小説

祇光瞭咲

***

 集中が遠退いたのをきっかけに、静かな川の音を耳が捉えた。鼻が温泉の匂いを思い出す。硫黄ほど癖はなく、むわりと全身を包むまろやかな蒸気の匂い。

 幸之助こうのすけが手を止めて、微かな匂いに鼻を動かしていると、慎重な足音が廊下の方から聞こえてきた。カチャリと陶器の鳴る音もする。

 間もなく、襖の向こうから愛らしい声が掛かった。


「先生、お茶とお菓子をお持ちしました」


 せんせ、という舌ったらずな話し方は、この旅館の主人の娘、文子ふみこのものだ。


「ああ、文ちゃん。ありがとう」


 廊下に膝をついた文子は、襖を開けると一礼して盆を取り上げた。座卓に向かう幸之助の方向へ、そろそろと足袋を進める。

 黒いおかっぱ頭のよく似合う、色の白い娘だった。歳は十三になると聞く。いつも赤い小花柄の着物を着て、頭の後ろに大きなリボンを結っていた。唇は緩やかに弧を描き、頬は林檎のように朱に染まっている。

 けれど、幸之助は文子の瞳の色を知らなかった。

 文子は目が見えないのだ。生まれつきのものだという。


「そう、そこ。左に置いてくれるかい」


 幸之助は茶器を並べる文子を手助けしながら、卓上に広げた原稿用紙を脇に退けた。紙の擦れる音に文子が首を傾げる。


「お邪魔してしまったかしら」

「いいや、大丈夫だよ。ちょうど切りのいいところだった」


 文子は薄っすらと微笑んだ。


「原稿は進みましたか」

「そうだね。もうすぐ書き上がるかな」


 日露戦争での負傷を機に退役した幸之助は、故郷である新潟へ帰らず、旅をしながら小説をしたためる生活を選んだ。南へ、南へと足が向いたのは、おそらく戦地で変わってしまった自分を故郷に持ち帰りたくなかったのだろう。その想いは作風にも表れていて、どこでもない世界のお伽噺のような作品ばかりを綴っている。

 幸之助がこの地へと流れ着いたのも、そんな旅の果てであった。地元の出版社が彼の作品を気に入り、一本書いてみないかと声を掛けてくれたのだった。その原稿を書き上げる間、幸之助はここで宿を取っている。


 二週間に渡る滞在で、幸之助は文子と仲を深めた。といっても、幸之助から見れば文子はほんの子供だ。子守をするような気持ちで、旅先で見聞きしたことを話してやっていただけである。

 だが、文子の方は違ったらしい。彼女は作品が完成する、すなわち幸之助がここを発つ日が近づいたことを知り、表情を曇らせる。


「もうすぐ、ですか」

「そんな顔をしないで。本が出来上がったら送るから、女将さんに読んでもらうといい」

「そうですね……」


 文子は精一杯表情を取り繕うが、幸之助は申し訳ない気持ちになる。きっと自分も複雑な顔をしているだろうと自覚して、彼女にこちらの表情が見えないことに安堵してしまった。

 居たたまれない沈黙が流れる。幸之助は湯気の立つ茶碗へ目を遣った。


「先生」


 突然、文子は決心したようにお盆を胸に抱き締めると、幸之助に向かって身を乗り出した。


「小説とは、どんな風に書くのですか」

「どんな風にだって?」


 唐突な質問に、幸之助は些か驚いた。文子はいたって真剣である。


「文は小説を書いてみとうございます」

「それは素敵なことだけど――」


 目の見えない文子に、文字を書くことは難しい。口述筆記ならできるだろうが、あれはなかなか根気のいる大変な仕事なのだ。少女の遊びに付き合ってくれる者が現れるとは思えない。点字で書くという手もあるだろうけれど、生憎文子には点字を学ぶ機会が得られそうもなかった。

 結局、幸之助はそれ以上言うことができずに、曖昧に言葉を濁した。


「そうだな。小説を書くときは、想いを言葉にのせるんだ。他の何よりも、まずはそれが大事だよ」


 我ながら陳腐な言葉だと思った。本当は、構成だの題材だのと考えるべき厄介なことが沢山ある。けれど、それを逐一文子に説明するのは意味がないと考えた。

 しかし、文子は熱心に頷いていた。


「想い、ですね。わかりました」


 文子は立ち上がると、思い切ったように口を開いた。


「あたし、小説を書きますから。出来上がったら、きっと読んでくださいね」

「あ、ああ」


 幸之助は彼女の気迫に圧されながら頷いた。


***


 そんなやり取りの数日後。

 幸之助が宿を発とうというときに、玄関口で女将が封筒を差し出してきた。


「すみませんねぇ、文子が顔を見せなくて。先生にお別れするのが寂しいって、部屋に籠っているんですよ」

「いえいえ。寂しいのはこちらも同じですよ。くれぐれも文ちゃんによろしくお伝えください」


 そう言って、幸之助は封筒を受け取り、深々と頭を下げた。

 幸之助がその封筒を開いたのは、海へ向かう列車の中だった。


「これねぇ、文子が小説を書いたって言うんですよ。先生に渡してくれって」


 と、女将は言っていたが、封筒に厚みはない。小説を書いたというならば、もう少し厚みが出るものではないだろうか。


 半信半疑で封を開く。中には、やはり、紙が一枚だけだった。

 折り畳まれたそれを開く。

 途端、幸之助は息を呑んだ。


 そこには不格好な毛筆で、たった一言、こう記されていた。


『 先生 』


 小説を書くには想いを言葉にのせることだ、と幸之助は言った。文子は教わった通りに、慣れぬ筆を走らせたのだろう。探り探りで、滲んだ筆先のひとつひとつに、彼女の想いが詰まっている。


 嗚呼。

 これは確かに小説だ。


 幸之助は顔を覆った。

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