煙はいつか冥土に還る
夜遅くなると駄目だからと、先生が提案してその日はお開きになった。
帰宅する道すがら、学ランに残った線香やら煙草やらの臭いが鼻についたが、悪くない気分だった。今日はそうだな、久々に楽しかったかもしれない。
左足一本の鎖を残して手を振っていたメイちゃん先生の姿が目に浮かぶ。残る一つの心残りは何なんだろう。それを解いたとき、彼女は消えてしまうのだろうか。
自宅の玄関の前ではたと立ち止まる。俺は今、寂しいと思ったのか?
上がり框で首を傾げて己の心を計りかねていると、脇の仏間から声がかかった。
「遅かったな」
「……ああ」
養父は仏像に顔を向けたまま、振り向きもせずに言った。俺もおざなりに返事する。いつもの光景だ。養父が手を合わせ経を唱える先には、何も視えない。無に向かって毎日拝んでいるようにしか見えないその背中に頼りたいと思ったことは一度もなかった。
帰宅の遅さも鞄を持たずに帰ったことも特に咎められることなく、俺は仏間を通過して自室へ向かった。
芦峯は養父の姓であって、俺の本来の姓ではない。実の父親は森岡といって、ろくに会ったこともないが、どこかの金持ちらしい。その金持ちが使用人に浮気をして、生まれたのが俺だった。
そんな不肖の子など手放しておけば良かったのに、本妻との間に男児が生まれなかったからというふざけた理由で、いつになるかは不明だが俺はいつか森岡家に引き取られる予定らしい。人を猫か何かと思っているのだろうか。
妾の子だからと森岡家の本妻家族からは疎まれ、育てを命じられた養父の芦峯家では「粗相があってはならない」と腫物扱いで、この世のどこにも俺の居場所はなかった。
だから家から逃げるように学校へ通い、さらに教室からも逃げるように保健室に駆け込んでいたのに。保健室の戸を引いても、もうマルボロの臭いがすることはない。ただの俺という一個人を認識して気にかけて適度に放っておいてくれる人は、もういない。
ああ、何で死んじゃったんだろうな、あの人。
自室の窓の外に目を遣ると、白い雪が音もなく降り積もっていた。
翌朝登校すると、門の前でメイちゃん先生が手を振っていた。白衣にまとめ髪姿の彼女は、いつも保健室で見ていたように気怠げだ。
「おはよ、芦峯くん。煙草吸う?」
「自分が吸いたいだけだろ」
呆れてそう言うと、彼女は「バレたか」と笑った。ポケットの中のマルボロも残すところあと数本というところだが、大事に吸おうという気はなさそうだ。さすがに正門前で人目もあるので、ここでは点けないが。
先生は俺の袖を引く。
「行きたいところがあるんだけど」
「どうせ着いて来いって言うんだろ。どこ?」
「うふふ、内緒」
手を引かれるままに、俺は学校のそばのバス停へ歩いていく。
はたから見れば独り言を言いながら手ぶらで正門をUターンしていくおかしな男子学生なのだろうが、もうそんなことはどうでも良くなっていた。
メイちゃん先生が指すままに、俺は山手へ向かうバスに乗り込んだ。
一時間、いや二時間ほど揺られただろうか。車窓から建物が消え、車が消え、のどかな田園風景を越えて停車したのは、名も知らない山間だった。
細い山道を掻き分けるように去っていくバスを見送り、メイちゃん先生が案内する坂道を登っていく。人気のない山道が急に開けた辺りで、彼女はようやく「ここ」と指差した。
辿り着いた場所に、俺はあまり驚かなかった。
「……一晩考えてみたの。私が一番心残りなことって何だろうって」
コンクリートの桟橋にも見える歩道で、先生はふわりと浮いて手摺に乗った。
深く青い水瓶を見下ろし、山と山を結ぶ灰色の稜線のように聳えるそこは、ダムの天端だった。
続く言葉を待つより先に、俺は口を開く。
「ひとりで死ぬのが寂しい、だろ」
「……気づいてたんだ」
「なんとなくね。先生、要所要所で俺のこと殺そうとしてたでしょ」
先生は静かな微笑みを湛える。
その足首から延びる最後の鎖は、暗いダムの底へと続いている。大方、ここから飛び降りて彼女は死んだのだろう。
ガス漏れしていると分かっていて自宅へ連れて行ったのも、墓参りのあとに車道に突き飛ばしたのも――どれも俺を道連れにしようとしたのだ。
寂しがりの先生のことだ。きっとそうなんだろうとは思っていた。そうだと分かっていて、俺は今もこうして彼女に着いてきたのだ。
「ね、芦峯くん……私と一緒に」
先生は目も眩むような高所へ俺を誘う。
その冷たい手を幾らも迷わずに取り、俺は手摺に足を掛けた。
「……良いよ。死のうか」
少し驚いたような顔をして、先生は俺の身体を抱き留めた。まさか本当に死んでくれると思わなかったとでも言いたげだった。
俺にとっても、もう良かった。この世に未練なんかない。今更あの教室に戻りたいと思わない。森岡家に疎まれるのも、芦峯家に空気のように扱われるのも嫌だった。
どこにも居場所がないくらいなら、いっそ消えてしまいたかった。
「俺を連れて行って、先生」
灰色の空で、俺とメイちゃん先生の視線が交錯する。
最後の鎖が切れる音がした。
「昨日さ、どうして私が死んだって聞いて、保健室に来たの」
「……先生だけが、いつも俺を見つけてくれたから」
消え入りそうな声は、先生の目にはどう映っただろうか。
大きな鳶色の瞳が滲み、光がぼやけて粒になり、涙となって落ちていく。
「ごめんね……先生がこんなことしちゃ駄目だよね……」
一度だけ俺の背を抱いて、先生は突き放すように俺を元いた天端へ落とした。
「芦峯くんはさ、ちゃんと大人になりなよ。ちゃんと人と関わって、誰かを好きになって――自分を愛して生きてほしい。その目は、その手のひらはきっとそのために授かったんだよ。それに」
鼻を啜った彼女は、もう泣いてはいなかった。
「私のために煙草を吸ってくれる人がいなくなったら寂しいじゃん」
「……俺は煙草吸わないって」
見上げた先生の白衣が冬の風に靡いて、ああ綺麗だなんて思った。同時に、俺は連れて行ってはもらえないんだな、と直感的に悟った。
それは存外に寂しくて、本当の別れを選び取らなければならない葛藤みたいなものも一瞬生まれて――しかし全てを飲み込み、俺は笑った。
「仕方ないな。俺が先生のこと、忘れないでいてあげる」
「……本当?」
「だからほら、早く行きなよ。先生を縛る鎖はもうないよ」
「行くって、何処に」
「大丈夫、俺も途中まで一緒に行くから――」
先生が本当に往くべき道は、俺にはよく視えていた。雲間から日が差したように清廉な光を湛えた源へ、先生の手を引いて歩いていく。
最後の一歩を踏み出す前に、俺はそっと彼女の背を押した。
「さよなら、メイちゃん先生」
振り向いた先生は何かを言いかけ――言葉にならなくて、ただとびきりの笑顔だけを残して消え去っていった。
気づけば仄暗いダムの天端に、羽のような雪が舞い降りていた。
――――
――
肩甲骨まで伸びた髪を括り直し、俺は冬の街を歩く。
ふと風に乗って、懐かしいマルボロの臭いが鼻先を過ぎた。早いもので、先生とお別れしたあの日から十回目の冬がやってこようとしている。
果てしない死出の旅に出た栗毛の彼女の魂は、もう何か別の生命に巡っただろうか。いや、悩みも迷いも多かった先生のことだから、まだどこかで寄り道しているかもしれないな。
なんて考え事をしているうちに紫煙は過ぎ去っていった。その行方を想い弛んだ口許を、白い吐息が隠していく。
スマホを開けば知らない名前からDMが届いていて、最初の数行を流し読むにそれが新たな依頼だということが分かった。
人に視えないものが視え、触れられ、還るべき場所へ還すことができるレンタル霊媒師。それを生業にしてしばらく経つが、SNS時代だからかこうして割とひっきりなしに連絡が来る。
さて次の依頼者が呼んでいる。
別に世界をよくしようといった大それた野望があるわけでもない。正義感に駆られているわけでもない。
人の埒を外れた視界には、今も影に染まった死人が映る。それでもいいと思えたのは先生のお陰だが、もう彼女だった魂に出会うことはないだろう。なぜかそんな確信があった。
まあいい。俺が生き長らえている限り、記憶の片隅にでも棲みついているがいいさ。
ひとつ深呼吸して前を見据え、俺は魑魅魍魎の蠢く街に歩み出した。
やがて煙と消えるまで 月見 夕 @tsukimi0518
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