進撃の期末

神崎諒

進撃の期末

 公立錦沢高校、一年C組。一限目が終わり、二限目は九時三十分から始まる。教室の雰囲気は一見いつもと変わらない。俺と同じ野球部の福地はバスケ部次期主将と噂される豪上に腕相撲をしかけては、負けている。華の三トリオ(と呼ばれているのだが、三とトリオは同じ意味であって、『頭痛が痛い』と同じくらい、バカなことをいっているのではないか、と内心、俺は思っている……)である、リーダー格の伊吹あやね、あやねの右腕・島崎香織、左腕・乙坂唯、が朝シャンの香りをばらまき、男どもをうっとりさせている。普段なら俺もその輪のなかでうっとり見惚れているのだが、今日だけは、わけが違った。腹の底から胃液が逆流してきそうなほどの不快感とノイローゼに襲われていたのだ。他にも自分と同じようなやつがいないか、とあたりをそれとなく見回してみるのだが、は見つからない。一瞬、それか、と思われる西野は机上で淡々と一人、武者小路実篤と対峙している。「彼がトルストイの思想にかれたのと同様、私が彼の文学に惹かれたのもまた、れ天命、なりや」とは、西野の言葉だ。西野は、ずれ落ちたメガネを左手の親指と中指で持ち上げてから、ページをめくった。……むしろ、あいつとは対照的なんだろうな、と俺は思う。

「はい、きりーつ!」

 英語科の小野田先生が勢いよく教室に飛びこんできた。左脇ひだりわきを抱えている。

 号令もほどほどに、俺は着席した。

 小野田先生はブツとマイチョークケースを教卓に置いていった。

「あのーさ。俺、あんだけいったよね、『ここは、出します』って。それなのに、こんだけ取れないってことはさ、これどういうこと?」

 みんな、徹夜だからです! というやつは、もちろんいない。

「先生、ちょっとガッカリです、この結果はさすがに。まず全体の平均が五十三点、でこのクラスの平均が五十点、ぐらいだったかな、確か」

 先生が全体平均をいった瞬間、俺は(おそらく)東大王の井川拓司も顔負けのはやさで赤点ラインを脳内計算ではじき出した。平均点に0.6をかけて小数第一位を四捨五入する……三十二点だ。つまり、俺の答案に赤で三十三以上の数字が刻まれていれば、俺はまだ

「最高点は、九十六点、次点が八十九点で……」

 そんなことは、どうでもいいのだ。俺には甲子園の地方予選がかかっている。もし、この学期末試験で一つでも赤点を取れば、俺は全国はおろか、地元の予選にさえ出られなくなる。今までの血のにじむような努力が全て水の泡になる。『文武両道を大切にしたい』、それが顧問の松岡先生の方針なのだ。俺がいなくなったらどうなる? 九番バッター・レフト(補欠)、ベンチの暖め役、一体他に誰が務めるというのか。適任は俺しかいないだろう? 

 ……だから頼む、小野田先生。俺を甲子園へ連れていかせてくれ。


「……と、だらだら話しましたけれど、とりあえずテストは返します。ですが、自分がどこができなかったのか、自分に何がたりないのか、それをしっかり皆さんで考えて復習してください。じゃあ、テストを返します。赤石君……」

 答案返却が始まった。俺の苗字は矢中、クラスで一番最後に呼ばれる。

「おし! 赤、回避~」

 後ろの席の福地が答案を手に喜びの声を上げていた。

 名簿の読み上げは、まるでカウントダウンだ。それも年末にするような楽しいものではない。自分の命運がかかった、命がけのカウントダウンだ。

 心臓の鼓動はどんどんはやくなり、丸刈りの頭からじんわり汗がにじんだ。背中が火照ほてってワイシャツが熱をおびている。

 「……、矢中君」

 俺は席を立ち、答案を持つ先生のもとへ向かう。

 受け取った答案をすぐにはひらかなかった。席に座ってからこっそり見るのだ。

 ゆっくり点数部分をひらいた。自分にしか見えないようにひらいた。三十二点だった。

 さっと、血の気がひいていくのを感じた。その瞬間、俺の甲子園は終わった。

 前から回された模範解答を受け取り、自分の答案とにらめっこする。だが、採点ミスはどこにもなかった。


「矢中、おまえ……」

 後ろの席から福地が矢中に声をかけたが、矢中にその言葉は届いていなかった。

 矢中の背中で福地は察した。

「まぁ、まだ一科目目だからさ。俺からも松岡先生にいっておくって」

 福地の励ましは、どん底の矢中にはどうしても届かなかった。

「採点ミスとかあれば、今だけ受け付けるので、なにかあった人は持ってきてください。わかっていると思うけれど、答案のコピーもとってあるから、改ざんとかは、するなよ?」

「矢中……」

 矢中は自分の答案をたたみ、静かに目をつむった。

「おい、おい、ご臨終かよ?」

 福地の冗談についていけるほどの精神状態ではなかった。

 答案の採点ミスを訂正するために五、六人の生徒が並んでいた。中には一点でも点を上げようと先生に詰め寄るやつもいたが、おれはそんな無様ぶざまなことはしない。

「福地……」

 のどからようやく出た声はかすれていた。

「福地、すまん。俺、甲子園いけねぇわ」

 福地は矢中の妙に伸びきった背中を見つめていた。

「なんか、バカらしくなるよな。あんだけ夜遅くまでグラウンドで声出しして、球拾いして、声出しして、球拾いして……。それが、こんなペラ一枚で帳消し、なんてさ」

「べ……勉強は、したんだよな?」

 矢中は無言で首をよこに振った。

「わかってる、自業自得だって。でもよ、あと一点だぜ……? そりゃあ、野球でも一点は一点だ。負けは負けだよ。でもこれじゃあ、あきらめつかねぇだろ……」

 矢中は天井を見上げた。その片目から涙が一滴こぼれた。

 福地はいった。

「確かに甲子園もあるけどさ、矢中、補欠だぜ?」


「かあさんに、なんて言おう……甲子園行けなくなった、っていったらどんな顔するか」

「矢中、聞いてる? それに、まだ予選だから、甲子園行き、決まったわけじゃないけど。それから、その、お母さまには、こう言え。『勉強をしていなかったボクが悪いんです』って」

 矢中は福地の方を振り向いた。その目は涙で血走っていた。

「そんなこと、いえるわけ、ないじゃない?」

 二人の間に、長い沈黙がながれた。


「よぉーし!」

 豪上の野太のぶとい声が教室に響いた。

「すみません、大問五の問二ですけれど、今、豪上君からご指摘があったように、下線部の『this merits』が複数なのに、解答の選択肢では二番だけが答えとなっていました。なので、一番から三番までいずれかでも書かれていれば、今回は、まる、とします」

 矢中は自分の答案を見た。大問五、問二……。そこには『一』と書いたうえから赤ペンでチェックがつけられていた。

 矢中は福地の方を見ていった。

「どうやら、神は、俺を見捨てなかった……らしいぜ」

 小野田先生は、ざわつく教室に声が届くように声を張り上げていった。

「採点ミスがある人は来てください、二点差し上げます」

 矢中は答案を手にして立ち上がり、小野田先生のもとへ向かった。その背中は、浦沢直樹原作の二十世紀少年で、細菌兵器をばらまく巨大ロボットに立ち向かうために立ち上がった戦士たち、のように福地には見えた。

 最後尾に矢中は並んだ。自分の番が来て、こっそり答案をひらいて小野田先生に見せた。なるべく穏便に、ことを済ませたかった。

「おい、矢中、お前赤点かよ?」

 豪上だった。採点直しが終わった豪上が矢中の答案をのぞき見ていた。

「おい、みんな、こいつ『赤』だぞー」

「ちょ、お前、マジふざけんなって」

 小野田先生は赤のチェックに二重線を入れて、まるを付けた。 

「え? ていうか、お前、そこの問四、ミスってんじゃん」

 大問五、問四、矢中の答案には『which』とあるが、豪上が見せた答案には『whose』と書かれていた。どちらの答案にも、まるが付いていた。

 矢中は自分の答案と模範解答を照らし合わせた。解答には『whose』と書かれていた。豪上が正しかった。だが、このままだと、二点プラスの二点マイナス、プラマイゼロで、俺は依然、赤点どまりだ。小野田先生はまだ気づいていなかった。

「せんせーい」

 豪上は、うすら笑みを浮かべていった。

「ちょ……ちょっと待ってくれ」

 矢中は豪上に詰め寄った。


「いいか、もしここで、お前、いや、豪上くんが俺の、その、それを指摘したとするだろ。それで一体だれが得をする?」

「そんなの、楽しいからに決まってるだろ」

 豪上は、厚い顔の皮膚をゆがませて笑みを浮かべた。

 教室中のクラスメイトが矢中と豪上に注目していた。

「ここで点が減れば、俺は赤のままだ。そうしたら、顧問の松岡先生はどう思う? きっとこう思うだろう。『……やっぱりな』って。勉強が大の苦手で有名な俺だ、無理もない。だが、どうだろう……」

 俺は唾をのみこみ、さらに豪上に詰め寄って、すがるように両手でワイシャツをつかんだ。

「だが、どうだろう。もし、ここで豪上くんがそのことを言わずに、地上から垂らしてくれた一本の糸を俺が登りきれば、俺は赤じゃなかったことになる。なあ、豪上くん、わかるだろ?」

 俺は膝立ちで豪上にすがった。

「きみが釈迦、俺がカンタ、なんだよ……」


 豪上はため息をついた。

「お前さ、もうちょっと、まわりを見ろよ」

 豪上は列の後続に控えた、たくさんのクラスメイトのほうを指さした。

「たとえ、ここでお前、いや、矢中くんの得点が上がったとして、だ。この問題は小野田先生の採点ミス、つまり、全員が得点することになる。すると、どうなる? 全員の点が二点ずつ上がれば、平均もまた二点上がる。結局、矢中くんは赤のままなんだよ。そうですよね、小野田先生?」

 小野田先生は頭を掻いた。

「この問題以外にも、採点ミスで点が上がった子はいたから、大体、そうなるかもな」

 豪上は自分の答案を指さしていった。

「もちろん、俺もこのあと上げてもらうつもりだ、二点」

 豪上のワイシャツをつかんでいた俺の両手は滑り落ち、俺は地に崩れ落ちた。

「そ、そんな……」

 俺は生まれたての小鹿のように、ふらつきながら立ち上がり、後続に向けていった。

「おい、この中に一体、同輩は何人いるっていうんだ? この試験で赤なんて、俺ぐらいなもんだろ? 別に二点上がったくらいで君たちには、ただの得点に変わりない。でも、俺にはな、かかっているんだよ、甲子園が。この二点は俺のものだ。座れ、座れ!」

 生徒は矢中の無我夢中な姿に驚きながらも、席に戻ることはなかった。

 そのとき、席に座っていた西野がメガネを指で押し上げながらいった。

「あの、ぼくはこのままでいいよ。確かに点は上がるけれど、そこまでいうなら、ぼくは別に」

 西野の一言にクラスがざわついた。

 続けて福地がいった。

「もしかして、矢中、ただ予選に行って授業休みたいだけなんじゃ……」

 騒然とする教室内を一喝するように小野田先生がいった。

「はい、今回赤点の人とか、あまりふるわなかった人には補講と追試がありますから。そちらで頑張ってください」


 俺は席に戻り、答案をぐしゃぐしゃに丸めた。



  *



 それから三年ほど経ち、俺は無事、新社会人になった。相変わらずつらいことは多いけれど、あの頃のように誰かが確認のために試験をしてくれることもなければ、追試をしてくれることもない。それが恵まれたことなのか、みじめなことなのか、それにはもう少し社会人を頑張ってから、答えを出したいと思う。


 

 

 

 

 


  

















 











 

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