かけた電話の向こう側

星野 ラベンダー

繋がった相手は

 今、舞緒がいるのは、祖父母の家だ。祖父母の家の一階の廊下には、普通の家にはまずない電話機がある。


 「デルビル磁石式壁掛け電話機」という、茶色い箱にベルが二つ並び、その下に送話口がつき、側面には黒い受話器がかけられた、レトロなデザインをした電話機。幼い頃、最初にこの電話機を見たとき、なんだか大きく目を見開いた人の顔みたいだ、と思った。


 この電話機は明治時代に誕生したもので、祖父母も使ったことがないという。というより、祖父が子供の頃から家にあったが、そのときから既に壊れて使えなかったし、壊れていたから使われなくなってもいたと。だが取り外さずにそのままにしてあるのは、なんとなくもったいないからだと。


 子供の頃から舞緒は、祖父母の家に遊びに行く度に、この電話機を使って電話ごっこをした。どこにも通じないため、好きなだけ電話をかけることができるし、話しまくることができる。自分の家にも友達の家にも、どこの場所にもない見た目をしている電話機を使うのは、なんだか特別なことをしている気分になれて、舞緒は好きだった。


 もうすぐで16歳になろうとしている現在でも、舞緒はその電話を使っている。


「いやあ、寒いね……」


 舞緒はその場で足踏みをしながら言った。


「冬の廊下って、なんでこんなに寒いんだろうね? 寒いっていうか、冷たい」

『えっ、大丈夫?』


 電話口から焦ったような声が聞こえた。知らない人が聞くと舞緒と全く同じに聞こえるが、よく知る人が聞けば違うとわかる声。双子の妹、美緒の声だ。


「平気平気。上着羽織っているし、スリッパ履いているし。そっちは寒くない?」

『寒いよ! だってこっちの世界もさ、そっちとほとんど変わらないんだよ?』

「そっか、それもそうだよね」


 足の裏から、冷え切った廊下の木の温度が伝わってくる。時刻は日付が変わってから二時間近く経っていて、他の家族は全員寝静まっており、物音一つしない廊下に、舞緒と美緒の声だけが響く。それが余計に、寒さを誘う。


 体の芯は結構冷えていた。寝間着の上にカーディガンを着て、更にフリースを羽織っているが、もう二時間近くこの冷たい廊下に立ったままでいるのだ。冷えないほうがおかしい。


 それでも舞緒は、電話から離れようとしなかった。風邪などいくらでもひいて構わないと思っていた。電話の向こうにいる美緒も、同じことを思っているだろう。


 12月のある夜。舞緒は今、本来ならどこにも通じない電話を使って、死んだ妹と会話をしている。




 舞緒一人で祖父母の家に遊びに来ていた夜のことだ。三時をすぎてもなかなか寝付けなくて、布団から抜け出した。


 寒いから、水ではなく白湯を飲んで、部屋に戻ろうとしたとき、ふと廊下の壁掛け電話が目に入った。子供の頃の遊びを思い出して、なんとなく、本当になんとなく、受話器を手に取り、送話口に顔を近づけた。そうして、「もしもし」と、廊下の暗闇に消えていきそうな小さい声で言った。


 十秒近くそうしていただろう。何しているんだ自分は、と我に返って、受話器を元の位置に戻そうとした、そのときだった。ザ、ザザ、と、聞こえてきたのは砂嵐のような音だった。え、と慌てた舞緒は、受話器を耳にくっつけて目を閉じた。


 ザザ、ザザザと、ざらついた音は徐々に大きくなっていく。まるでこちらに近づいてきているみたいに。そうして耳のすぐ傍まで近づいた砂嵐に顔をしかめたときだった。急に砂嵐がぴたりとやんだ。


 受話器から静寂が流れてくる。だが、今までの、電話がどこにも通じていないゆえの静寂とは違う種類の静けさだった。受話器の向こうで、「黙っている人の気配」を感じた。聞こえてきたのは、確かに「息づかい」だった。


『……舞緒?』


 “受話器の向こうにいる人”が、自分の名前を呟いた。その震えた声の主の正体を、舞緒がわからないわけがなかった。


「美緒?」

『なんで……!』


 なんで、はこちらの言いたいことだった。美緒は半年前に亡くなった妹だからだ。すると、もうこの世界にいないはずの美緒が、こう続けた。


『舞緒は、半年前に亡くなったはずなのに……』

「え、えっ? 私? 美緒じゃ、なくて?」

『ええっ?』


 大きく驚いた声が伝わった。


『私、死んでいるの?!』

「そ、それはこっちの台詞だけど……!」


 何が何だかわからず、舞緒は電話の相手が美緒ではなく、人間によるいたずらか、もしくは人間ではないものによる仕業かと考えた。美緒ではないものが美緒の声をして、こちらに何か仕掛けてこようとしているのではないかと。舞緒はホラーが好きだった。反対に美緒は、ホラーが大の苦手だった。


 舞緒は美緒を名乗る相手に、あれこれ尋ねた。向こうも舞緒について尋ねてきた。家族のこと、友達のこと、学校のこと、町のこと、そして死んだ日のこと。


 時間をかけてお互いの話をすり合わせて、一つの結論に辿り着いた。


「多分、別の世界線ってやつだ」


 舞緒は美緒に、自身の推測を聞かせた。


「私は今、何かの拍子で電話を通して繋がった、別の世界の美緒と、話をしているんだよ。私のいる世界と美緒のいる世界とでは、一つの違いを除き、大きな変化はない。その一つの違いっていうのが、私のいる世界ではあの日美緒が亡くなっていて、美緒のいる世界では、あの日亡くなったのは、美緒じゃなくて私だったんだ」

『わあ、舞緒! なんだか凄いね……!』


 呑気な声色の称賛に、舞緒は思わずかくっと力が抜けそうになった。そうだ、美緒はこういうところがあった。天然気味でマイペースな性格で、しっかり者と言われることが多い舞緒とは対照的だった。両親はよく、下手に美緒から目を離すことができない、と笑っていた。


『でも、そっかあ。よくわからないけど、私は今、舞緒とお話ししているんだね』

「うん。なんでかは不明だけど……」

『多分、この電話の力じゃないかな?』


 美緒もまた、向こうの世界で、祖父母の家に一人で泊まりに来ていたという。なかなか寝付けなくて一度起きて、白湯を飲んで戻ろうとして、ふいに電話が目に留まって、なんとなく受話器を手に取った流れまで同じだった。


 子供の頃の電話ごっこ遊びは、美緒との争奪戦だったことを思い出した。こっちは二人、電話機は一つ。どちらが先に使うか、どれだけ遊ぶか、いつも喧嘩していて、譲り合ったことはなかった。けれどもう、電話は一つ、こっちは一人になった。喧嘩をする必要はなくなった。


 かつて取り合った電話で、今、美緒と会話をしている。


「美緒、そっちでは生きているんだね……」


 電話の相手が本物の美緒ということがわかった。世界は違うが、死んでいないことがわかった。改めてそう思うと、さざ波のように胸に何かが押し寄せてきた。次の言葉を紡ごうとして、喉の奥がきゅうと狭まった。すると、美緒が声を被せてきた。


『待って、舞緒。泣くのは我慢して』

「えっ……?」

『だって、せっかくお話しできているんだよ? 泣いていたら、もったいないじゃない? 私は、舞緒の“声”が聞きたいんだから』


 そうだ。確かにそうだ。舞緒は小さく頷いた。自分だってそうだ。自分の泣き声を聞かせるより、美緒の声が聞きたい。そっか、と舞緒は明るい声で言った。


「うん! それもそうだね! じゃ、今から色々な話をしよう!」


 明るすぎて、自分でも空回っているとわかる声だったけれど、美緒は何も言わないでくれた。


『何の話をしようか?』

「やっぱり、この半年間何をしてたか知りたいかも!」


 それから舞緒は美緒と、この半年間何をしていたかを、さながらお互いに一人暮らしをしている姉妹が久々に会ってする近況報告のような空気感で、美緒と話した。


 高校生になったらやってみたいバイトのこと、お互いの趣味に合う小物をたくさん売っている雑貨屋を見つけたこと、毎年必ず食べているドーナツショップの冬限定ドーナツをまだ食べていないこと、最近ショッピングに行っていないことなど。愚痴からニュースから面白話から、色々なことを話した。


 基本的に、舞緒が経験したことは、同じ時期に向こうの世界で美緒も経験しているらしい。だから舞緒が一つ話せば『私も!』と美緒が返してきて、美緒が一つ話すと舞緒は「私もだよ!」と返した。


 密かに気になっていた部活の先輩に彼女ができて、片思いのまま散ったことを話すと、美緒は『待って、私も同じ時期に失恋したんだけど……。と、というか、その、舞緒が好きになった人と同じ相手でして……』と大変言いにくそうに打ち明けてきた。


 本来なら気まずくなるべき場面なのだろうが、舞緒は盛大に吹き出してしまった。


 外見は同じで、性格は違って、けれどあくびやくしゃみのタイミングが綺麗に一致したり、別々の場所でお互い知らないまま同じものを買ってきたり、同じ夢を見たりすることもあったなど、二人は重なる部分が本当に多かった。こんなところまで重なるなんて、どれだけ自分は美緒と繋がっているのだろうか。


 美緒とは、今日あったなんでもないことを報告し合うのが日課だった。そのときのように、舞緒は美緒と、電話でとりとめも無い話を続けた。途中足が疲れたら、何度かしゃがんだ。寒くなったので、また白湯を作って、飲みながら話をした。上着を更に持ってきた。足が疲れたタイミングも白湯を作るために離席したタイミングも、やはり美緒とほぼ完全に一致した。それが舞緒は、なんだか嬉しかった。


 これがスマホだったら、相手の顔を見ながら話をすることができたのにな、と少し惜しく思う。が、顔は見えないものの、美緒が今どういう表情で話をしているかはわかる。


 頭の中で想像を浮かべていた舞緒は、ふいに、その想像上の美緒を消した。


 いや、違う。やっぱりわからない。美緒は今、どんな顔で、電話をしているのだろう。


 一日経てば全部忘れてしまうような、本当にただの日常会話な内容を、一時間、二時間と続けている。とっくの昔に、握りっぱなしの受話器が温かくなっていた。足が痛いし、寒いしで大変だが、我慢できた。それより美緒と話をするほうが大事だった。


 いくらでも話をしていられる、それは間違いない。だが二人の間にのぼる話題には、お互いが死んだ日のことが、一切出てこない。いなくなった後、お互いがどんな気持ちで過ごしてきたか、不自然なまでに、語られない。


 お互いの趣味に合う小物をたくさん売っている雑貨屋を見つけても、一緒に行きたい美緒はもういないから、意味がない。毎年必ず食べている冬限定ドーナツも、美緒がいなかったら美味しくない。ショッピングだって、美緒と行かないと何も楽しくない。そういったことが、一切語られない。


 美緒は、意図してそうしているとわかる。なぜなら、舞緒も意図しているからだ。わざと話題に出さないようにしながら、なんてことのない雑談を交わしている。お互いが死んだことが、嘘だったように。


 叶うものなら、全部嘘だったことにしたい。けれど、嘘だったことにはできない。たとえ、別の世界では生きていてくれているのだとしても。こちらの世界の美緒は、今も、仏壇に置かれた遺影の中で笑っている。


「……ねえ、美緒」


 どうしたの、と美緒がどこか不安そうに聞く。気のせいかと思うほど一瞬、砂嵐の音がした。


 舞緒は、受話器を握る手に力を込めた。


「なんで、死んじゃったの?」


 震えながら、舞緒は聞いた。


「どうして、私を庇ったの?」


 半年前。いつものように二人一緒に玄関を出て、二人並んで歩いて学校を目指していた。横断歩道を渡っていたとき、信号無視の車が迫ってきた。


 舞緒だけ助かったのは、先に気づいた美緒が、舞緒を突き飛ばしたからだ。


「美緒がいない家、凄く暗い。明るくて穏やかでのんびりしたあなたがいなくなったから、ずっと空気がささくれているみたいになっちゃった。きっとお父さんもお母さんも、私を見ながらこう思っているはず。同じ顔だけど、美緒のほうが生きていれば良かったのにって!」


 舞緒はもうすぐ誕生日を迎えるが、きっと両親は、もう一人誕生日を迎えていたはずの存在を思い出し、苦しくなるだろう。だから祖父母の家で誕生日を迎えることを決めたのだ。


 きっと家族は、舞緒でなければ、と思っているはずだ。


 ……いや、違う。誰よりもそう思っているのは、自分自身だ。


 こう思うことも、言うことも、庇った美緒に“失礼”なのかもしれない。それでも、思わずにいられないし、言わずにいられない。だから、言った。


「私が代わりになれば良かったのにさあ……!」


 もう耐えられなかった。舞緒は泣きながら叫んだ。


 生まれたときから一緒だった。生まれる前から一緒だった。どんなときでも一緒だった。ずっと一緒だった相手が、いなくなった。それでも、もしどちらかがいなくなることが決められているなら、自分が代わりになりたかった。自分が美緒を突き飛ばしていれば良かったのだ。


 舞緒は嗚咽を漏らした。電話機の傍の壁に片手をつき、しゃくり上げる。立っていられそうにない。目眩がしていた。


『……私もだよ』


 ずっと黙っていた美緒の声が聞こえた。


『私もそうだよ。半年間、ずっと同じことを思っていた。舞緒に突き飛ばされて、庇われたときから、ずっと。しっかり者の舞緒がいないこの家は、どこかぼんやりしていて、居心地が悪い。私が代わりになれば良かったのにって、毎晩思った』

「そんなことない! あなたは生きていていいの! 代わりにならなくちゃいけなかったは私のほうなの! 双子だけど、私のほうがお姉ちゃんだったのに……!」

『同じだよ。私は結局、最後の最後まで、お姉ちゃんに甘えてしまった。守られてしまった。このままだと死ぬってときくらい、私がちゃんとしないといけなかったのに』

「だからそれは!」

『平行線だね。私達、双子だものね』


 あはは、と美緒は笑った。鼻を啜る音が耳に届いた。


『でも、そっか。良かった』


 震えているのに、どこか明るい声がした。


『そっちの世界の美緒は、ちゃんと舞緒を助けたんだね』

「それを言ったら、そっちの世界の私も。そっちの私は、ちゃんと美緒を庇ったんだなって思うよ」


 向こうの世界の自分は、間違えなかった。それは数少ない救いと言えるかもしれない。


 けれど、だめだ。別の世界ではなく、こちらの世界で、正しい選択をしたかった。美緒に、生きていてほしかった。


 その瞬間だった。


 ザザザザッ!!


「うわっ!」

『なっ、何!』


 いきなり耳元で、大きなノイズが響いた。ざりざりとした音に、心もざわざわと鳴る。もしかして、と浮かんだ仮説に、目尻が熱くなる。


「美緒。聞こえる?」

『え……ど……し……の? き……ない!』


 ザザッ。ザザアッ。不快な砂嵐の音は、美緒の声を半分以上かき消していた。美緒、と諦めずに名前を呼び続ける。するとしばらくして、絶え間なく聞こえていた砂嵐が止まった。


『あっ、繋がった! ねえ舞緒、どうなっているの? いきなり電波が悪くなって……。いや、電波じゃないのかもしれないけど……』


 だが聞こえてきた声は、先程よりも音質が悪くなっていた。後ろのほうで砂嵐の小さな音が流れ、プツプツと音声が途切れる。


「多分だけどね、美緒」


 多分とは言ったが、確定なのだろうなという予感がしていた。


「この電話、もうすぐ切れる」

『えっ、なんで?!』

「……16日の、朝になるから」


 舞緒は、途中で部屋から持ってきて足下に置いておいたデジタル時計を見た。もう午前6時をわずかにすぎている。


 それがなんで、と美緒は動揺を声に乗せた。


『なんで16日の朝になると、電話が切れるの?』

「誕生日だから」


 考えられる理由としたら、それしかない。


「こっちの世界の美緒は、もう歳を取れない。そっちの世界の私も。お互い、もう歳を重ねられない者同士で、話をしている。それって、大きな矛盾になってしまわない?」

『……そんな』

「私達、16日の朝の6時22分頃に生まれたって聞いてるでしょ? もう10分もない。いずれにせよ、もうすぐ電話は繋がらなくなる。それは確実」


 言うやいなや、舞緒の仮説を証明するように、ザーッと長い砂嵐が二人の会話を隔てた。


 美緒の声が、美緒の存在が、砂嵐の向こうに消えていくのを感じる。遠ざかっていく気配が、どうしたって伝わってくる。


 そのときだ。いやだ、と美緒の悲鳴が、砂嵐を突き破った。


『私、まだ全然、舞緒と話せていない! 今も、これからも、もっと話したいことがたくさんあるのに!』

「私もだよ!」


 生まれる前から一緒だった。この先もずっと、一緒にいられると思っていた。だが実際は、15年しかいられなかった。


「私、そっちの世界に行きたいよ! そうすれば、また美緒と、家族揃って一緒にいられるから……!」

『私だってそうしてほしいよ! けど!』


 落ち着かせようとして、結局浅くなってしまう呼吸が聞こえた。


『やっぱりだめだよ……。そんなことしたら、そっちの世界のお父さんとお母さんが寂しい思いをしちゃう』

「そう、だけど……。でも、もう美緒がいないから、私がいなくなっても、別に……」 

『舞緒』


 そのときだ。美緒が、低い声を出した。普段穏やかな妹が、数少ない、怒りを露わにするときの声。


『その台詞、もし私が言ったらなんて返す?』

「え? そりゃ、何を馬鹿なこと言っているの、ふざけないでって言うよ。そんなことあるはずないからって」


 言ってから、あ、と声を出した。ね、と美緒が言う。


『私達、双子だから。“一緒”になることが多いから。だから今、私がなんて言いたいかも、わかるよね?』

「……だけど」

『そんなふざけたこと、二度と言わないで。言っちゃだめ。舞緒は真面目だから、難しいかもしれないけれど』


 プツプツ途切れる瞬間が増えてきている。糸が千切れていくような音だ。実際、舞緒と美緒を結ぶこの電話という細い線が、今まさに千切れていっている。


『……舞緒。私、実は、嬉しいんだ』

「嬉しい?」

『別の世界だとしても、舞緒が生きていることが、とても嬉しい。幸せに生きてくれたら、もっと嬉しい。今頃向こうの世界の舞緒は笑顔でいるのかなって想像したら、私も笑顔になれる気がするから。だから舞緒。いなくなってもいいなんて、二度と言わないで?』


 舞緒は息を飲んだ。自分がいかに身勝手なことを口走ったかようやく気づいた。


 けれど、わかったからといって、すぐどうにかなるものではない。


 いつか、美緒と同じ考えになれる日が来るのだろうか。双子だとしても。そんな日が、本当に来るのだろうか。


 その直後だった。ザアアアと、もはや大雨が叩きつけているようなノイズが、受話器の中を走り続けた。はっと足下の時計を見る。舞緒と美緒の生まれた時刻が、すぐそこまで迫ってきている。美緒、と舞緒は受話器を両手で握りしめた。


『舞緒』


 ノイズの隙間を、押し戻されながらも懸命に泳ぐような双子の妹の声を、舞緒の耳が拾った。目を閉じ、耳を澄ませる。聴覚に全ての神経を集中させるイメージを持つ。


 砂嵐がうるさい。でも美緒の声はわかる。どんな人混みにいたって、美緒の声だけはいつでも聞き取れたから。


『行かないで、舞緒……。切れないでよおっ……!』


 美緒は、声を上げながら泣いていた。さっきまで、舞緒を宥めてくれていた美緒が。


 舞緒は下を向いた。床に、目から生まれた雫が落ち、ぽたぽたと跡が残る。


 今はこの世界にいない双子の妹。向こうの世界では生きている双子の妹。残り少ない時間で、彼女に何を言ってあげられるだろうか。言いたいことは山のようにあるのに、具体的になんと言えばいいのかわからない。


 けれど、かけてあげたい。今流れている美緒の涙が少しでも減る言葉を。


「美緒」


 デジタル時計が、秒数を刻む。そのとき、何かの慈悲のように、一瞬、砂嵐が綺麗さっぱり消えた。


「助けてあげられなくてごめんなさい。寂しい思いをさせてごめんね」


 舞緒は大きく息を吸い込んだ。


「誕生日、おめでとう」


 今年も言えるはずだった言葉。言えるのが当たり前だと思っていた言葉。言えなかった言葉だ。


 美緒が息を飲んだのも、一瞬のこと。思い出したように、美緒も続けた。


『私もごめん、舞緒! ごめんなさい! 誕生日おめでとう、舞緒! ありがとう、私の姉になってくれて!』


 あ。先を越されてしまった。涙が止まらないのに、笑ってしまう。うん、と頷く。


「こちらこそ。私の妹になってくれて、ありがとう」


 どうか。いつまでも元気で。


 祈りを込めた一言を、お互いに送り合った直後。


 ひっそりと。控えめに。大げさなことは何も起きず。実は全部夢だったと言うように。


 電話の向こうが、静かになった。


 何度か声をかけたが、返ってくるものはなかった。


 舞緒は目元を乱暴に拭うと、時計を手に、自分の部屋へ戻った。


 カーテンを、窓を開け、顔を出す。冬の朝の冷たい風が、一気に顔にかかる。残った涙を吹き飛ばすように。


 両親は今日、祖父母の家に行くと言っていた。皆で誕生日を祝おうと言ってくれていた。けれど舞緒は、固辞していた。来なくていい、と言い張り続けた。


 やっぱり来てほしい、と。昨日と今日で言っていることがまるで違うものになってしまうけれど。そう伝えようと思った。自分の後悔も、悲しみも、寂しさも、全部打ち明けて、これからどうすればいいか話し合おうと思った。


 もしかしたら向こうの美緒も、同じことを考えているかもしれない。いや、間違いなくそうしている。こうやって外の景色を見ながら、舞緒のことを考えている。舞緒自身がそうしているから。


 空がわずかに明るい。冬至前の長い夜が明けようとしていた。

 

 

 

 完

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