第9話 殺人者

 殴られた環はバランスを欠いて倒れる。バニラといちごのジェラートが落ちて、白い屋根を汚した。


「なんで恵も俺を責めるんだよ!!!!」

「私は環……」

「今日は恵でいてくれるって言っただろ!」


 馬乗りになられる。内臓が圧迫される苦しさ。魂に内臓などないはずなのに。


「なんでお前は言うことをきかないんだ!」


 顔を何度も殴られる。頭蓋骨の奥まで響くような衝撃に、環は抵抗すらもできない。


「俺はこんなにお前のことを思ってるのに。服だってうまいもんだってなんだってやってるのに」


 大きな手の平が、環の華奢な首を絞める。

 苦しい。


 肉体ではないためか、意識が遠ざかることはない。終わることのない窒息があった。晴山の血走った目に、殺意が満ちている。モラハラどころの騒ぎではない。こいつ、絶対に、恵を殺している。


「一回殺してやったのに、まだ分からないのか!」


 味わったことのない苦しみに、環はもがく。それに腹が立ったのか、晴山の手にさらに力がこもった。


 誰か、誰か。

 目を走らせるが、袋小路に人はない。

 このまま死ぬのか。あの世で?あの世で死んだらどうなるの?

 魂が消えるの?


 思い出が走馬灯のように駆けめぐる。夏生の顔が浮かんだ。そう、死んだあの日も夏生に会っていた。でも、うまく話ができなかったような気がする。なんでだっけ――。


「そこまでだ!」


 怒声が響き渡る。瞬間、環は苦しみから解き放たれた。全身を震わせて、激しく咳きこんだ。


 身を起こすと、自分の横に晴山が倒れていた。背中には、深々と槍が突き立っている。


「大丈夫か」


 鎧を着こんだ天使が舞い降りてくる。凛とした顔つきの、女の天使だった。無骨なシルエットに対し、黒髪のポニーテールがやけにかわいく見えた。


「なんとか……」


 気分は最悪だった。顔がジンジン痛むが、傷はないようだった。


「こいつは何十年とあの世を逃げ回っていた殺人鬼だ。我々の警備が至らず、確保に時間がかかってしまった。申し訳ない」

 頭を下げる。

「何十年も?」

 だから、語彙が古く、町のことにも詳しかったのだ。


「汽車でお聞きしたと思うが、殺人者は即刻刑場行きだ」


 天使は、晴山ごと槍を持ち上げる。ゴミでも放るように投げると、槍が宙に留まる。晴山を突き刺した切っ先を天に向けると、青空へとぶっ飛んでいった。

「あの槍はまっすぐ刑場に向かう。二度とあなたの前に現れることはないから、安心してほしい」

「はあ……」

 脱力して倒れそうになる。「危ない」と天使が体を支えた。


「あ、すみません」

「あなた、名前は?」

 天使が、環のペリデレオに目を落とす。

「夜見環です」

「私は神の補佐の一人、マティナと申します。あなたの話は、主から聞いております。神殿へお連れしましょう」

 マティナがそのまま環を抱え、翼を広げる。


「飛びますよ」

「うわっ」


 マティナが空に舞い上がる。

 町全体を見渡すと、駅があるのは中腹のあたりだった。頂上に、太い柱が並んだ建物がある。


「最も上にあるのが、神殿です。どの町も、神は最も高い場所にいますので、覚えておられると便利かと」

 教えてくれえたことにお礼を言おうとしたが、恐怖や強風で声が出ない。

「では、行きますよ」


 ひとつ羽ばたくと、車よりもずっと速く空を滑る。環は天使に必死でしがみついた。

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2024年12月21日 21:34

環はあの世を駆けめぐる 春日野 霞 @haruhino_kasumi

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