皇帝、庶民の味を食する

 皇帝の寝殿である、渾天宮こんてんぐうにて。

 翔雲しょううんは、霜烈そうれつが献上した山査子の飴がけ──市井では糖葫芦タンフールーと呼ぶらしい──を興味深く味わった。皇帝たる彼の前に、果実の形がそのままに饗されることは珍しい。飴を纏わせただけというのも、厨師ちゅうしが技巧を凝らした菓子や点心を見慣れた身にはかえって新鮮だった。


 飴と果実を共に味わい、咀嚼してから、翔雲は感想を述べた。


「食感が良いな。甘すぎないのも良い」


 駄菓子に感動するというほどのことはなく、庶民はこういうものを食しているのか、というの意味合いのほうが大きい。やや四角四面な評にはなったが、それでも霜烈は目が痛くなりそうな眩い笑みで、嬉しそうに頷いた。


「それはよろしゅうございました。今日の宮市きゅうしでも、もっとも人気の品でした」

「これは、庶民にとっても素朴なものではないのか? ほかにも色々揃えたのだろう?」

燦珠さんじゅが長く売り子を務めましたので。ご存じの通り、あの者の声はよく通るのです」

「なるほど?」


 何となく、だが。霜烈が糖葫芦タンフールーを選んで皇帝に食べさせたのは、贔屓の娘役のことを話題に出したいからではないか、という気がした。霜烈の、月の光を思わせる冴え冴えとした眼差しが、梨燦珠という娘を語る時には常に和らぐのだ。


(そもそも、あの娘は街角で舞い歌っていたとか。ならば水を得た魚、といったところだったのだろうな)


 厳しい父に育てられた翔雲は、煌びやかな華劇を見るといまだに楽しみよりも罪悪感が勝る。だが、市井の市を模したなら、見てみたかったな、とはちらりと思う。秘華園の役者たちが演じる美化したものではあっても、客となるのは後宮に仕える者たちだ。彼ら彼女らの声を直に聞いてみたかったものだが──皇帝が傍にいると分かれば、誰も口を噤んでしまうのだろう。


「では、宮市は成功したのだな」


 だから、今日の催しの成否については、霜烈から聞くしかないのだ。ただでさえ整った──整い過ぎた面が満足げな微笑を湛えているのを見れば、答えは聞くまでもないのだろうが。


「はい。しゃ貴妃きひ様をはじめ、妃嬪の方々も楽しまれたご様子ですし、下々にとってもたまの娯楽は励みになりましたでしょう。陛下のご慈悲ということも伝えましたし」


 宮市の実現に当たって、霜烈が真っ先に懐柔したのが謝貴妃華麟かりんだった。寵愛する男役の星晶せいしょうと、仮初の市場で庶民の恋人同士のをする、という発想は、案の定というべきかいたく彼女の気に入ったらしい。裕福な謝家の後援と、日ごろから買い付けに携わる宦官たちの協力があればこそ、延康えんこうちまたから諸々の品を仕入れる準備も順調に運んだのだと聞いている。


「謝貴妃が楽しんだのは想像できる。が、他のものやげじょや宦官も、なのか? 慰労ならばまとまった金品を下賜したほうが良いのではないかとも思ったのだが」

「自ら選ぶ、ということは何よりの楽しみになり得ますから。貧しい者にその機会がないのはもちろんのこと、尊い方々も、意外と不自由なものですから」

「不自由……?」


 言われて、翔雲は首を傾げた。

 確かに彼は店頭で買い物などしたことはなく、着るものも食べるものも、それどころか朝起きてから夜に休む間の所作がこと細かに決められている。だが、それは皇帝という位に伴う義務であり責任というものであって、不平不満を感じたことはなかったのだが。


(……そういうもの、なのだろうな)


 妃嬪の中には、入宮したことで環境が大きく変わった者もいるのだろう。翔雲がこよなく愛する香雪こうせつからして、実家の家格は決して高くなかった。皇族に生まれた身には思い至らぬことが多いと心得ておくべきなのだろう。


 宮市の目的は、妃嬪の娯楽と使用人の慰労に留まらず、皇帝かれ自身の学びにもあったのかもしれない。それに──翔雲と霜烈しか知らぬ目的も、あった。

 人払いをした私室にいることは承知で、翔雲は声を低めた。


「あとは、かい太監たいかんか。予定通りにのだな?」

「はい。血相を変えて駆けつけてくださいました」


 答える霜烈も、溌溂とした娘役者のことを語っていた時とは裏腹に、美しい笑みを皮肉げに翳らせる。そうすると妖しい色気が増して、間近に人を酔わせる香の花が咲いたような気分にさせられる。


「『司令監しれいかん太監を無視する無礼な若造』には腹に据えかねていたようでございますね」


 そう──秘華園ひかえんを含めた後宮の娯楽を統括する鐘鼓司しょうこし太監に任じられて以来、霜烈は宦官の長である隗太監にいっさいの挨拶をしていなかった。

 なぜなら、霜烈の美貌は彼の出自をどんな言葉よりも雄弁に物語ってしまうからだ。隗太監は、先帝の時代から長く後宮に仕えている。《偽春ぎしゅんの変》に関するいくつかの出来事と証言を合わせれば、のかなり近いところまで推測できてしまう可能性があったのだ。


(だから、冷静さを失わせたところでする必要があった。宮市で、身分の貴賤を問わずに多くの者がいるなかで、『楊太監』と対峙して何も言えなかった、という状況にできれば──)


 そうすれば、隗太監が後から何を言い出したとしても、信憑性は薄くなるだろう。というか、あの醜悪な宦官にとっては霜烈との対面は白昼に幽鬼ゆうれいを見たようなもの、さぞ驚き怯えていることだろう。


 皇帝の最側近ということにはなっているものの、隗太監は隙あらば私腹を肥やそうと企みを巡らせる、宦官の悪弊の象徴のような存在だ。目障りかつ厄介な相手が周章狼狽する姿を思い浮かべて、翔雲はほくそ笑んだ。


「今ごろは、会わないままでいたかったと考えているだろうな」

「さあ、もっと早く会っておけば、とお考えかもしれません」


 霜烈が声を低めると、煌めく氷の粒が宙を漂うのが見えるような気がした。不安や憂いや緊張を帯びていてもなお、美しい声は美しい光景を想像させる。


「それは──どういう?」


 だが、霜烈の人生において、美貌も美声も災厄の源だったことがあまりに多いのだ。問いかけた翔雲は、すぐにその事実を思い出させられることになった。


「先帝がご存命の間に私を捕らえられていたなら、その功をもって司令監太監になれていたでしょうから。それを思えば悔しがっておられるかと」

「ああ……」


 霜烈が述べた推測はまったくもっともなこと。そして、彼にとっては最悪の想像であることもよく分かるから、翔雲はただ深い溜息を吐いた。


(まったく、あのけだものどもは……!)


 血を分けた伯父とはいえ、その所業と性根を知るほどに、先帝は嫌悪の対象となる。憤りを押さえて、しばし考えてから口にしたことは、果たして霜烈への慰めになっていたかどうか。


「俺が承知の上だとも伝えたのであろう。ならば悪だくみを巡らせる余地はない。あの者が狡猾であればあるほど、勝手に自縄自縛に陥るであろう」


 翔雲の立場で、霜烈のを知った上で生かし、あまつさえ重用する理由について、隗太監のような者は決して理解できないだろうから。重大なを掴んだところで、利用のしかたが分からなければどうしようもあるまい。


「……ええ。ご厚情には重々感謝申し上げております」


 わずかながら、霜烈の表情が緩んだので翔雲は心から安堵した。

 のちの面倒を避けるために死を賜りたい、などと言い出したこともある相手だ。末永く仕えてもらうためには、言葉も誠意も惜しんではならないし、懸念は取り除いてやらなければならないと思っている。褒美で繋ぎ止めるのは──芝居さえあれば良いと常々言うような者だから、良い方法がなかなか思いつかないのだが。


「そなた自身は、今日の宮市は楽しめたのか? それどころではなかったかもしれぬが。そなたもこういう菓子を食べたりするのか?」


 この際探りを入れてみよう、と思い立って、翔雲は尋ねてみた。霜烈の好みも生い立ちも、彼のものとはまるで違うから、聞いて初めて分かることも多そうだった。


「そうですね……初めて延康えんこうの市を見た時は、知らない食べ物の多さに目が回るような思いをしたものです。陛下にも、いつか御自ら足を運んでいただきたいものですが」

「ほう」

糖葫芦タンフールーも、本来はこのように磁器の皿に並べるのではなく、串に刺して供するのです。ですから、何ごとも直に見ていただいたほうが良い──市の賑わいも、見ものでございますから」


 山査子の赤が映える青磁の皿に品よく盛られた駄菓子を見て、霜烈は軽く苦笑したようだった。翔雲は庶民の味を知ったと思っていたのだが、後宮に入ると素朴な菓子も本来の姿のままではいられないらしい。


「それは、本来のほうを食してみたかったな」

「まことに。それに、市井では売り子の呼び声に釣られて子供たちが集まるのです。大人も、声の艶で美形の売り子を品定めしたりもします。その風情があってこその味わいかもしれませぬ」


 物語を語るような口調で翔雲の好奇心を掻き立ててから、霜烈は銀の弦を張った琴を奏でるように美しい声で口ずさんだ。


「甘くて赤い、糖葫芦タンフールーはいかが?」


 単に抑揚をつけただけの口上なのに、霜烈の声と絶妙な抑揚で聞くと情感溢れる歌のようだった。


「……そなたならば、延康中の山査子を売りつくすことができそうだな」

「私は、燦珠の口上を聞いて同じことを思いました。もしもまた宮市をやるなら、競争してみても良いかもしれません」


 冗談めかして霜烈は笑った。この者は秘華園の芝居は役者だけのものと心得ている節があるから、実際に売り子を演じる気はないのだろう。だが、それでも。翔雲の脳裏に美しい光景が浮かび上がった。


 艶のある声の口上で、輝くばかりの美しい笑みで。砂糖に群がる蟻のように客を引き付ける糖葫芦タンフールー売りの夫婦がいたら。


(……美貌と美声と才の無駄遣いだな。そうならなかったのは僥倖というもの。だが──)


 このふたりなら、互いさえいればそれを無上の幸せと感じるのではないだろうか。地位も権も名誉もなくても、ただ、ふたりでいられれば。

 それはとても羨ましいことにも思えた。

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秘華園、宮市に酔う 悠井すみれ @Veilchen

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