第2話
わたしの曾祖父が生まれた
明治の世になると絹や工芸品を海外に売り、海外の品物を国内で売る商売へと転じたことでさらに店を大きくした。大正になる前には大豪邸を建て、大勢の使用人を雇い、国内外問わず時の権力者に品々を納めるほどになったという。
そんな丹宝家だが、当主に後継ぎができないという問題を抱えていた。
はじめは近しい親族から養子をもらい何とか家を繋いでいたそうだ。しかし親族も段々と減り、養子とした者にも子ができなくなった。それでも何とか手を打とうと思い、子宝に恵まれていた京の古い商家から嫁をもらうことにした。
(それがすべての始まりになった)
その商家も子宝に恵まれない時期があった。しかし霊験あらたかな稲荷神社に参拝、寄進し続けた結果、見る間に子宝に恵まれるようになったのだという。その話は商売人の間で有名だった。当時の丹宝家は藁にも縋りたい状態だっただろうから、その商家が得た力にあやかりたいと考えたのだろう。破格の結納金を用意し、なんとか長女をもらうことができたそうだ。
そうして嫁いできた商家の娘・牡丹は、気が強く美しい娘だったという。
さぁ、これで丹宝家も安泰だと思っていたのだが、一年経っても二年経っても、五年経っても子宝には恵まれなかった。やはり駄目かと親族の間で養子を探し始めていたとき、当主が外に作った妾に男の子が生まれた。まだ存命だった先代の命令で、その子は丹宝家の後取りとして迎えられることになった。
それを快く思わないのは、京から嫁いできた嫁・牡丹だった。どうしてもと乞われて嫁いだというのに子はできず、あろうことか夫は他所に女を作り、そこに子が生まれた。丹宝家の者たちはまるでお祭り騒ぎのように喜んだが、牡丹にとってはおもしろくなかったに違いない。
(そして当主が死んだ)
生まれてすぐの赤ん坊を丹宝家が引き取ってから半年後、大金持ちの主人と後継ぎを生んだ妾が川に上がったという話が日本中を駆けめぐった。
未亡人となった女主人に、丹宝家は家を任せることを拒んだ。当主の遺児に家を継がせるための方法を考えた。
子どもの後見人を作るため、息子を失った先代は従兄弟の子を養子に迎え未亡人と結婚させることにした。表向きは亡き当主の弟に兄嫁が嫁いだ形だ。
新しい当主は大層美しい顔をした優しい気質の男だった。二度目の結婚だった牡丹だが、すぐに新しい夫に夢中になった。前の夫は自分にかまってくれなかったが、新しい夫はいつも優しく気遣ってくれることに惹かれたのだろう。
しかし二度目の夫は亡夫と愛人との間に生まれた子どもを可愛がり、年を経るにつれて尋常でない可愛がり方をするようになった。二人のことを牡丹が目にしたのは、ちょうど先代が亡くなり初盆を迎えた日だったそうだ。
牡丹の怒りは凄まじく、亡夫の遺児は庭の奥にある土蔵に閉じ込められた。何人たりとも近づくことを許さず、食事を与えることもなく、その後、遺児がどうなったかは誰も知らない。
二度目の夫には自分との子作りを強要した。その結果、丹宝家には娘と息子が一人ずつ生まれた。息子が生まれた後、二度目の夫は店にも家にも姿を見せなくなり、牡丹は実質的な女主人となった。
丹宝家は娘が婿を取って跡を継いだ。しかしその娘に子はできず家も傾き、大豪邸は売られ、今は庭の奥にあった土蔵だけが残されている。
なぜ土蔵だけが残っているのか、昔から丹宝家を知る者は口を閉ざし、古くからこの土地に住む人たちもまた多くを語ろうとはしない。ただお盆の時期が近づくと、土蔵のあたりから線香の匂いがするのだという噂話だけが広く知られていた。
「シロウ、出ておいで」
土蔵の扉の前で声をかける。もう随分と古い土蔵のはずなのに鍵の付いていない扉は固く閉じ、どうやっても開けることができなかった。壁もひび割れひとつなく、屋根の近くにある小窓だけがへこんで見える。ほのかに線香のような香りがするのは今がお盆の時期だからだろう。なるほど噂どおりだ。
「シロウ、おいで」
頑丈で分厚い扉の向こうに、かすかだが気配がする。わたしの声に気づいたに違いない。
「シロウ、わたしのところにおいで」
気配が揺らめくのを感じた。呼びかけに戸惑っているのか、自分のことがわからないのか、あるいはその両方だろうか。そんなことを考えながら、そっと鎖骨の下にある痣を撫でる。わたしがやろうとしていることが気に入らないのか、牡丹の形と色をした痣がかすかに疼いた。
「シロウ、大丈夫だから、わたしのところにおいで」
痣の疼きを気にすることなく声をかけ続けた。
この手で撫でてあげるから。この腕で抱きしめてあげるから。もう二度と手放したりしないから。そう思いながら頑丈な扉に触れると、ギギ、ギギギと軋む音を立てて扉が開いた。扉の向こうには、真っ白な髪と灰青色の目をした小柄な人影がふわりと浮いていた。
助手席に座ったシロウがキョロキョロと大きな目を動かしている。たまに「あっ」と小さな声を上げ窓の外を見ては、ハッとしたように慌てて正面を向く。その様子があまりに可愛くて、つい笑いそうになった。見るものすべてが珍しくて仕方がないだろうに、大人しくしていないと叱られると思っているのだろう。
(慣れるまでは田舎暮らしがよさそうだ)
曾祖父から継いだ家は田舎町の端のほうだから、慣れるのにはちょうどいい。まずは環境に慣れ、社会に慣れ、知識と経験を得る。それから気配を保つこと、体を保つことを学べばいい。
「そういえば、まだ名前を教えていませんでしたね」
助手席の気配が少しだけ揺らいだ。
「わたしは
気配が揺らぎ、わずかにピリピリしているのを感じた。もしかして自分の名前を思い出せないのだろうか。そうなると根底から考え直す必要がある。
「僕の名前……どうして」
囁くような声だったが、たしかに聞こえた。自我が保たれているのなら大丈夫。わずかに口元が緩んだのは、生きていたときのシロウそのままだと確信したからだ。
「わたしの名前に聞き覚えは?」
「……」
チラッと見た横顔は真剣な表情を浮かべていた。なるほど、日記で読んだとおり素直で真面目な性格なのだろう。
「……あの人と、同じ名前」
ちゃんと覚えていてくれた。たったそれだけで喜びが体全体に広がっていく。
「覚えていてくれてありがとう」
そう告げると、美しい横顔がかすかに笑ったように見えた。
土蔵から曾祖父の家までは車で一時間くらいだ。曾祖父自身は死ぬまで土蔵の隣に住んでいたのだから、あの家は曾祖父の家というよりも相続した一部と言ったほうが正しいかもしれない。すでに丹宝家はなくなったが、曾祖父が継いだ財だけはどういうことかほとんど失われずに済んだのだそうだ。
(おかげで念願叶ったりというわけだけど)
広い庭に乗り入れた車を玄関の前に止め、助手席を見る。そこにはすやすやと眠るシロウの顔があった。
(さて、抱き上げることはできるかな)
車を降り、助手席に回ってドアを開けた。音がしても目が覚めないのは、これまで留まっていた場所から遠く離れてしまったからだろう。それでもこうして気配を保っていられるのは……。
「わたしが隣にいるから、かな」
思わずつぶやいてしまった。そうであってほしい。いや、そうに違いない。確信してにやけそうになる。
自分の名前が曾祖父と同じだと気づいたのは六歳のときだ。曾祖父が残した田舎町の家の掃除をする母についていき、屋根裏を探検していたときに曾祖父の日記を見つけた。日記の表に自分と同じ名前が書かれていることに気づいたわたしは、その日記を家に持ち帰った。
難しい漢字で書かれた日記をすべて読み終えたのは小学六年生のときだった。その日の夜、一度も会ったことがない曾祖父が夢に出てきた。その後も何度か夢に現れた曾祖父はシロウのことを語り続けた。
『シロウはかわいい。シロウは優しい。シロウは真面目だ。そしてシロウはとても可哀想な子だ』
日記を読んだときから気になって仕方がなかったシロウのことを、気がつけばすっかり好きになっていた。小学校を卒業する頃、わたしは間違いなくシロウに恋をしていた。
わたしが生まれた
それでも今の鞍橋があるのはお狐様のおかげだと鞍橋の祖母に聞かされ続けてきた。実家の庭には小さな古い祠があり、毎日熱心にお参りするような祖母だった。そういう家だったから、いわくつきの丹宝家の娘でも嫁ぐことができたのだろう。
わたしには兄と姉が一人ずついるが、夢で曾祖父を見たのはわたしだけだった。おそらく同じ狐つきだった牡丹の血を色濃く引き、なおかつ鞍橋の狐に好かれたのがわたしだけだったのだろう。小さい頃から狐火を見かけ、不思議なモノたちを目にすることもあった。
そんなわたしの左鎖骨の下には、生まれつき赤い牡丹模様をした痣があった。それを見た母は、わたしを連れて曾祖父の残した家に行くようになった。兄姉どころか父ですら一度も行ったことがないというのに、わたしのことだけは必ず連れて行った。
曾祖父の財を継いでいた母は、生前贈与だと言って田舎町の家や古美術などの一切をわたしに譲った。おかげで兄姉とは少しばかり溝ができてしまったがかまわない。曾祖父の財を切り崩しながら丹宝家のことを調べ、シロウのことを調べ、土蔵にたどり着き、こうしてシロウを取り戻すことができた。
「さぁ、今日からしばらくの間、ここがわたしとシロウの家だ」
ここでシロウの体を保てるようにする。そしてわたしと共に生きていく。眠っている白い頬にキスをしたわたしはシロウを抱き上げ、曾祖父が残した家へと入った。
夜に閉じ込められた聲 朏猫(ミカヅキネコ) @mikazuki_NECO
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