同じ人間
下層の入り組んだ路地を歩きながら、ルークはポケットから折り畳んだ紙を一枚、取り出して広げた。青空が描かれた、絵本の一ページだ。
「なあ。お前、空を見たことあるか?」
「空? あるけど……どうして?」
「中層の空って本当にこんな色してんのか?」
広げた紙を見せると、サミュエルは「うん」と事も無げに頷いた。なに当たり前のことを訊くのかといった調子だった。
「下層じゃ空なんか見えねえからな」
「そうなんだ。まあ、だいぶ深いところにあるみたいだからね。ああ、そうだ。君の目の色……鮮やかな朱色は夕暮れの空の色に似ているよ」
「は? 空って色変わんのか?」
驚くルークに、サミュエルは一瞬当たり前だろうと返しそうになった。が、今し方空が見えないと言われたばかりだとを思い出し、見えなければ知る機会もないことに思い至って口を噤んだ。
「あ、じゃあ、お前の目は昼間の空の色ってことなのか」
「ふふ。そうだね。改めて言われると照れるけど……似てると思うよ」
ルークは何故サミュエルが笑ったのかわからず首を傾げるが、すぐにまあいいかと思い直し、話題を変えた。
「そういやお前、なんで護衛を雇わなかったんだよ。金ならあるんだろ?」
「? だって、住んでる地域が違うだけで住民は同じ人間だろう?」
当然のように言い切られ、ルークは一瞬自分が間違ったことを言ったのかと思い、返すはずだった言葉を見失った。中層の人間と自分たちが同じ人間だと思ったことは過去一度だってない。サミュエルと出会ってから、それは確信に変わった。まともな環境で育った人間は、自分たち下層民とは別種の生き物だと。
「同じ人間、ね……」
小さく呟き、周囲に視線を巡らせる。
周りの人は誰一人としてまともな服装をしていない。荒れた肌と枯草のような髪。ドブ底の泥を煮詰めたような澱んだ目をした浮浪者が、そこかしこに転がっている。中層育ちのお綺麗な人間があれと自分を同じだと言うのは、傲慢の一言に尽きる。
だがルークはなにを言っても無駄だと諦め、それ以上は追求しなかった。
「此処だ」
ジャンクプール脇の裏路地にあるジャンク屋につくと、サミュエルは興味深そうに辺りを見回した。壁や天井を走るゴチャゴチャとした配管も、天井付近まで聳え立つ金属製の棚を埋め尽くすガラクタの山も、全てが物珍しくて仕方ないといった様子で見入っている。
「置いてくぞ」
「あっ、ごめん」
先行して奥へ向かうと、その後ろをサミュエルが慌ててついてきた。それを気配で確かめつつ、カウンターを目指す。すると先客がいたらしく、店主の話し声がした。
割り込むほどの用でもないため、棚の傍で先客とのやり取りを眺めつつ待つことにする。どうやら先客は十歳前後の少女のようだ。チャイナ襟のメイド服を着ており、手には彼女の身長より柄の長いモップ、腰には飯ごうのような形のバケツが下がっている。見たところ、下層の掃除婦だろうか。
「はいよ、いつもの」
「ありがとうです。
「ああ、いまんとこ札が効いてるからな」
「それじゃあ、シャオは上に戻ります」
先客の少女が振り向き、サミュエルとルークを視界に入れると、ぺこりとお辞儀をして脇をすり抜けていった。
「いまのは……?」
「掃除屋だ」
「えっ、でもあの子、初等科に通う年齢に見えたけど」
「そんなもんが下層にあるわけねえだろ」
今度こそ苛立ちを隠さずに言うと、サミュエルはぐっと押し黙った。その顔には、中層民らしい憐憫や同情が映っていて、ルークは忌々しげに舌打ちをした。
「もういいだろ。店まで案内してやったんだから、お使いくらい一人でやれ」
「あっ……!」
背後からサミュエルの声がしたが、振り切るように走り去った。
案内している最中も、彼との感覚の違いにいちいち苛々していた。一方的に相手の言い分が癇に障る自分にも苛ついて仕方がなかった。
彼は恐らく、真っ当な両親に大事に育てられたのだろう。まともな教育を受けて、まともな環境で育ったまともな人間。だから、下層のドブ漬けのような住民を見ても「君も僕も同じ人間なのだから」などと生ぬるいことが言えたのだ。
本気で中層の人間と下層の人間が同じ種類の生き物だと思っているなどと。それは上から見下しているからこその思考だ。下層に住んでいる人間は、誰一人中層以上の人間と自分たちが同じだなどと思わない。考えもしない。
あまりにも傲慢で、それを傲慢だと夢にも思っていない。純粋で悪気のない毒だ。人に不釣り合いな光を押しつけた辺りから、そんな予感はしていた。最早分不相応な名前を名乗る必要はないと、首を振って眩しすぎる名前を振り切る。
「……やべ、自分の買い物忘れてた」
無意識のうちに自宅へ向かいかけていた足を止め、商店通りへ進路を変える。新旧様々な店が建ち並ぶ雑多な路地を歩いていると、後ろからポンと肩を叩かれた。
「あ? んだよ、お前か」
背後にいたのは、昼間別れたばかりの友人だった。
パサパサの金髪と片方だけのサイバーアイが特徴の、仕事仲間でもある男だ。
「何だとは何だよ。てかお前がこんな時間に外歩いてんの珍しくね?」
「……一回買い物忘れて帰ったんだよ」
「ぶはっ! なんだそれウケる」
一頻り腹を抱えて笑ってから、友人は急に真面目な顔になって声を潜めた。
「そうだ。第三商業区廃倉庫付近で大型怪異の目撃情報があったから、近付くなよ。掃除屋が彷徨いてるらしいから、明日には片付いてるだろうけどさ」
「第三商業区ゥ? トラムに乗るわけでもねえのに、んなとこ寄らねえよ」
「そりゃそうだけど。お前、昼間あんなこと言ってたからさあ。駅前までならタダで行けるし」
「乗れねえトラムなんか眺めてても虚しくなるだけだろ。ま、忠告は受け取っといてやるよ」
じゃあな、と手を振って去って行く友人を見送り、青年は今度こそ加工食品を主に取り扱う食品店でカロリーブロックをいくつかと水を購入した。
それらをポケットにねじ込み、帰路につく。青年にとっては馴染んだ、入り組んだ道を泳ぐように進む。中層がどんなところかは知らないが、少なくとも車がその辺を走っているということは、路地はこんなに細くはないのだろうと取り留めなく思う。
日が暮れてくると、こんな街でも昼間はまだ明るかったのだと実感する。
路地裏が闇に閉ざされ、その一方で、繁華街が昼間以上に気合いの入ったギラつくネオンに塗れる。道行く獲物を商売女たちが刈り取っては、毒々しい色の店内へ次々取り込んでいく様は、まるで食虫植物が羽虫を喰らうかのよう。
こういうとき、青年は彼女らにとって魅力的でない人間で良かったと思うのだ。
自宅につく頃にはすっかり日も沈みきる時間帯で、住宅区は静まり返っていた。
商業区や情人街、八層にあると噂の情人路などはこれからが本番とばかりに酒気を帯びて賑わうのだろうが、それは青年には無縁の世界だ。
林檎風味と書かれた加工食品を囓り、水で流し込む。
一本食べ終わり、残りを明日の朝食に取っておこうとしまい込んだところで、ふと勢いのままジャンク屋に残してきたサミュエルのことが過ぎった。
彼は帰路を把握しているだろうか。明日になったら身ぐるみ剥がれた死体になって路地裏に転がっているのではないだろうか。そんな思いが張り付いて離れない。
「…………クソッ!」
舌打ちをして立ち上がり、パーカーを引っかけて外に出る。
住宅区は殆ど人出がなく、商業区が近付くにつれて懐かしい雑踏が蘇っていく。
第三商業区のトラム専用コンテナがある倉庫街近くまで来ると、見覚えある背中が倉庫のあいだに消えていくのが見えた。
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