【身分差百合短編小説】月光の誓い ~ふたりの少女の約束~(約6,400字)
藍埜佑(あいのたすく)
【身分差百合短編小説】月光の誓い ~ふたりの少女の約束~(約6,400字)
## 第1章 出会い
ロンドンの東部、テムズ川に近いホワイトチャペル地区。煤けた路地の奥から、軽やかな足音が響いてきた。
「待ちなさいよ、この泥棒猫!」
少女の声が石畳の上を転がっていく。声の主は、汚れた白いエプロンをつけた14歳ほどの少女だった。茶色がかった金髪を後ろで一つに束ね、薄い生地のワンピースは所々に継ぎが当てられている。彼女の名はメイベル・ローズ。スラム街で暮らす孤児の一人だ。
メイベルが追いかけているのは、パン屋から一枚のパンを盗んだ野良猫。決して豊かとは言えない暮らしの中で、パン屋の主人から時々恵んでもらえるパンは貴重な食料だった。それを盗まれるわけにはいかない。
「あっ!」
路地を曲がった先で、メイベルは思わず足を止めた。そこには見たことのない光景が広がっていた。高級住宅街との境目に当たるこの場所に、優美な鉄柵に囲まれた洋館が佇んでいる。朝もやの中にその姿を浮かび上がらせた館は、まるで異世界の城のようだった。
そして、その館の庭で一人の少女が本を読んでいた。
銀色がかった金髪を優雅に肩まで伸ばし、深い青の上質なドレスに身を包んだ少女。真っ白な肌は陽の光を受けて輝いているように見える。メイベルと同じくらいの年齢だろうか。
メイベルが見とれていると、野良猫は優雅な足取りでその庭に入り込んでいった。
「まずい……!」
メイベルは焦ったが、既に遅かった。猫は庭の少女の足元まで歩み寄り、盗んだパンを少女の前に置いた。
「あら……」
少女は本から顔を上げ、猫を見つめた。その瞬間、メイベルは息を呑んだ。少女の瞳は、まるで月光を閉じ込めたような銀色をしていた。
「これは……どなたかのものかしら?」
少女は立ち上がり、辺りを見回した。そしてすぐに、路地に立ち尽くすメイベルを見つける。メイベルは逃げ出そうとしたが――
「待って、お願い」
その声には、どこか切実なものが込められていた。メイベルは思わず足を止めた。
「こちらへ来てくださらない? ……怖くないわ」
少女の微笑みには、どこか寂しげな影が宿っていた。メイベルは躊躇いながらも、鉄柵の門まで歩み寄った。
「私の名前は、エヴァリン・ナイチンゲール。あなたは?」
「メイベル……メイベル・ローズです」
身なりの悪い自分を、エヴァリンは少しも嫌な顔をせずに見つめている。
「メイベル……素敵なお名前ね。このパン、あなたのもの?」
「ええ、まあ……」
メイベルは正直に説明した。パン屋での出来事と、猫を追いかけてきたことを。
「そう……ごめんなさい。私の家の猫なの。最近、近所で食べ物を盗むくせがついてしまって……」
エヴァリンは申し訳なさそうに謝った。そして、ドレスのポケットから小さな財布を取り出す。
「これで、新しいパンを買ってください」
差し出された銀貨は、メイベルが今まで見たこともないほど大きな額だった。
「い、いいえ! そんなに要りません。それに……」
「お願い、受け取って。それと……また会えたら、嬉しいわ」
エヴァリンの銀色の瞳が、真っ直ぐにメイベルを見つめていた。その瞳には、どこか懇願するような色が混ざっている。
「……分かりました。ありがとうございます」
メイベルが銀貨を受け取ると、エヴァリンは心から嬉しそうに微笑んだ。その笑顔は、朝もやを透かす陽の光のように温かかった。
これが二人の出会いだった。まだ誰も、この出会いが二人の運命を大きく変えることになるとは知らなかった。
## 第2章 近づく心
その日以来、メイベルは時々エヴァリンの館を訪れるようになった。最初は、借りた銀貨のお返しをするためだった。しかしエヴァリンは、メイベルが持ってきたお金を受け取ろうとしない。
「代わりに、お話相手になってくれないかしら?」
エヴァリンの提案は、メイベルにとって予想外のものだった。しかし、彼女の寂しげな表情を見ていると、断ることができなかった。
そうして始まった二人の密かな交流。エヴァリンは、家庭教師が来る時間以外はいつも一人で過ごしているという。両親は海外で仕事をしており、めったに帰ってこない。使用人たちは皆、彼女に対して礼儀正しく接するが、決して打ち解けることはない。
「メイベルは……本当に自由ね」
ある日、庭のベンチで二人が並んで座っていた時、エヴァリンはそうつぶやいた。
「自由? 私が?」
「ええ。行きたい所へ行けて、好きなことができて……私なんて、この館の中でお人形みたいに暮らしているだけ」
エヴァリンは空を見上げた。秋の透明な青空が、彼女の銀色の瞳に映り込む。
「でも、エヴァリンはいつも綺麗な服を着て、美味しいものを食べられて、素敵な本もたくさん読めるじゃない」
「そうね……確かにそう。でも、それだけじゃ……」
エヴァリンは言葉を途切れさせた。メイベルは、彼女の横顔を見つめる。陽の光を受けた金髪が、まるで天使の後光のように輝いている。
「ねえ、メイベル。抱きしめて?」
「え?」
「お願い……少しだけ」
エヴァリンの声は震えていた。メイベルは戸惑いながらも、そっと腕を伸ばす。エヴァリンは、メイベルの胸に顔を埋めるようにして寄り添ってきた。
「温かい……メイベルの体、温かいわ」
エヴァリンの髪から、上品な薔薇の香りが漂ってきた。メイベルは思わず、その柔らかな金髪を撫でていた。
「エヴァリン……」
「他の人には言わないで。私、こんなふうに誰かに甘えたことなんて……一度もなかったの」
メイベルは黙ってうなずいた。エヴァリンの肩が小刻みに震えているのが分かる。彼女は泣いているのだろうか? それとも笑っているのだろうか?
二人はしばらくそうしていた。言葉を交わすでもなく、ただ互いの温もりを感じ合っていた。やがてエヴァリンが顔を上げると、その頬は薔薇色に染まっていた。
「ごめんなさい、突然こんなこと……」
「いいの。私も……嬉しかったから」
メイベルもまた、頬が熱くなるのを感じていた。
それから二人の関係は、少しずつ変化していった。エヴァリンは、メイベルに読み書きを教えるようになった。メイベルは、街で見つけた面白いものや珍しいものの話を、エヴァリンに聞かせた。時には、こっそりと館の裏庭から抜け出し、人気のない路地を二人で散歩することもあった。
「メイベルの髪、とても綺麗なのに、もったいないわ」
ある日、エヴァリンはメイベルの後ろに回り、その髪を優しくほぐし始めた。
「こうして、こんな風に編んでみたら……」
器用な指使いで、エヴァリンはメイベルの髪を美しく編み上げていく。
「ほら、鏡を見て」
差し出された手鏡に映ったのは、見違えるように美しく整えられた髪型だった。
「まるで、お姫様みたい……」
「そうでしょう? メイベルは、もっと自分の良さに気付くべきよ」
エヴァリンは満足げに微笑んだ。その笑顔に、メイベルの胸は温かさでいっぱいになった。
季節は冬に向かっていた。寒くなってきた夜、エヴァリンは密かにメイベルを自分の寝室に招き入れるようになった。
「寒い夜は、一緒に眠りましょう?」
エヴァリンのベッドは大きく柔らかで、メイベルが想像もしたことのないような贅沢なものだった。寄り添って眠る時、エヴァリンは必ずメイベルの手を握っていた。
「手を繋いでいないと、メイベルがいなくなってしまいそうで……」
囁くような声で、エヴァリンはそう告白した。メイベルは黙って、エヴァリンの手をぎゅっと握り返す。月の光が窓から差し込み、二人の姿を銀色に染めていった。
しかし、この穏やかな日々は、やがて大きな試練を迎えることになる。誰にも気付かれていないと思っていた二人の関係は、既に館の使用人たちの注目を集めていたのだから。
## 第3章 試練
冬の寒さが最も厳しくなったある日、メイベルが館を訪れると、いつもと様子が違っていた。門番が厳しい表情でメイベルを制止する。
「お嬢様はお会いできません。今後、あなたのような身分の者との付き合いは一切禁止されました」
「どうして……!」
「これは、ナイチンゲール家の執事からの厳命です。二度とここに来てはいけません」
メイベルは必死で説明しようとしたが、門番は聞く耳を持たなかった。やがて、館の中からエヴァリンの悲痛な叫び声が聞こえてきた。
「メイベル! メイベル!」
「エヴァリン!」
メイベルが駆け寄ろうとした時、複数の使用人が現れ、彼女を押しとどめた。
「お嬢様のためです。身分違いの交際は、お嬢様の将来に傷をつけることになります」
執事のウィリアムズは冷たく言い放った。エヴァリンの姿は、館の中に消えていった。
その日以来、メイベルはエヴァリンに会うことができなくなった。毎日のように館の周りをうろつき、チャンスを窺ったが、警戒は厳重だった。
しかし、ある月の明るい夜、メイベルは館の裏手で小さな石が投げられるのに気付いた。見上げると、二階の窓辺にエヴァリンの姿があった。
「メイベル……今夜、裏庭で会いましょう。深夜の零時に」
かすかに聞こえた囁き声に、メイベルは静かにうなずいた。
約束の時刻、メイベルは裏庭の低い塀を越えて忍び込んだ。月明かりだけが頼りの庭で、エヴァリンが待っていた。
「メイベル!」
駆け寄ってきたエヴァリンを、メイベルはしっかりと抱きしめた。
「ごめんなさい……私のせいで、こんなことに……」
エヴァリンの声は震えていた。月光に照らされた彼女の頬には、涙の跡が光っている。
「エヴァリンの責任じゃない。それより、大丈夫だった?」
「ええ。でも……両親が帰ってくるの。来月には家に戻ってきて、私を連れて行くって……」
エヴァリンの言葉に、メイベルは息を呑んだ。
「連れて行く? どこへ?」
「パリよ。向こうで、ふさわしい教育を受けさせるって……」
エヴァリンの声が途切れる。二人は黙ったまま、ただ互いを抱きしめていた。冷たい夜風が庭を吹き抜けていく。
「私、行きたくないの。メイベルと離れたくない」
エヴァリンの声には、決意が込められていた。
「でも、どうすれば……」
「逃げましょう」
「え?」
「私には母方の叔母がいるの。スコットランドの片田舎で、小さな洋裁店を営んでいるわ。きっと、私たちを匿ってくれる」
月明かりの中、エヴァリンの銀色の瞳が強い光を宿していた。
「でも、それじゃエヴァリンは……」
「構わないわ。私ね、気付いたの。本当の幸せは、こんな豪華な館で一人きりで暮らすことじゃない。メイベルと一緒にいられることが、私の幸せなの」
その言葉に、メイベルの目から涙がこぼれた。
## 第4章 決意
二人は慎重に計画を練った。エヴァリンの両親が戻ってくる前に、スコットランド行きの列車に乗る。エヴァリンは少しずつ現金を用意し、必要最小限の荷物をまとめた。
そして、ある霧深い早朝。二人は待ち合わせた場所で出会った。エヴァリンは普段の華やかなドレスではなく、質素な旅行着に身を包んでいた。
「本当に、いいの?」
最後の確認をするメイベルに、エヴァリンは迷いのない笑顔で答えた。
「ええ。私の人生だもの、自分で決めたいわ」
二人が駅に向かって歩き始めた時、突然後ろから声がかかった。
「お嬢様!」
振り返ると、執事のウィリアムズが立っていた。彼の背後には、数人の使用人の姿も見える。
「もう、逃げられませんよ。お嬢様をお連れします」
ウィリアムズが近づいてくる。その時、メイベルは咄嗟にエヴァリンの手を取り、路地へと駆け出した。
「追って!」
後ろから足音が響いてくる。二人は必死で路地を駆け抜けた。メイベルは、スラム街で育った経験を活かし、複雑に入り組んだ路地を縫うように進んでいく。
「はぁ……はぁ……」
エヴァリンの呼吸が荒くなってきた。普段から外を走り回ることのない彼女には、この逃走は相当な負担だったはずだ。
「もう少し! あそこに抜けたら……」
メイベルが指さす先には、朝もやの中にキングス・クロス駅の尖塔が見えていた。しかし、その時――
「きゃっ!」
エヴァリンが足を滑らせ、転んでしまう。その隙に、追っ手が迫ってきた。
「もう、諦めなさい」
ウィリアムズの声が冷たく響く。エヴァリンを取り押さえようとする手が伸びてきた。その時――
「エヴァリンは、自分の意志で生きる権利がある!」
メイベルは、全身の力を込めて叫んだ。その声には、今までの人生で培った全ての思いが込められていた。
「貴族だろうが、スラムの子供だろうが、誰にだって自分の人生を選ぶ自由があるはず! 私は……私はエヴァリンを守る!」
その声に、ウィリアムズは一瞬、動きを止めた。そして――
「……お待ちください」
静かな、しかし威厳のある声が響いた。霧の中から、一人の女性が姿を現す。エヴァリンは息を呑んだ。
「叔母様……」
そう、そこに立っていたのは、エヴァリンが頼りにしていたスコットランドの叔母、メアリー・ウィンザーだった。
「私からの手紙は届いていなかったようね、ウィリアムズさん」
メアリーは静かに語り始めた。彼女は既に、エヴァリンの両親と連絡を取り合っていたという。エヴァリンの置かれた状況を知り、彼女の新しい人生の後見人となることを約束したのだ。
「両親様が……承諾してくださったの?」
「ええ。あなたの幸せを第一に考えてね。ただし、条件がある」
メアリーはにっこりと笑った。
「私の店で、しっかりと働くことよ。そして……」
彼女はメイベルの方も見た。
「あなたも一緒に来なさい。腕のいい仕立て職人になれそうな素質を感じるわ」
朝日が霧を透かし始めた。新しい一日の始まりと共に、二人の新しい人生も始まろうとしていた。
## 第5章 新たな朝
スコットランドの小さな町、エアの郊外。色とりどりの花々が咲き乱れる庭の奥に、小さな洋裁店が建っていた。
「はい、完成です!」
メイベルが誇らしげに仕上げた白いドレスを掲げる。横でエヴァリンが感嘆の声を上げた。
「素敵! メイベルの腕前、本当に上がったわね」
「エヴァリンの描いたデザイン画が良かったからよ」
二人は笑い合った。あれから三年の月日が流れ、二人はすっかりこの町の暮らしに馴染んでいた。
メアリーの洋裁店は、二人の加入により一層の賑わいを見せていた。エヴァリンのデザインの才能とメイベルの技術は、見事な調和を生み出していたのだ。
「ねえ、メイベル」
仕事の後、二人で庭のベンチに座っていると、エヴァリンが静かに語りかけた。
「あの日、私を追いかけてきてくれて、本当によかった」
夕暮れの柔らかな光が、エヴァリンの横顔を優しく照らしている。
「私も、エヴァリンと出会えて本当によかった」
メイベルは、エヴァリンの手を優しく握った。
「ロンドンの館で、初めて会った時のこと、覚えてる?」
「ええ。あの時のエヴァリンは、まるでお伽話の中のお姫様みたいだったわ」
「でも、本当のお姫様は、メイベルの方だったのかもしれないわね」
「どういう意味?」
「私を救い出してくれた、白馬の王子様だったってことよ」
エヴァリンはくすりと笑う。その笑顔は、かつての寂しげな影を微塵も感じさせない。
「まあ、白馬じゃなくて、野良猫だったけれど」
「もう! あの猫のおかげで、私たちは出会えたのよ」
二人は再び笑い合った。庭に植えられた薔薇が、夕風に揺られている。
「ねえ、メイベル」
「なあに?」
「私たち、ずっと一緒にいられるよね?」
「ええ、もちろん」
メイベルはエヴァリンの肩を抱き寄せた。
「だって私たち、月に誓ったでしょう?」
空を見上げると、まだ薄明るい空に、淡い月が浮かんでいた。あの夜、二人で交わした約束を見守っていた月が、今また二人を見守っている。
「本当の幸せは、一緒にいられることなのよね」
エヵァリンの言葉に、メイベルは静かにうなずいた。二人の指が、そっと絡み合う。
庭の薔薇が、甘い香りを漂わせていた。それは、新しい季節の始まりを告げているようでもあった。
(終)
【身分差百合短編小説】月光の誓い ~ふたりの少女の約束~(約6,400字) 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi
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