おれとモコ

七福ねこ

後悔弾ケテ雪ト為ル


 後悔がある。

 あの時、できたかもしれないのにやらなかったこと。

 ずっと、ずっと忘れられなかった。


 あいつを見殺しにしたこと。


           ❋


 秋田県の片田舎にある竜見たつみ町には、竜見湖という大きな湖がある。龍神伝説のあるその湖は、十年以上前に、ネットの怪談系サイトで頻繁に話題に出されたことがあった。

 妖怪が出るだとか、その妖怪は人間も他の妖怪も喰うだとか、龍神と妖怪が戦っているだとか。

 一時期は自称妖怪ハンターを名乗るネット民たちが、カメラ片手に竜見湖に押し寄せたこともあった。妖怪を撮影することに成功したと、ネットに投稿された写真はかなり拡散され、ネットニュースになったこともある。

 しかし、その盛り上がりは長くは続かなかった。

 写真に写った妖怪が、造り物だったと暴露されたのだ。

 それからは、竜見湖に妖怪が出るなどといったネットの書き込みは減り、竜見町は元の静かな田舎町に戻った。

 だけど。


「おや、辰巳たつみ、いま帰ったのかい。ばっちゃ、これがら湖さえぐんだども、手伝ってぐれね?」


 ただいま、と引き戸を開けると、ちょうど出掛けようとしていたらしい、祖母のタツに誘われる。

 湖と聞いて、辰巳は舌打ちした。


「誰があんなとこ行くかよ」


 吐き捨て、辰巳はさっさとスニーカーを脱いで、二階にある自室へ行くため、階段を駆け上がる。おやおや、とタツの声が背後で聞こえた。次いで、からからと引き戸の閉まる音が耳に届く。

 辰巳は乱暴に自室の戸を閉め、ほとんど何も入っていないペラペラのスクールバッグをベッドに叩きつけた。


「クソッ、誰が、あんな………」


 思い出したくもない光景が脳裏に浮かび、辰巳はぎゅっと目を閉じる。

 いくらネットで妖怪なんていないと否定されても、辰巳だけは真実を知っていた。


 竜見湖には、恐ろしい妖怪がいることを。


           ❋


 神石辰巳かみいしたつみの家系は、代々霊能力がある家系だった。もともとは、竜見湖に眠る龍神に祈りを捧げる巫女の家系だったらしいが、その役目はいつしか、竜見湖を清めるというものに変わっていた。

 辰巳には、高い霊能力があった。五歳の頃には、祖母が高い所に隠したお菓子を念力で取ることができるくらいには、高い霊能力を操る才能にも恵まれていた。


『辰巳はすごいねえ。いづが、ばっちゃの代わりに、龍神さまの湖、きれいにでぎるがもしれねねえ』

『あったりまえだろ! おれにできないことなんてないんだからな!』


 そんな会話を、よくしていた。

 年齢を重ねるごとに、辰巳の念力は強くなった。そして、その力を手足のように動かすことができるようになっていく感覚に、辰巳は自惚れていた。小学校低学年の頃には、高学年のいじめっ子に絡まれていたクラスメイトを念力で助けることもできた。すごいすごいとみんなに持て囃され、ヒーローになった気分を味わった。

 けれど、あの雨の日の夜。すべてが変わってしまった。

 十七年間生きてきた中で、辰巳に唯一残った後悔。

 恐らく、これ以上の後悔はこの先ないと思えるほどの、重くのしかかる過去。

 ふわふわで、もこもこの毛玉みたいなともだち────モコとの別れが、辰巳の心に墨汁のようなシミを残し続けている。

 モコとの出会いは、辰巳の七歳の誕生日だった。その日は、まるで織姫と彦星が年に一度だけ会えるように、いつもは都会で働いている両親が、秋田に帰ってくる数少ない日だった。辰巳は朝からわくわくしていた。何時に着くよ、という電話をずっと待っていた。しかし、やっとかかってきた電話の内容は、帰れない、という冷たい一言だった。

 ショックだった。祖母のことは好きだったが、やはり両親に会いたかったのだ。せめて、誕生日くらいは。

 ひどい孤独感に襲われた辰巳は、両親が帰ってこられないならば、こちらから会いに行こうと思い立ち、祖母が寝ている間に家を飛び出した。

 そして見事に、迷子になった。

 竜見町は自然豊かな町で、深夜に出歩くような者はいない。そもそも、民家も少ない。土地のほとんどは農地だ。

 外灯は申し訳程度しかなく、黒く見える町を囲む森は、得体のしれない巨大な怪物のように見える。

 目に見えるすべてが、辰巳を異界へといざなうバケモノに見えた。

 幼い辰巳にできることは、外灯の下でうずくまって、心細さに泣くことくらいだった。心に隙間風が吹いているようで、夏なのにぶるりと震えてしまう。

 そんな彼のもとに転がってきたのが、毛玉のような小妖怪、モコだった。

 キュ、キュウ、と鳴いて、毛玉は辰巳の懐に飛び込んできた。

 驚いていると、それはぱっちりした目で辰巳を見上げて、慰めるように頬にぽむぽむとぶつかってきた。

 とても、あたたかかった。


『……おまえ、あったかいなあ。コタツみたいだ』


 それから、辰巳は探しにきた祖母に無事に保護された。どうやら、そんなに自宅から離れた場所ではなかったようだ。

 こっそりとモコを部屋に連れ帰った辰巳は、もう寂しくなかった。むしろ、風が吹けば飛ばされてしまうような弱いモコを守ろうと、強くなると心に決めた。

 モコも、辰巳にかなり懐いたようだった。

 机に向かって勉強していると、ノートに飛び乗って『きゅう〜、きゅっきゅっきゅ〜』と歌っているような鳴き声を出しながら、くるくる回るモコが可愛かった。

 誘うまでもなく布団に入り込んでくるところも、学校について行こうと、あの手この手でつきまとうところも、何もかも可愛くてしかたなかった。

 特別だった。大切だった。


『モコ、おまえにあえてよかった。なにかあったら、おれがぜったいまもってやるからな』


 心の底から、そう思っていたのに。

 辰巳は、約束を破ってしまった。

 モコと出逢って三ヶ月後、神無月の、とある雨の日の夜。帰りの遅い祖母を迎えに行くために、辰巳は傘を差して竜見湖に向かった。そこで、ヤツ・・と遭ってしまった。

 真っ黒で歪な、巨大なシルエット。

 ズリ……ズリ……とこちらに近付いてくる、禍々しい気配。

 唸り声のような、それともうめき声のような声が響いて、足が竦んだ。

 重力が増したようだった。膝が震え、身動き一つできなかった。

 そんな辰巳を庇うように、ポケットに入っていたモコが飛び出した。

 やめろ、モコ、と止める言葉すら出せず、辰巳の喉はかすれた呼吸音を繰り返す。


『きゅー!』


 威嚇するように毛を膨らませ、地面に降り立ったモコは高く鳴く。辰巳のために、小さな身体で精一杯立ち向かうモコを、そいつは触手のようなもので掴み、持ち上げ、飴玉を口に放るように呑み込んだ。

 スローモーションのようだった。

 きゅ、とひと鳴きして、モコは妖怪の口の中に消えた。

 喰われた。守ると誓った、モコが。

 満足したのか、ずりずりと重そうな音を立てて、巨大なバケモノは湖のほうへと消えた。

 雨の音が戻ってくる。

 重苦しい空気が霧散してやっと、辰巳は動くことができた。膝から崩れ落ち、呆然とバケモノが消えた方向を眺め、震える右手を持ち上げる。

 ────なにが念力だ。ヒーローだ。

 大切な友だちすら、救えなかった。

 なにもできなかった。

 見殺しにした!


『ごめ……っ、ごめん、モコ……!』 


 どんなに泣いたって、もうあの毛玉のともだちは帰ってこない。

 あれから、十年の月日が流れた。それから一度も、辰巳は湖には行っていない。その姿を見ることすら避けて過ごしていた。

 不思議なことに、辰巳と同様に高い霊能力を持っているはずの祖母のタツすら、そんなバケモノには遭遇していない、知らないと言う。

 あの妖怪は、ここら一帯の妖怪を食い尽くし、餌場を変えたのかもしれない。きっと、モコが最後のひとりだったのだろう。

 なあ、あんな小さな毛玉妖怪を喰って、腹は満たされたかよ。

 クソ野郎。辰巳はいつだって、思い出すたびに奥歯を強く噛み締める。

 悔しさに、視界が滲む。

 あの妖怪に遭遇さえしなければ。

 辰巳があの日、モコを竜見湖に連れて行かなければ。

 ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう!

 ああ、駄目だ。一度考えてしまうと、ああしていればとかこうしていればとか、激しい後悔ばかりが渦巻いてしまう。

 舌打ちし、高校入学と同時に染めた金髪を乱暴に掻き乱しながら、辰巳は荒い足取りで自室から出る。

 階段をわざと音を立てて下り、何か飲み物でも取りに行こうとキッチンへ向かう。とにかく気分を換えなくては正気でいられなかった。

 冷蔵庫を開け、お気に入りの炭酸ジュースをコップに注いで一気に飲み干す。

 少しだけ落ち着いた辰巳の耳に、窓をポツポツと叩く雨の音が届いた。


「降ってきやがったのか」


 ふと、気になって玄関に向かう。タツの薄紫の傘が、傘立てにおとなしく収まっているのが見えた。

 天気予報では、今日一日は持ち堪えるはずだったから、置いて行ったのだろう。

 季節は霜月の下旬。本格的な雪が降るにはまだ早いが、いつ雪に変わってもおかしくないほど、雨は冷たい。

 六十を過ぎたタツを、冷たい雨に濡らすわけにはいかない。


「はあ……、しかたねえな」


 一度自室に戻って厚手のパーカーを羽織ってから、二本の傘を持って辰巳は家を出た。

 軽トラック一台でいっぱいになってしまう、いつもの細い道を足早に歩き、空を見上げる。重い曇天からは、小雨が降り続いていた。本降りになる前に、タツと合流して帰ることができればいいのだが。

 道の両脇にあるビニールハウスを通り過ぎると、眼前に小さな橋が見える。あの橋を渡ってしまうと、いやでも竜見湖が視界に入る。

 ただ湖が視界に入るだけなのに、あの時の記憶がよみがえってきて忌避してしまう。

 それだけ、辰巳の中でモコを喪った出来事はトラウマだった。

 足取りがどんどん重くなる。

 そろそろ祖母も、日課の龍神への挨拶を終え、戻ってくる時間のはずだ。ここらへんでばったり会えるのではないかと期待していたが、橋の手前まできても、タツは現れなかった。

 どうする。辰巳は靴先を睨みながら逡巡する。

 ────橋を渡るだけじゃねえか。

 頭ではわかっている。橋を渡ったところで、そこは湖ではない。湖が見えるというだけだ。

 あの忌々しい妖怪は、もういない。

 いい加減、克服しろ。

 渡れる。湖が見えたって、大丈夫だ。

 辰巳は自分自身に言い聞かせ、一歩、足を踏み出す。恐る恐る顔を上げると、曇天を映した暗い湖が、視界に入り込んだ。

 まるで死人の眼のようだ、と思った瞬間、ぞわ、と全身が総毛立ち、いやな汗が背中をつたった。

 ああ、クソ、帰りたい。

 辰巳の心は葛藤で嵐のように荒れた。

 認めたくはないが、恐怖が思考を埋め尽くしている。

 膝が震えた。

 しかし、タツに傘を届けたいという想いで、なんとか後退りそうな足をその場に留める。

 怖い。

 大丈夫だ。

 いやだ。

 行ける。

 さむい。

 へいきだ。

 寒い。


(寒いんだよ、モコ)


 逢いたい。

 あのあたたかさが、とても恋しかった。


「タツミ!」


 不意に名前を呼ばれ、辰巳はハッとする。

 真っ黒に塗り潰された視界に、雨で灰色に染まった景色が戻ってくる。

 けれどその中に、色鮮やかな青がちらつく。

 こちらに駆け寄ってくる、同い年くらいの少年の姿に、辰巳は目を奪われる。

 どん、と軽い衝撃。

 熱でもあるのかと思うほどにあたたかい体温に抱きつかれ、心を支配していた恐怖が霧散した。


「タツミだ、よかった、会いたかった!」


 ぎゅうぎゅうと無邪気に抱きついてくる少年に、見覚えはない。

 そもそも。


「────はあっ? 放せ、てめえ!」


 なぜか名残惜しく感じながらも、急いで振り払う。きょとん、と少年は小首を傾げて辰巳を見上げた。


「どうかしたのか?」

「どうかしたのか、じゃねえ! てめえ、妖怪だろうが!」


 見るからに、少年は妖怪だった。

 青い髪のてっぺんからは、にょきっと、髪と同色の二つの獣耳が飛び出ている。歴史の教科書で見たような服装なのも、さらにその臀部あたりから、大きめな尻尾がぶんぶんと振られているのも、すべてが人間ではない証拠のようだった。

 犬……いや、狐だ。尻尾は少し短い気もする。

 目を細め、辰巳は注意深く相手の出方をうかがった。


「妖狐か。ここらの妖怪はみんな喰われたかと思ったが……。どっから流れてきやがった」

「なにを言ってるんだ? タツミ、おれがわからないのか?」

「てめえなんか知るか」


 吐き捨てると、妖狐の少年は見るからに落ち込み、激しく振られていた尻尾はだらんと垂れ下がった。

 辰巳の良心がちくりと痛む。

 しかし、妖狐の少年はすぐにぱっと表情を明るくさせる。


「そっか、おれも成長したから、それでわからないのかも。前はこんな小さかったから」


 こんな、と少年は親指と人差し指でサイズを表す。

 辰巳の眉間にしわが寄る。

 そんなサイズの妖怪の知り合いは、ひとりしか知らない。


「名前もつけたくれたんだ。さすがにそれは覚えてるだろ?」


 やめろ、そんな嘘は聞きたくない。


「おまえがつけてくれたんだ────モコって」

「うるせえ!」

「わっ!」


 とっさに、辰巳は念力で妖狐の少年を吹き飛ばしていた。

 どさりと地面に尻もちをついた彼は、驚いたようにこちらを見上げる。


「てめえみたいなキツネ野郎があいつの名を口にするな!」


 モコは妖怪に喰われた。

 辰巳はそれをただ見ていることしかできなかった。

 見殺しにした。

 それが事実で、変えられない現実だ。

(なあ、モコ)

 辰巳は記憶の中の友に語りかける。

 あんな気持ち悪い妖怪に呑み込まれて、怖かったよな。

 苦しかったよな。

 俺を、恨んだよな。

 だからモコのことは、俺一人で背負う。

 他の誰にも、どんな意図だろうが、邪魔はさせない。

 モコを汚させない。


「タツミ……」

「気安く俺の名前まで呼ぶんじゃねえ。ばあちゃん似だから、強制的に祓う能力は高いんだぞ、こっちは」


 蒼玉の瞳を揺らし、妖狐の少年は俯く。その姿を、辰巳は取り憑くのを諦めたのだと解釈した。


「狙った相手が悪かったな。これに懲りたら、おとなしくどっかの山に帰れ。そうしたら見逃してやっても」


 いい、と言いかけた言葉は、突然に膨れ上がった妖気に驚いて、紡ぐことができなかった。

 湖だ。湖のほうから、禍々しい何かが、こちらに向かってきている。

 これは、この気配は──────


「な、んで、あいつが………」


 まだ姿は見えないのに、ズリ……ズリ……と巨体を引き摺る音が耳に届くようだった。 

 空間が歪んで見える。耳鳴りが酷い。


「……行かなきゃ」


 小さく呟き、妖狐の少年は起き上がるなり湖のほうに向かって駆け出す。


「っ、おい、待て!」


 喰われちまうぞ、なんて、忠告しかけた己に愕然とし、辰巳はその場に立ち尽くす。

 禍々しい気配が、辰巳の首筋を舐める。

 ぶるりと、震えがよみがえる。

 やはり、怖い。

 けれど、不思議と、灰ばかりだと思っていた辰巳の心の底に、闘志が燻った。理由はわからないが、モコの名を利用しようとした妖狐の少年にだけは、負けたくなかった。

 それに、祖母も気掛かりだ。彼女は強い霊能力を持っているが、万が一ということも考えられる。


「ああ、クソ、うぜえ!」


 小鹿のように震える腿を力一杯に殴り、辰巳も妖狐の少年を追いかける。

(また戻って来やがったんなら、ここで、モコの仇を討ってやる!)

 恐怖心をすべて復讐心に変換することで、辰巳は全力で走ることができた。

 妖怪の気配が濃くなっても、その勢いは萎むことはなかった。

 すぐに、辰巳の視界に巨大な妖怪の姿が映る。

 複数の肉体が合体したような、不気味な肉塊。突起のように何本も突き出ているのは、無数の人間の手足。

 インターネット上では、〝クイクイ〟と呼ばれていた妖怪。

 十年前と同じ妖怪が、ぶるぶると肉を蠢かせて、高いとも低いとも言えない声を発している。

 そんな〝クイクイ〟の前には、青い妖狐の少年。

 彼は、懸命に妖怪に話しかけているようだった。

 だが、あんな肉塊の妖怪に知能などあるとは思えない。

 案の定、妖怪の手が妖狐の少年を捉えようと伸ばされた。

 十年前のあの日の光景がフラッシュバックする。


「離れろ、キツネ野郎!」


 右手を翳し、念力で〝クイクイ〟の動きを止める。

 ハッと、驚愕に染まった顔で妖狐の少年がこちらを見た。


「タツミ、なんで……」

「てめえには関係ねえ。ばあちゃんが心配だっただけだ。湖に行くには、コイツが邪魔だ」

「……そっか、タツちゃんが」


 なぜ、祖母の名を。

 気になったが、それよりも〝クイクイ〟が先だ。

 あの日から念力を磨いてきた甲斐があり、どうやら霊能力では完全に辰巳のほうが勝っているようだ。

 動きを止められた肉塊は、苦しそうに脈打ってはいるものの、自力で逃れることはできないようだった。

 こんな、こんな弱い妖怪だったのか。

 こんなやつに、モコは喰われたのか。

 こんなやつを怖がって、モコを見殺しにしてしまったのか。

 悔しくてたまらない。奥歯を噛み締め、込み上げる激情を堪らえる。

 せめてここで、こいつをミンチにしてから祓ってやる。

 憎しみのままに念力にさらに力を込めると、苦しそうに妖怪から奇声が上がった。

 妖狐の少年が慌てように、辰巳に縋りつく。


「ま、待ってくれ、タツミ!」

「あ? 外野はひっこんでろ!」

「外野じゃない! カエデちゃんはおれを助けてくれた!」


 は? カエデ?


「何を言って……」

「あれは幽霊の集合体なんだ! 中には巻き込まれただけの霊もいる。せめておれの狐火で送ってやりたい」


 そう言って、妖狐の少年は手のひらに小さな青い炎を灯した。

 吹けば消えてしまいそうな、弱々しい炎だった。


「ンな小さな火でどうするってんだ。そもそも、おまえごときがどうにかできる相手じゃねえぞ、アレは」

「……たしかに、おれは出来損ないの妖狐だ。妖力も弱いから、こんな小さな狐火しか出せない。それに、ずっと毛玉くらいの大きさしかなくて、この姿になるのにも十年かかった」


 毛玉みたいな姿?


「妖怪なのに、名前をくれた友だちすら守れなくて、アレに呑み込まれたこともある」


 待てよ。辰巳は目を見開く。


「でも、諦めたくなかった。おれは……おまえの、タツミのもとに帰りたかった。ずっと独りだったおれにはじめてできた、トモダチだから。そう願ったら、おれの中から小さな火が生まれた」


 それが、弱々しい狐火の正体。

 辰巳とモコを繋ぐ、絆の炎。


「自分から滲み出る火を見て、思い出した。おれは、祓い屋に追われたお母さんが、最後の妖力を振り絞って、外に飛ばしてくれたおかげで封印を免れた。カエデちゃんは、あれに呑み込まれたおれを守って、外に出してくれた。お母さん、みたいに」


 だから、あたたかい火の中で逝ってほしいのだと、彼は呟く。

 あんな肉塊となったまま、苦しんで逝ってほしくない。

 妖狐の少年の言葉に、なぜか辰巳は、寒い冬に両親と入った炬燵のあたたかさを思い出していた。もう、はるか昔の思い出だ。

 そして、はじめてモコを抱きしめたときのことを脳裏に浮かべ、口角を持ち上げる。


「おい、そのカエデってやつのことを想って、最大火力をあれに放て。できるか─────モコ」


 もう、疑いようがない。

 どんな超進化だ、とは思うが、この妖狐の少年が、辰巳がずっと逢いたかった毛玉の小妖怪、モコだ。

 彼はぱちくりと瞬きをして、嬉しそうに頷いた。


「当たり前だ。おれはタツミから立派な名前をもらった─────妖狐の守炬モコだ」


 焚べられた青い炎に、辰巳は念力を送る。

 他者の力の増幅なんてはじめてだ。失敗は許されない。

 責任重大だが、不思議とやれる自信はあった。

 あの日、モコがひとりだけで霊の集合体に立ち向かったことに比べれば、なんてことはない。

 隣には、ずっと焦がれていたモコがいるのだ。

 もう、やらずに後悔はしたくない。


「タツミ」


 おまえならできる。そう、疑うことを知らない瞳と目が合い、辰巳は頷きで応える。

 精神を統一し、青い炎を膨らませるイメージを浮かべながら、念力を注ぐ。

 ぼっ、と炎が大きくなる。巨大な肉塊を包んでいく。

 すべてを受け入れ、抱き込むような優しい炎の中で、は淡い光を宿しはじめた。


《ああ、あたたかい……》

《やっと解放されるのね……》

《わーい、おうちにかえれるよー》


 たくさんの声と、天に昇る無数の光の玉。

 それらを黙って見送っていると、ふと、一人の女がこちらを見ていることに気付く。あ、とモコが小さく声を上げる。

 彼女が、カエデなのだろう。


《ありがとう。あたたかい炎……。あっちで会えるかな、わたしの子に……》


 彼女は、子どもに先立たれ、無念のままに命を絶った悲しい霊だったのだろうか。光の玉となったカエデの魂もまた、天に昇っていった。

 隣を見れば、モコは静かに涙を流していた。

 青い炎に照らされた頬を伝うそれは、きらきらと輝いている。まるで流れ星のようだと思う。

 そっと手を伸ばし、彼のそれを絡めて繋ぐ。お互い、そうするのが当然のように、力を込めた。


 ふたりだけの葬送の儀式は、こうして幕を下ろした。


           ❋


「もどもど、クイクイなんて妖怪、いやしねがったのさ」


 湖のほとりで、タツの清めの儀式を眺めていた辰巳とモコに、儀式を終えた彼女が言う。


「クイクイなんて妖怪話でっちあげで、それ大勢信じで押し寄せで来だもんだがら、霊がごしゃいだんだべね。そのごしゃいだ霊に、湖にいだたくさんの霊が引き込まれたんだべな」

「じゃあ、ばあちゃんは霊の集合体がいることには気付いてたのかよ」

「当たり前だべ」

「んだよそれ、なんで放置してたんだよ」

「ばっちゃんの力じゃ、むりやり祓うしかでぎねがらね」


 悲しい霊の集合体を、強制的に祓うようなことはしたくなかったのだと、タツは言う。


「それに、あの霊は霊力だば強ぇんだども、噂ほど悪さはしねよ」

「モコは呑み込まれたけどな」

「きっと、モコぢゃんに救い求めでだんだべね」


 モコを紹介すれば、あっさりと「あん時の毛玉妖怪が、しったげめんけくなって」と受け入れたタツは、辰巳の隣で草むらに腰掛けているモコに笑いかけた。

 どうやらモコの存在は、十年前から祖母には筒抜けだったらしい。

 すべて把握されているようでおもしろくないが、モコに救いを求めていたという意見には同意だった。

 モコの中に眠っていた炎は、あまりにも優しいぬくもりに満ちていた。それを見抜いた霊が、成仏したかったためにモコを呑み込んだ。が、救えなかった我が子の代わりに、モコを助けた女の霊カエデによって、彼は救われ、ここにいる。

 様々な思念が集まったあの塊は、たしかに強制的に祓ってはいけない類いの霊魂だ。


「ばっちゃんにはでぎねけど、辰巳にはモコぢゃんがいるがら大丈夫だべ」

「うん、辰巳のことはおれがちゃんと守るよ、タツちゃん」

「ロウソクの火程度の狐火しか出せねえやつが、なんだって?」


 生意気を言うモコの頬をつねって伸ばす。

 痛がる顔を堪能してから、辰巳は手を離した。


「てか、おまえ、すぐ助かったんなら、なんでさっさと帰ってこなかったんだよ」


 思いのほかふてくされた声になってしまったのをごまかすように、辰巳はモコを睨む。

 まだ赤くなっている頬をさすりながら、彼は気まずそうに視線をさ迷わせた。


「それは……その、炎が消せなくて……」

「はあっ?」

「し、しかたないだろ、はじめての狐火だったんだから!」


 つまり、力の制御コントロールができず、戻りたくても戻れなかったということか。


「ダセェ」

「うっ」


 落ち込むモコの頭を撫で、もふもふな耳を擽りながら、辰巳は先を促す。


「で、火だるま毛玉はその後、どうしたんだ」

「とにかく水に入れば消えると思って、湖に飛び込んだ」


 ふと、疑問がわく。


「待て、あの日は雨だったじゃねえか」


 すぐ消火できたんじゃねえの、と思った辰巳に答えをくれたのは、祖母だった。


「雨で狐火は消せねからね」


 そういえば、葬送の儀式のときも、弱々しい狐火は雨で消えなかったな、と思い出す。

 霊力が宿る竜見湖に飛び込んだのは、正解だったのだろう。


「それで、湖の姫だっていう女の人に会って、狐火の制御ができるようになるまでお世話になったんだ」


 ついでに、もう少し大きくなるまで居させてくれって頼んだ、とあっけらかんと話すモコに、ぎょっとしたのはタツだった。


「まさが、それは龍神様でねが!」

「あ、そうかも。いつもは湖の底で寝てるって言ってたから」

「こうしちゃいられね。御供え物準備しねど!」


 慌てて走り去るタツを、モコはきょとんと見送った。

 まるでわかっていない彼のその様子に、まったく、と思いながらも、辰巳の心はぽかぽかとあたたかかった。


「俺らも帰るか」


 手を差し出せば、モコは嬉しそうに掴まって立ち上がる。


「おまえの手、なんでこんなに熱いんだよ、モコ」

「タツミが寒がりだから、ちょうどいいだろ」


 暢気に湖に背を向け、ふたりはゆっくり細道を歩く。

 不意に、空から白い綿が落ちてきた。


「あ、雪だ!」

「げ」


 げんなりした辰巳とは異なり、モコは楽しそうに降ってくる雪にじゃれつく。

 鼻歌を口ずさみながら、辰巳の腕を振り回してくるくる回る姿に、ああ、やっと、モコが帰ってきたのだと実感する。

 繋いだこの手を二度と離さないと誓いながら、辰巳は手に力を込める。

 そんな彼らを、きらきらと水面を光らせた竜見湖が、静かに見守っていた。

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