水花

春乃ヨイ

水花

 藤野伊織という男は、私の知る限り最も純な男だった。


 同じ帝大生とはいえ法律学科の秀才と呼ばれていた彼と英文学科の落ちこぼれであった私とでは接点もなにもないはずであったが、当時私が構内で飼いならしていた野犬が彼の足に噛みついてしまったのをきっかけにお近づきになったのである。

 藤野は同年の青年には稀な物静かさと思慮深さを持ち合わせていた。同時に向こうの方でも私の粗野な立ち居振る舞いが物珍しかったようで、次第に互いの下宿を行き来するほどの仲になっていた。


 藤野は典型的な堅物であったが、それでこそ此方から色々と教え込む醍醐味があるというもの。霜の降りた或る冬の晩、私は藤野を引っ張って、悪友数人と湯島の駒屋という茶屋に繰り出した。というのも、駒屋には明里あけさとという私の馴染みがいたからである。明里は江戸気質の気風の良い女で、店でも随分と人気があった。


 勝手知ったる店の中をずかずかと上がっていくと、しばらくして明里が芸者衆を連れて座敷に現れた。藤に山吹、躑躅つつじ萌葱もえぎ。鮮やかな色彩が座敷に氾濫し、白粉と香の匂いが鼻先に漂う。

 藤野は目鼻立ちの整った優男で、その上我々のような落伍者とは違い立派な学生様となれば周りの女が放っておくべくもなく、あっと言う間に芸者衆に囲まれてしまっていた。しまいには、黒の詰袖を粋に羽織った明里さえ手ずから酌するほどで、


「お前、つい先日は『ぬしさん一筋』なんて言ってたじゃないか」


 と私が茶々を入れると、


「女郎の口約束なんざ、間に受ける方がバカなんですよ」


 とぴしゃりと言い返されてしまった。肝心の藤野はというと、このような店に足を踏み入れるのも初めてだったようで、大層居心地悪そうに身を縮めていた。その姿がまた「マア、お可愛らしい」と人気で、左右から酒を注ぐ手が止まらない。


 藤野を囲んできゃあきゃあと嬌声きょうせいが響く中で、一人ぽつねんと離れたところに座っていたのが夕顔という名のまだ若い芸者だった。

 垂れた眉とまなじりが柔らかな印象を与える、いかにも幸の薄そうな目立たない女で、後日明里の口からその名を聞いてもすぐには顔を思い出せないほどであった。


「うちの夕顔、覚えてます?」



 藤野を連れて行った晩は結局明里との飲み比べで私の方が潰れてしまい、どう下宿に帰ったものやらあまり覚えていない。すぐに顔を出しちゃあ面子が立たないと数日空けて駒屋を訪れたところ、ふと明里が私に尋ねた。


「夕顔……ああ、こないだ座敷の端にいたかい」

「それが今朝、藤野様がおいでになって夕顔に会っていかれたんですよ」

「へえ、そりゃまたどうして」


 藤野とは私も大学で顔を合わせていたが、そのような話は聞いていなかった。そもそも奴は自分からあの晩の話をすることもなく、その生真面目な質からしてやはり芸者遊びはお気に召さなかったかと結論付けたばかりだったのだ。それがわざわざ自分から足を運ぶなど、なかなかどうして隅に置けない。


「夕顔に聞きましたらね、あの晩藤野様に手巾しゅきんをお貸ししたんですと。大分酔っているご様子でしたから。そしたらご丁寧に手巾を洗って返しに来てくださったんですよ」

「まあ、いかにもあいつらしい話だな」


 蓋を開ければ艶っぽくもなんともない話に肩透かしを食らいながらも、私はどこかでそれまでとは違う予感を抱いていたのかもしれない。


「あのも随分喜んでいて。またご贔屓にとお伝えくださいね」


 明里はそう言って、にっこりと商売用の笑みを浮かべた。



   *



 しばらく経って、私は道中買った蜜柑を手土産に本郷の藤野の下宿を訪れた。


 常ならば彼は難しい顔をして法律の本を開いていることが多いのだが、その日は文机に向かって書の代わりに一枚の薄葉うすようを広げていた。脇には溶かした顔料の入った小皿が数枚置かれている。

 藤野はひどく傾注しており、私が部屋に入ったのにも気が付かないようだった。


 薄葉に描かれていたのは、一人の少女が赤ん坊を背負っているなんとも他愛のない絵であった。薄い下絵の上を迷いなく絵筆が滑り、濃淡をつけていく様はいかにも手馴れている風で、出来栄えもまた本職のようである。

 勉学以外に趣味のない男だと思っていた彼に、存外芸術を解する風情があるのはこういうわけかとその時私は得心した。


「藤野、貴様は絵が上手いんだな」


 後ろから声を掛けると、びくりと藤野の肩が跳ねた。


「なんだ君、来ていたんだね」


 そう答えた彼は、遊びに夢中になっているところを親に見つかった子供のような、どこかばつが悪そうな顔をしていた。


 私は蜜柑を藤野に押し付け、火鉢の煙に燻った空気を入れ替えるため障子窓を開け放った。鋭く冷えた風が四畳半の部屋に吹き入れ、色とりどりの薄葉がひらひらと宙に舞う。その光景は分厚く真っ黒な書物しか置かれていない藤野の部屋に一瞬の華やかさを添えた。


「絵描きになろうと思ったことはないのか?」


 机の横にどかっと腰を下ろして尋ねると、藤野は少し眉尻を下げて笑った。


「うちは代々法律屋だからね」


 答えになっていない返事と、彼の顔に浮かんだ諦念に私は微かな反発を募らせた。藤野はあまり国元の話をしようとはしなかったが、奴の実家が地方でもそれなりの名家であるということは私もどこからともなく耳にしていた。


「それがまたどうして突然描き始めたんだ?」

「前に君に連れて行かれた店に、夕顔という娘がいただろう。あの後、彼女に用があって訪ねに行った時に少し話をしたんだ。なんでも客の一人に本を貰ったが文字が読めなくて話が分からないと言うんで、僕が挿絵を描いてやろうと約束したんだよ。昔、弟にもそうしてやったことを思い出してね」


 藤野はそう言って、再び絵筆を動かし始めた。


 彼に夕顔とのことを根掘り葉掘り問い質すような無粋な真似を、私はしたくなかった。ただ、真面目一辺倒の彼に気保養の場ができたことに一種の安堵感を覚えながら、私は薄葉にじわりと広がっていく丹青をぼんやりと見つめていた。



   *



 それから藤野は律儀に駒屋に足を運んでいるようだった。あのような堅物をともあれ繋ぎ止めるとは、大した手管もあったものだ。私は今一度夕顔という女の面を拝みたいものだと思うようになっていた。


 朧月夜の春の晩、私は駒屋の座敷で一人盃を傾けながら明里を待っていた。ところが待てど暮らせど目当ては姿を現さない。暇を持て余した私は茶屋の中をうろうろと歩き回ることにしてみた。

 ぴたりと閉ざされた襖の並ぶ廊下を薄行燈の灯を頼りに進んでいくと、左右から微かに三味線や長唄の音が聞こえる。その中で一室、襖が細く開いた部屋があり、私はついひょいと中を覗き込んでしまった。


 手狭な部屋の中には、島田に赤い珊瑚玉の簪を挿した一人の芸者が座っていた。私が顔を出した拍子に敷居がきしと音を立て、女は此方を振り返った。


「アレ、本田様。明里姐さんをお呼びしましょうか?」


 垂れた眦に紅を差したその顔は、確かにあの日座敷で見た夕顔の姿と同じだった。


「いや大丈夫だ。悪い、邪魔をした」


 そっと立ち上がろうとする夕顔を私は制止した。明里が姿を見せないのは、そうやって客を焦らすいつものやり口だと分かっていたからである。そうして踵を返そうとした時、私は初めて夕顔の膝の上に横になっている藤野の存在に気が付いた。

 講義の最中はもちろん、突然下宿を訪ねた時であっても決して他人に寝姿を見せたことなどない男が、女の膝に頭を預けて寝息を立てているのである。少し伸びた髪がくしゃりと乱れ、鈍色にびいろの絣の上に女物の白藍の羽織を掛けた姿が私の目に妙に婀娜あだっぽく映った。


「試験が近いと仰っていましたから」


 夕顔は白雪の項に垂れたびんの後れ毛をちょいと直しながら言う。


「藤野様は優秀な学生様なのでしょう?」

「ああ」

「この先きっと、立派におなりになるのでしょうね」


 夕顔はそう言って微かに笑うと、自身の膝の上で眠る藤野を見やった。


「……ほんに、わたしには勿体ない方ですね」


 薄暗がりの中、行燈の灯に照らされた二人の姿に知らずドクリと心臓が跳ねる。私は肩をすくめ、わざとおどけた口調で言った。


「明里にも見習って欲しいものだよ。もっとも、俺のような貧乏学生はお呼びじゃないんだろうがな」

「姐さんも本田様のこと、大切に思ってらっしゃいますよ」


 夕顔は混じりけ一つない澄んだ瞳で答えた。その瞳の真っ直ぐさに耐えかねて、私は曖昧に言葉を返しその場を辞した。



   *



 私の周りにも女に身を持ち崩す者は珍しくなかったが、色街に通い詰めて大学にも碌に顔を出さず、金を使い果たした挙句道を踏み外すというのが大概であった。その中にあって藤野は豪遊することも羽目を外すこともなく、粛々と夕顔のもとに通っていたのである。


 大学の夏休みが始まり、藤野は国元へと帰省してしまった。私は養家に帰る気分にもなれず、ただ東京の茹だるように暑い夏を怠惰に過ごしていた。昼過ぎにのそりと起き、酒を浴びながら学友と共に刊行していた同人雑誌に掲載する原稿を書き、そして倒れ込むように布団に横になる。

 そのような不健全な生活を続けて今日が何日なのかも分からなくなりかけてきた時、ひょっこりと藤野が私の下宿に顔を出した。


 盆の間中は実家にいると聞いていたのだが、少し早めに切り上げて帰って来たのだという。気心知れた男友達とはいえ私の部屋は到底人に見せられるものではなく、私は藤野を誘って散歩へと出かけた。

 陽が傾いても空気は蒸しており、木陰でしゃわしゃわと鳴く蝉の声が暑さをかき立てるが、藤野は首筋に汗一つかかずに歩いていた。


「帰省はどうだった?」

「久しぶりに弟に会ったら、吃驚するくらい大きくなっていてね」

「確か、今年中学に入ったんだったか?」

「ああ」

「それくらいの歳の子は、少し目を離した隙に成長しているものだからな」


 藤野の歳の離れた弟の話だけは私もよく耳にしていた。奴の、歳の割には達観した雰囲気は長子たる自覚から来ていたのかもしれない。


 上野の公園を通り過ぎ、不忍池の畔に出た。夏宵にぽつぽつと小雨が降り、脇の草を潤していく。ふと隣を歩く藤野に目をやると、色の白い左頬に微かに赤く腫れたような跡があることに気が付いた。私が口を開きかけたその時、池をぼんやりと光るものが流れていくのが見えた。

 よくよく見ると、和紙の貼られた木枠で蝋燭を囲んだ一抱え程の大きさの灯籠が数多水面に浮かんでいるのだ。和紙には墨で絵が描かれているものもあり、中の蝋燭がそれを水面に映し出す。盆名物の灯籠流しだ。


「縁談がきたんだ」


 藤野がぼそりと呟いた。


「縁談? 貴様に?」


 私は思わず頓狂な声を上げてしまった。しかし歳や家格からいえば、藤野にそういった話の一つや二つ降りかかっても全くおかしくはない。


「相手はどんな人なんだ?」

「父の知り合いの娘さんだよ」


 そう答える表情は固く、どこか思い詰めているようにさえ見えた。


「貴様には優柔不断なところがあるからな。まあ、受けるにせよ断るにせよ、えいやと思い切り良くやってみたまえよ」


 内省的な藤野と共にいると、私は己の性格が多少粗雑で鈍感になるように意識する節があることに気が付いていた。その時も、私は意図された快活さで藤野に応えたのである。


「思い切り、か」


 藤野は水面を見つめながらそう呟いた。灯籠の仄かな明かりに照らされた横顔に、雨に濡れた前髪がはらりと垂れて影を落とす。宵闇の中、橙色の光がゆらゆらと漂う姿はまるで死者の魂が列を成しているかのごとく儚く幻想的だった。


「また学校で」


 別れ際に、私は藤野に手を振って言った。藤野は柔らかく微笑み、その後ろ姿は揺蕩う灯の中ですぐに遠く見えなくなった。


 そして盆休みが明け最初の授業が始まる日、藤野は初めて大学に姿を現さなかった。



   *



『不忍池で情死死體したい発見さる

 帝大生と湯島芸者、今生では叶わぬ恋路の果てに』


 新聞の三面記事を目にしてようやく私は、初めからあくまで優しく穏やかに、藤野は破滅への道を実直に辿っていっていたのだと悟った。



   *



 藤野の国元へは何本も電報をやったものの、一度も返信が返ってくることはなかった。今になって勘当するくらいなら、もっと早くにそうすれば良かったのだ。雨降る日にひそやかに執り行われた二人の葬儀に参列客の姿はなく、時折訪れる下世話な新聞記者たちを物干し竿片手に追い出すことくらいしか喪主としての仕事はなかった。私がもう一度電報を打とうかと思案し始めた時、からんと軽い下駄の音がした。


 目の前にあったのは黒い詰袖を羽織った女の姿だった。私には目もくれず、顔を上げて真っ直ぐに位牌へと進むと右手に抹香を摘む。焼香が終わると明里は私の目の前に腰を下ろし、懐から煙管を取り出し口に運んだ。


「バカですよ、あのは」


 顔を背けた明里の肩が微かに揺れていることに私は気が付いていた。常に玉虫色の紅がひかれた明里の口から本音が漏れだすのを、私はその時初めて耳にしたのだ。


 ざあざあと軒に雨粒が当たる音だけが部屋に響き、私は終始無言のままであった。明里はぷかりと煙を吐き出すと煙管を一度強くカンと打ち据え、立ち上がった。ぴんと伸びた黒の着物の後ろ姿は、花柳の女の無念も願いも恨みも幸せも全てしょい込んで立っているかのように見えた。


 それが、私が明里に会った最後である。



   *



 綺麗に片付けられた藤野の部屋を整理している最中に、私は和紙の一束を見つけた。一枚ずつめくっていくと、牡丹や朝顔といった花のスケッチに本郷周辺の風景画が並ぶ。そして最後に、横になった女の姿を描いた水彩画が出てきた。

 白藍しらあいの裾引からほっそりとした足首が覗き、背中から腰にかけての曲線の一等細いところに掻練かいねりの腰帯を締めている。瓜実の顔は下に伏せられ、乱れた洗い髪が項にかかる。清らかで艶めかしいその絵を、私は格別美しいと感じた。


 思うに、藤野の柔らかな精神が耐え忍ぶには現世うつしよはあまりに厳しく無責任で、そして現世から目を背けて生きるには奴はあまりに純粋だったのである。


 私の罪は今も、二人揃って谷中の墓地に眠っている。

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水花 春乃ヨイ @suzu_yoshimi

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