スラム街の隣人

@Cafe_teria

第一話

 ある寒い冬の日のことだった。ショーウィンドウから漏れ出る光は暖かそうで、イルミネーションは地上に降りてきた星のようだった。人々は忙しなく道を行き交い、町は幸せな音楽で満たされていた。

 目の前を親子連れが通る。綺麗にラッピングされた大きな赤い箱を幸せそうに見上げる子どもを見つめる親の目は優しかった。最後にあの目を向けられたのは、いつだったろう。

 私も、あっち側に行けたなら。

 床にそっと目を落として白い息を吐く。モヤモヤがすぐに曇天の空に登っていった。深く息を吸い込むと、冷たいのとゴミ臭いのが肺をいっぱいに満たす。気持ち悪い。床はひんやりと冷たく、着々と私の体温を奪っていった。

 今夜は特別寒くて、気をつけなければ凍え死んでしまうかもしれない。肩にかけているボロ布をぎゅっと握って体を包んだ。足をできる限り体に近づけて、背中を丸める。お腹と足が触れ合って少しだけ暖かいような気がした。

 ビューっと冷たい風が路地裏を通り抜ける。髪が風になびいた。長い前髪が目に入らないように瞼を閉じる。髪があたって痛かった。

 しばらくそうやって寒さをしのいでいると、布からはみ出た足に雪の結晶が舞い降りた。空を見上げると、雲の中から溢れんばかりの雪が降ってきている。通りではしゃぐ子供の声が聞こえた。

 今夜が特別に寒かったのは、この雪を降らせるためだったのかな。

 栄養価の足りない頭で雪が降った理由を考えても、今夜を生き延びられるとは限らなかった。

 ガコンと近くで音が鳴る。首をほんの少し動かして見ると、薄汚い黒猫がゴミ箱の中身を漁っていた。黒猫は運良く生ゴミを引き当てたらしい。引っかかれた袋から出てきたのはバナナの皮だ。猫はそれを見つけるやいなや食べだした。バナナの持ち主はずいぶん勿体ない食べ方をしたようだ。まだ実がたっぷり残っている。

 いいな、私も食べておきたい。

 そう考えたとしても、黒猫に勝負を挑む体力はもう残っていない。黒猫から代わり映えのない石作の壁に視線を戻して、寒さを感じないよう思考をシャットダウンした。

 意識を引き戻されたのは、足に普段感じない温かさを感じたからだった。先程の黒猫が私の足先に乗っかって丸まっている。生物の体温が足を伝って、冷たかった足がじんわりとした。

 黒猫を撫でようと体を動かすと、黒猫はすぐに路地裏の奥へ逃げていってしまった。惜しいことをした。あのまま黒猫に足を暖めてもらっていればよかったのに。

 ふと、大通りの方を見ると人の流れを切ってこっちに向かってくる人影がいた。暖かそうでふわふわな服を着ている紳士が私の目の前に立って、カバンから紙に包まれた丸いものを私に向かって差し出した。

「メリー・クリスマス」

 その一言を添えて渡されたプレゼントは暖かかった。

 ボロ布が肩から落ちるのも気にせずに紳士からもらったものの包みを取ると、ふわふわのパンに挟まった平べったいお肉が現れた。久しぶりの食事。大きな口でかじると、幸せの味が口いっぱいに広がった。

 あっという間にそれはなくなった。まだお腹の減りは満たせていなかったけれど、それでも心と体はすっかり温まっていた。

 そのはずだったが、そんな淡い考えは隣にいる子を見て消え去った。隣りにいる子は、紳士から与えられた私と同じものを大事そうに見つめて、一口一口味わって食べていた。もっとちゃんと味わえばよかったと思うと同時に、あの子のが欲しいと悪魔が囁いた。

 だめだとは頭でわかっていても、限界が来ている本能に抗うことは難しい。頭を振って悪魔を追い出そうと試みたが、囁きは大きくなるばかりだった。

 今の私なら、あの子のを取っても逃げられる。

 そんな囁きさえ聞こえてくるようだった。

 あの子のが欲しい。どうしても、どうしても欲しい。欲しい、欲しい、欲しい。

 空腹と寒さでついに頭がおかしくなったのか、気づいたら私は隣の子のを手に持って路地裏を走っていた。白い息がたくさん出て、足がもつれそうになって、あの子の叫びが聞こえなくなった頃ようやく足が止まった。

 あがった息が落ち着くまでずっとその場で立ちすくんだ。肩が幾度か上がったり下がったりし、あの子のはすっかり冷たくなった。

 近くにある壁に寄りかかって、成果を口に入れた。紳士にもらったときよりもずっとずっと冷たく硬かったけれど、もらったときより美味しい気がした。施しではなく、自分の力で手に入れたものだからだろうか。

 紳士からもらったものが「ハンバーガー」だったと知るまでそう時間はかからなかった。あの夜から私は生き抜くためにたくさんの盗みをし、いろんな人を騙した。生きるためには綺麗事なんて言ってられなかった。今ではあの紳士のように温かいファー付きのコートを身にまとい、あっち側を歩いている。

 数年後のクリスマスの日、私はハンバーガーを50個ほど購入した。購入したと言っても、綺麗なお金では決してなかったのだけど。これもすべてこっち側の子どもにあげるためだ。紳士への恩返しなどではない。生きるために盗みをした私と同じようなことを覚えさせるためだ。仲間が欲しかった。

「メリー・クリスマス」

 そう言ってまだ温かいハンバーガーを薄汚い子どもにあげると、子どもは不思議そうに私を見つめた後、差し出されているものが食べ物だと知って急いで奪い去った。包み紙を開いて中のハンバーガーを口いっぱいに詰め込む。口に収まらなかったパンくずや野菜がボロボロ落ちていくのも気にせずに。あのときの私もきっとこんなんだったに違いない。

 その子から視線を外して他の子にハンバーガーを配りに行く。後ろの方から叫び声が聞こえたような気がして、口元がほんの少し緩んだ。

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