夜に閉じ込められた聲

朏猫(ミカヅキネコ)

第1話

 五月蠅いくらいの蝉の鳴き声で目が覚めた。ゆっくり目を開けて上のほうにある小さな窓を見る。外はとても明るく、もう随分と日が高い。窓に何度も揺れる葉が見えるから風が吹いているのだろうか。そこにしか窓がないから、実際に風が吹いているかはわからない。

 数日前くらいから蝉の声が増えたような気がする。ということは、外はもう夏なのだろう。たまにどこかから線香のような香りがするから、そろそろお盆の月かもしれない。お盆が近づくと盆提灯だの精霊馬だのと騒がしくなるから、ここにいてもなんとなくわかる。


(そういえば、お盆のときに干菓子をもらったな)


 白や赤、緑色で作られた小さな花の形をした干菓子は、あまりに綺麗でなかなか食べることができなかった。そんな僕に、あの人は「またあげますから、お食べなさい」と言ってくれた。


(もう随分と昔の出来事だった気がする)


 骨張った指が小さな干菓子を摘んで僕の手のひらに置く。僕はその骨張った指が好きだった。干菓子を摘むとき、きゅっきゅっと節が動くのが好きだった。綺麗に整えられた爪の形が好きだった。僕よりずっと大きな男らしい指と手が大好きだった。

 あぁ、そうだ。僕は干菓子が好きなんじゃない。大好きな骨張った手がくれる干菓子が好きなのだ。

 目の前で干菓子を摘んでいた指や手は、気がつくと俯かなければ見えない位置になっていた。それでも指の動きを見たくて、いつも座ってからもらうようにしていた。そうすれば大好きな骨張った指や手を近くで見ることができるからだ。


(干菓子をくれた後、あの手で頭を撫でてもらうのも好きだった)


 その手をほんの少し冷たく感じたのは僕が緊張していたからに違いない。誰かに頭を撫でてもらうことがなかった僕は、はじめは体をぎゅっと強張らせた。そうやって最初のひと撫でまでは緊張するけれど、二回目からはただ気持ちよくてうっとりしたのを覚えている。


(本当はもっと撫でてほしかった)


 僕の頭をずっと撫でているわけにはいかない。わかっていたけれど、どうしても撫でてほしくていつも少しだけわがままを言った。そうすると「そんなに可愛い顔をして、困りましたね」と笑って、僕の頬をするりと撫でてくれた。

 本当は頭よりも頬を撫でてもらうほうが好きだった。頭より頬のほうが大好きな手をもっと感じられる。本当は最初からずっと頬を撫でてほしいと思っていた。

 だから次の年は、干菓子をもらったあと頭に伸びてくる手を掴んで頬をぴたりとくっつけた。


(あんなことをするなんて、きっと驚いただろうな)


 頬に触れた手が少しだけ震えた気がした。でも、大好きな手は引っ込むことなく僕の頬を撫でてくれた。

 あの人の手は少し冷たくて骨張っていたけれど、とてもなめらかで気持ちがよかった。撫でているうちに少しずつ温かくなっていくのも気持ちがいい。あまりに気持ちがよくて、僕は少し欲をかいた。干菓子をくれるとき以外にも、もっと僕の頬を撫でてほしいと思ってしまった。

 それからの僕は干菓子をくれるとき以外も骨張った手をそっと握り、頬にぴたりとくっつけるようになった。お母さまがいるときは叱られるから、誰もいないときに、こっそりと。

 あの人はとても驚いていた。「駄目ですよ」と言われたこともあれば、そっと手を離されたこともあった。それでも頬を撫でてほしかった僕は、何度も骨張った手を握ってぴたりと頬にくっつけ続けた。そうすれば最後には大好きな手が頬を撫でてくれることを知っていたからだ。


(それで僕はもっともっと欲をかいてしまった)


 もっと撫でてほしくて毎日のようにあの人の手を握った。そのうちあの人は耳や首も撫でてくれるようになった。はじめは驚いたけれど、どこを撫でられても気持ちがよくてすぐにその感触に夢中になった。

 耳の縁を撫でられると少しだけ首がソワソワした。首を撫でられると背中のあたりがムズムズした。全部が気持ちよくて、もっと気持ちよくなりたくて、「もっと撫でて」とねだるようになった。

 僕の我が儘に本当は困っていたんだろう。骨張った手がぴたりと止まり、困ったような顔で僕を見ていた。でも僕はねだり続けた。もっと撫でてほしくて何度もお願いした。すると「そんなに可愛くねだられては断れませんね」と言って笑ってくれた。


(それからは体のあちこちを撫でてくれるようになった)


 頬や首だけでなく、着物を緩めて胸やお腹も撫でてくれるようになった。どこを撫でられてもジンジンしてゾクゾクして、たまらなく気持ちがよかった。僕はあまりの気持ちよさに「もっと、もっと撫でて」とねだった。

 大きくて大好きな骨張った手に撫でられるのが大好きだった。背中も胸もお腹も足も、どこもかしこも撫でてもらった。あまりに気持ちがよくて頭が真っ白になることもあった。

 僕はお母さまがいないとき、お部屋に行って何度も何度も体を撫でてもらうようになった。

 骨張った大好きな手が撫でていないところは一つもなくなった。耳の裏も足の指の間も口の中まで撫でてもらった。あまりの気持ちよさに、僕は体中を震わせながら頭を真っ白にするばかりだった。


(あの日もたくさんたくさん撫でてもらった)


 体の隅々までたくさん撫でてもらった。本当はいつでもいつまでも撫でてほしい。でも誰かに見つかったら大変なことになる。だからずっとは撫でてもらえない。離れていく熱に寂しくなっても「もっと」とは言わないように、最後はいつも唇をグッと噛んだ。

 あのときも痛いくらいに唇を噛み締めていた。そのとき、洋室のドアががちゃりと開いた。

 それからどうなったのか、ぼんやりとしか覚えていない。ただ、お母さまがとても怒っていたことは覚えている。あのときのお母さまは、まるでお堂にある不動明王様のようなお顔をしていた。


(お母さまに言われたことは少しだけ覚えている)


 最初に「情けで置いてやっていたものを」と言われて左の頬を打たれた。驚いて呆然としている間もたくさん言われたけれど、それはあまり覚えていない。

 僕が何も言わないからか、お母さまの手がパッと持ち上がった。その手をあの人の骨張った手が掴むのが見えた。すると「あなたもあの愚かな男と同じだ。家のためにと弟にまで嫁いだのに、この仕打ちはどういうことだ」と、そんなことをお母さまが言った気がする。


(それから……そうだ、僕を怖い目で見た)


 不動明王様のような目で見ながら「淫売の子はやはり淫売だ。男のくせに男を誘うなんて汚らしい」と叫んだ。

 怖い顔をしたお母さまは、僕の手を掴んで裏庭に引っ張って行った。そうして庭の一番奥にある一番古い土蔵に、僕は入れられた。


「おまえは淫売の子だから最初からこうすればよかった」とお母さまが言った。「遠く京の都から嫁いできたというのに、おまえの父は淫売に夢中になり淫売の子を、おまえを作ったのだ」と怒鳴られた。


「それでも家のためにと、唯一の跡取りだからと我慢して引き取ったのに」

「今度は淫売の子が次の夫をたぶらかした」

「やはり淫売の子は淫売だ。兄弟そろって淫売に惹かれるなど、なんて汚らしいこと。なんておぞましいこと」


 そんなことを恐ろしい声で言われた。


「おまえは一生、ここで過ごすといい。わたくしが味わった気持ちを少しでも味わうがいい」


 お母さまは不動明王様のような怖い目で僕を見ながらそう言い、最後に土蔵の扉を閉めた。鍵をかけながら「淫売やあの人と同じように今度も処分してしまえばいい」と言っていたのが、お母さまの声を聞いた最後だった。

 そういえば、あの日もちょうどお盆の月だったような気がする。どこからか漂っていた線香の匂いは今もよく覚えている。

 それから僕は一人で土蔵にいる。どのくらいここにいるのかよくわからない。ここには誰も来ないし、外がどうなっているのか知る術が僕にはなかった。


(もう随分時間が経った気がする)


 一人でいることには慣れていたから寂しくはない。お母さまが僕に話しかけることはなかったし、ほかの人たちも僕をいないものとして扱っていたからいつも一人みたいなものだった。家には大勢の人たちがいたけれど、僕はいつも一人きりだった。

 でも、あの人は違った。僕が小さいときに家にやって来たあの人は、誰もいないときにそっと干菓子をくれた。お盆の月にしか干菓子はもらえなかったけれど、僕はそれがとても楽しみだった。

 僕の世界には僕とあの人しかいなかった。だから骨張った指もすぐに大好きになった。その指で、その手で僕を撫でてほしい。いつだって撫でてほしいと願った。

 本当は、もっともっと撫でてほしかった。いつだって撫でてほしかった。指で撫でてくれるのも、手のひらで撫でてくれるのも、温かな体で抱きしめてくれるのも、全部全部大好きだった。

 でも、もう随分と長い間撫でてもらっていない。どのくらいかわからないけれど、何度もお盆の月が来た気がするからやっぱり随分と長い間なのだろう。

 あの人はどうしているだろうか。まだ僕を覚えているだろうか。顔を見たら、またあの骨張った指で、手で撫でてくれるだろうか。もっと撫でてとねだったら、たくさん撫でてくれるだろうか。

 待っても待っても、あの人には会えない。ずっと待っているけれど、あの人には会えないままだ。

 土蔵ここは僕しかいない、僕だけの世界。どんなに願っても、もう誰も僕を撫でてはくれない僕しかいない世界。わかってはいるけれど、やっぱりあの人に撫でてほしいと、そう思ってしまう。


『……ゥ』


 不意に声が聞こえた気がした。とても小さな声だけれど、何度も聞こえるから目を開けた。上のほうにある小さな窓は暗い。でもほんの少し明るいということは月が出ているんだろう。


(こんな夜に誰の声だろう)


 もしかしてお盆だから聞こえたんだろうか。お盆の月は、いつも朝も夜も遠くで人の声がする。昔は随分と賑やかな声が聞こえていたけれど、近頃はほとんど声も聞こえなくなった。だから、こうして聞き取れる声がするのは随分と久しぶりのことだ。


『……ゥ』


 また声が聞こえた。でも、何と言っているのかまではわからない。


『……ゥ』


 何と言っているのか気になって、ゆっくりと起き上がった。


『……ウ』


 また聞こえた。今度はさっきよりも近くから聞こえる気がする。ゆっくりと立ち上がって扉に近づいた。


『……ウ』


 もしかして扉の向こう側に誰かいるんだろうか。そっと扉に耳を近づけてみた。こんなことをしても聞こえるはずがないのに、気になって耳を近づけずにはいられない。


『……ロウ』


 あぁ、やっぱり扉の向こう側から聞こえる。何と言っているのかはわからないけれど、でも声が聞こえた。どのくらいぶりだろう。人の声が懐かしくて扉にぴたりと耳をくっつけた。


『……ロウ』


 また声が聞こえた。扉はひんやりとしているのに、声が聞こえると少しだけ温かくなる。

 また聞こえないかな、もう聞こえないかな。そんなことを思いながら、扉にぴたりと耳をくっつけたままそっと目を閉じる。


『……ロウ』


 聞こえた、また聞こえた。意味はわからなくても、人の声が聞こえるだけで嬉しくなった。ぴたりと扉にくっつけた耳には、何度も何度も意味のわからない声が聞こえてきた。意味はわからなくても声が聞こえるだけで嬉しい。


『シロウ』


 聞こえた声に体がビリビリとした。突然の感覚に慌てて扉から耳を離した。

 手がビリビリする。足もビリビリしている。まるで長い間正座をしていたときみたいにビリビリする。こんなことは初めてだ。


『シロウ』


 ビリ、ビリビリ、ビリ。声が聞こえた途端に体のあちこちがビリビリした。


『シロウ』


 ビリビリ、ビリビリビリ。まただ。ビリビリが少し強くなって怖くなってきた。


『シロウ』


 誰? この声は誰の声? 扉の向こう側にいるのは、誰?


『シロウ』


 シロウって、誰? シロウって言っているのは、誰?

 ビリビリが強くなって、僕は立っていられなくなった。ひんやりした扉に寄りかかりながらズルズルと床にすべり落ちていく。


『シロウ、聞こえているんでしょう?』


 扉に当たっている右腕がビリビリした。聞こえているんでしょうって、もしかして僕に話しかけているんだろうか。


『シロウ、出ておいで』


 出ておいでって、どういうことだろう。だって僕は、ここにいなくちゃいけない。ここから出ることはできない。お母さまがここにいろと言ったから出ることは許されない。


『シロウ、出ておいで』


 出たらいけないのに、どうして出ておいでなんて言うんだろう。僕がここから出たら、きっと家の人たちみんなが叱られる。お母さまはとても怖い人だから家を追い出される人たちがいるかもしれない。だから、僕はここを出たら駄目だ。


『シロウ、おいで』


 駄目だとわかっているのに、僕を呼ぶ声に出たいと思ってしまった。駄目なのに、そこに行ってもいいのと尋ねたくなった。


『シロウ、おいで』


 駄目なのに、呼ぶ声のところに行きたくて仕方がない。そこに行きたい、僕を呼ぶ声のところに行きたい。体中がビリビリして怖いけれど、でも、そこに行きたい。


『シロウ、わたしのところにおいで』


 行ってもいいんだろうか。ここを出ても叱られたりしないだろうか。家の人たちが怖い目にあったりしないだろうか。


『シロウ、大丈夫だから、わたしのところにおいで』


 大丈夫だと聞こえた瞬間、目の前の扉が開いた。ずっとずっと、一度たりとも開かなかった扉が開いた。

 僕は、真っ直ぐに声のところに走った。ビリビリしていたからか足がうまく動かない。体がふわふわして地面を踏んでいる気がしなかった。それでも僕は精一杯足を動かして、声のほうに走った。

 骨張った指と手で僕をたくさん撫でてくれた、大好きなあの人の声がするほうに一生懸命走った。

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