりと音がして、同時に頭上から同じような音が降り注いだ。首筋に張り付いたそれを手で拭うと、ずるりと皮膚が溶けて剥がれた。
「え、えぁ……?」
べちゃ、びちゃり。ぐちゃ。
ぼとり、ぼとりと、黒いものが降り注ぐ。
それらはサミュエルの体に纏わり付いて、覆い尽くして、塗り潰していく。痛みもなにもなく、サミュエルの体が黒い粘液へと沈んで行く。周りを白い顔と黒い粘液に取り囲まれていると気付いたときには、サミュエルもその一部となっていた。
「せっかく連れ出してもらったのに、なんで戻って来たですか」
呆れたような幼い声が、上から降ってきた。
見上げてみれば、サミュエルの半分ほどしかない身長だったはずの少女が、正面でサミュエルを見下ろしていた。
「あ、ぇう、あぁ……どう、して……ぼく……ぁ……うぉえ。ああぁ」
少女が突然巨大化したのではない。
サミュエルの体が、半分以下まで“溶けて”しまっているのだ。
手を伸ばそうとしても、その手が存在しない。声を出そうとしても、喉が殆ど黒いナニカに埋もれて音にならない。思考しようにも、後頭部の大半が溶けてしまった。
それでも少女はサミュエルの言わんとしたことをくみ取って、肩を竦めた。
「助けに来た、ですか。怪異どころか下層への理解もない人間が、どうしてです? 頼んでないですし、彼は止めたはずです」
「ぁう、あー……う、あぇえ……」
最早赤子が漏らす喃語に等しい音を漏らすばかりになったサミュエルの顔に、長い柄を振り下ろして濡れたモップを叩きつける。
「ギャッ!?」
ジュッと焼け石に水滴を落としたような音がして、サミュエルの周囲の黒い液体が蒸発した。最早顔面しか残っていないサミュエルは、最後に一つ呻き声らしきものを漏らして、水に溶けて消えた。
「郷に入っては郷に従えって言葉、中層では習わないですかねー」
最後に一度モップで大きく円を描くと、怪異の残滓も水によって蒸発させられた。
「お掃除完了です」
感情のこもらない声で一言言うと、掃除屋の少女はモップを片手に倉庫を出た。
少し離れたところで立ち尽くしていた青年は、入口付近で起こっていた一部始終を見てしまった。サミュエルが怪異に飲み込まれていくところ。体が溶けて黒い粘液に変異していくところ。言葉にならない声を漏らしながら死んでいったところ。全てを見ていた。なにもせず、ただ呆然と見ていた。
少女は青年に一瞥もくれずに、倉庫街を去って行く。
人の気配が亡くなった頃、青年はやっとふらりと足を踏み出した。
「だから……言ったじゃねぇか……」
サミュエルがいた辺りに膝をつき、乾いた目でコンクリート製の地面を見下ろす。所々に罅が入ってはいるものの、トラムの駅とほぼ同時期に建てられたものだからか古くささや汚れは然程見られない。
ふと、視線の先に小さな紙切れが落ちていることに気付き、摘まんで拾った。
「中層、第三層二区行き……これは」
恐らくサミュエルが持っていた帰路の切符だろう。彼は中層の最上層、最も治安が良いとされるエリアの住民だったのだ。
「これがあれば、中層に行ける……」
そう思ったのは一瞬で、青年は悔しげに歯噛みすると、切符をバラバラに千切り、紙吹雪のように投げ捨てた。
漠然としていた中層への憧れは、実際に中層で暮らしている人間と接したことで、現実的な壁となって立ち塞がった。夢でしかなかった幻想が打ち砕かれた。
自分が中層に行ったところで、サミュエルが下層で繰り返した失態を、逆の立場でやらかすだけだと思い知ったのだ。
「俺にはあんな、あんな世界が常識だなんて、思えそうにねえよ……」
誰もが身ぎれいで、当たり前に両親が居て、子供は学校に通っていて、大人たちは定職に就いていて、道端に浮浪者が落ちていることもなく、路地裏に怪異が蔓延っていることもなければ、本物の果実やチョコレートがその辺で手に入る。
そんな世界、きっと息が詰まってしまうから。
ガラクタと空 宵宮祀花 @ambrosiaxxx
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