【世界グルメキッチンカー短編小説】葉月と紬、ふたりの小さな台所 〜世界を包むおにぎりの物語〜(約17,600字)

藍埜佑(あいのたすく)

【世界グルメキッチンカー短編小説】葉月と紬、ふたりの小さな台所 〜世界を包むおにぎりの物語〜(約17,600字)

●序章:それぞれの退屈


 春の陽気が窓から差し込む部屋で、桜井葉月は天井を見上げていた。大学を卒業してから一月が経つというのに、特にこれといってすることもない。就職活動をしなければと思いながらも、パソコンの画面を開く気にもなれない。


 スマートフォンの画面に、友人からのメッセージが次々と届く。みんな新生活に向けて動き出している。それなのに自分は……。


「はぁ……」


 ため息をつきながら横を向くと、机の上に置かれた料理の本が目に入った。大学時代、食品サークルで作ったレシピノート。表紙には『葉月の実験室』と書かれている。


 スマートフォンが再び震える。今度は高梨紬からのメッセージだった。


「ねえ、キッチンカーってよくない?」


 唐突な内容に、葉月は目を疑った。


「急に何?」


 返信を送ると、すぐに紬から電話がかかってきた。


「今から行くね!」


「え? ちょっと待って……」


 制止する間もなく、紬は電話を切ってしまった。葉月は慌てて部屋を片付け始める。紬の「今から」は、本当に「今から」なのだ。


 案の定、十五分もしないうちにインターホンが鳴った。


「葉月ちゃーん!」


 玄関を開けると、紬が満面の笑みで立っていた。肩までのゆるふわパーマの髪を揺らし、両手いっぱいの資料を抱えている。


「ごめんね、突然。でも、これ見てほしくて!」


 紬は躊躇する葉月の反応も待たずに、靴を脱ぎ捨てて部屋に入っていく。テーブルの上に資料を広げ始める紬を、葉月は呆れたように見つめた。


 大学の同じサークルで知り合って以来、紬のこういう突発的な行動には慣れているつもりだった。でも、今回はいつも以上だ。


「ほら、見て見て!」


 紬が広げた資料には、世界地図やら、手書きのメニュー表やら、予算案やらが所狭しと並んでいる。


「何これ、全部?」


「うん! 私ね、考えたの。私たち、料理好きじゃない? それに、まだ特に決まってることもないでしょ?」


 葉月は黙って頷く。確かにその通りだ。


「だから! キッチンカーで世界一周しようよ!」


「はぁ!?」


 葉月は思わず声を上げた。しかし、紬は意に介する様子もなく話を続ける。


「ほら、私たちサークルでも評判良かったじゃん。特に葉月ちゃんの和風アレンジ料理。あれを世界中の人に食べてもらうの!」


 紬の瞳が輝いている。その目の前で、葉月は言葉を失った。確かにサークルでは、葉月の創作料理は好評だった。和食をベースに、様々な国の調味料やスパイスを組み合わせる料理は、「葉月スタイル」として知られていた。


「でも、世界一周って……お金とか……」


「それが!」


 紬は新しい紙を取り出した。そこには細かい数字が並んでいる。


「私、実は親からの仕送りをちょこちょこ貯金してたの。それに、バイトもずっとしてたでしょ? 葉月ちゃんも結構貯金あるんじゃない?」


 言われて、葉月は自分の通帳を思い浮かべた。確かに、無駄遣いの少ない生活を続けてきた結果、それなりの額は貯まっている。でも、それは将来のために……。


「ねえ、どう?」


 紬が身を乗り出してくる。近づく顔に、葉月は思わず後ずさりした。


「ちょっと待って。こんな突然言われても……」


「あ、そうだった! これも見て!」


 紬はスマートフォンを取り出し、画像を見せる。そこには、白い小型のバンが写っていた。


「これ、知り合いの人が売るって言ってるの。キッチンカーに改装できそうでしょ?」


 確かに、サイズ的には手頃だ。内装を工夫すれば、最小限の調理設備は積めそうな……。


(あ、わたし今考えちゃってる!)


 自分の思考に気づいて、葉月は慌てて首を振る。


「無理無理。こんな突然の話、考えられない」


「えー、もう少し考えてよ」


 紬が不満げに唇を尖らせる。その仕草は、大学時代から変わっていない。


「じゃあ、これだけでも見て!」


 紬が差し出したのは、手書きのメニュー表だった。和風おにぎりをベースに、世界各国の食材やスパイスを組み合わせたメニューが並んでいる。フランスのカマンベールチーズを使ったものや、モロッコのクスクスを混ぜ込んだもの、インドのカレースパイスを効かせたものなど……。


(なんか、美味しそう)


 思わずそう感じてしまい、葉月は慌てて紙を置いた。


「とにかく、今日のところは帰って。ゆっくり考えさせて」


「うーん、分かった。でも明日また来ていい?」


 かわいらしく潤んだ瞳で見つめられ、葉月は思わず頷いてしまう。


「はーい! じゃあ明日ね!」


 紬は来たときと同じように突然立ち去っていった。残された葉月は、テーブルの上に広がる資料を眺める。


(世界一周か……)


 窓の外では、桜の花びらが風に舞っていた。


●第1章:夢の始まり


 それから一週間、紬は毎日のように葉月の家に通ってきた。最初は適当に聞き流すつもりだった計画も、紬の熱意に押され、いつの間にか真剣に考えるようになっていた。


「ねえ、このルートはどう?」


 世界地図の上で、紬が指を滑らせる。


「フランスから始めて、地中海沿いにモロッコ、そしてインド……」


「でも、キッチンカーをどうやって運ぶの?」


「それが!」


 紬は新しい資料を取り出した。


「各地で現地の車両をレンタルするの。日本から持っていくのは調理器具と最小限の設備だけ」


「へえ……」


 考えれば考えるほど、紬の計画は意外と現実味を帯びてくる。もちろん、課題は山積みだ。言葉の問題、現地の規制、食材の調達……。でも、不思議と「できない」とは思えなくなってきた。


「あ! 葉月ちゃんが考えてる!」


 紬が嬉しそうに声を上げる。


「考えてないってば」


 葉月は慌てて否定するが、紬は意に介さない。


「でも、さっきまでみたいに『無理』って言わなくなったよね?」


「それは……」


 言い返そうとして、葉月は言葉に詰まった。確かに、最初ほど強く否定はしなくなっている。むしろ、紬の話を聞くたびに、自分でもアイデアを出すようになっていた。


「ねえ、行こうよ。私たち、今しかできないと思うの」


 紬の声が、珍しく真剣な調子を帯びる。


「就職して、結婚して、子供ができて……って普通の人生も素敵だと思う。でも、その前に、自分たちにしかできない冒険がしたい」


 葉月は黙って紬を見つめる。いつもはふわふわした雰囲気の紬が、こんなにも真剣な表情をすることがあるのかと驚きながら。


「それに、葉月ちゃんの料理、もっと多くの人に食べてもらいたいの」


「え?」


「覚えてる? サークルの追い出しコンパの時、葉月ちゃんが作った和風パエリア。あれ、すっごく美味しかった」


 葉月は頬が熱くなるのを感じた。確かにあの料理は自信作だった。スペイン風の炊き込みご飯に、出汁の風味と柚子の香りを効かせた一品。粗末な部室の調理設備でも、工夫次第で本格的な味が作れることを証明したかった。


「みんなが喜んでくれて、私、すっごく嬉しかったの。その笑顔をもっと見たいなって」


 紬の言葉に、葉月は自分の手元を見つめた。料理を作るのは好きだ。材料を吟味し、火加減を調整し、盛り付けを考える。その一連の作業に没頭するのが好きで、できあがった料理を食べた人が笑顔になるのを見るのはもっと好きだ。


 でも、それは趣味でしかない。社会人になったら、そんな時間は……。


「ねえ、見て」


 紬がスマートフォンを差し出す。そこには、様々なキッチンカーの写真が並んでいた。路上で料理を振る舞う人々の笑顔。それを囲む客たちの楽しそうな表情。


「私たちにも、絶対できると思う」


 紬の声が、心に染み込んでくる。


「……一週間」


「え?」


「一週間だけ、時間ちょうだい。ちゃんと考えたいから」


 紬の顔が、パッと明るくなる。


「うん! 待ってる!」


 その夜、葉月は久しぶりにレシピノートを開いた。大学時代に考案した料理の数々。どれも、和食をベースに世界の味を取り入れたものばかりだ。


(これ、世界の人は どう思うかな……)


 考えながら、新しいページを開く。フランス風、モロッコ風、インド風……。気づけば、次々とアイデアが浮かんでくる。


 一週間後、葉月は紬に電話をかけた。


「紬?」


「うん! どうだった?」


 受話器の向こうで、紬が息を詰める気配がする。


「……行こう」


「えっ!?」


「世界一周、行こう」


 紬の歓声が、受話器越しに響いた。


 それから二人の準備は加速した。まずは渡航準備。パスポートの取得から、ビザの申請、予防接種まで。やることは山積みだった。


「えっ、これ全部必要なの?」


 必要な書類のリストを見て、紬が目を丸くする。


「当たり前でしょ。海外で商売するんだから」


 葉月は冷静に対応する。こういうところは、几帳面な性格が活きる。


 準備と並行して、メニューの研究も進めた。和食の基本となるだしの取り方から、世界各地のスパイスの使い方まで。二人は毎日のように試作を重ねた。


「あ、これ美味しい!」


 紬が目を輝かせながら、葉月の作ったおにぎりを頬張る。カマンベールチーズと梅干しを合わせた斬新な一品だ。


「本場のフランス人は、これをどう思うかな……」


「絶対喜ぶよ! 葉月ちゃんの料理には、不思議な魔法があるもん」


「魔法って……」


 照れくさそうに言う葉月に、紬は更に言葉を重ねる。


「だって、和と洋がこんなに自然に混ざり合うなんて、魔法みたいじゃない?」


 紬の言葉に、葉月は考え込む。確かに、自分の料理は少し変わっているのかもしれない。でも、それは決して特別なことではない。ただ、食材と向き合い、その可能性を探っているだけ。


「あ! 次はこれ作ってみようよ!」


 レシピノートを開きながら、紬が指さす。モロッコ風スパイスを使ったおにぎり。クミンとコリアンダーの香りを活かしつつ、和風だしで調和を取る難しい一品だ。


「うーん、これは配合が難しそう……」


「でも、きっと美味しいよ! 葉月ちゃんが作るなら」


 紬の無条件の信頼に、葉月は少し困惑しながらも、心が温かくなるのを感じた。


 そんな準備の日々が過ぎ、出発の日が近づいてきた。


「ねえ、これ見て!」


 ある日、紬が一枚の写真を見せてきた。パリの路上で営業するキッチンカーの写真だ。


「私たちも、こうなるんだね」


 紬の声には、期待と不安が混ざっている。葉月も同じ気持ちだった。これまで日本の中だけで生きてきた二人が、突然世界に飛び出す。その選択は、無謀といえば無謀だ。


 でも――。


「紬」


「うん?」


「私たち、きっと大丈夫だよ」


 思わず口から出た言葉に、自分でも驚く。いつもなら慎重な自分が、こんなに前向きな言葉を。


「うん! 二人なら、絶対大丈夫!」


 紬が満面の笑みで応える。その笑顔を見ていると、不安も少しずつ溶けていくような気がした。


 出発の前日、二人は最後の買い出しに出かけた。


「お米は十分?」


「うん、最初の一ヶ月分は確保。現地でも手に入るみたいだけど」


「調味料は?」


「基本的なものは揃ってる。後は現地で調達」


 チェックリストを確認しながら、着々と準備を進める。スーパーの帰り道、夕暮れの空を見上げながら、紬が呟いた。


「明日から、私たちの冒険が始まるんだね」


「うん」


 葉月も空を見上げる。茜色に染まった空には、すでに一番星が瞬いていた。


「ねえ、約束しよう」


「何を?」


「どんなに大変でも、笑顔を忘れないこと」


 紬が小指を立てる。子供っぽい仕草に、葉月は思わず笑みがこぼれる。


「うん、約束する」


 二人の小指が絡み合う。その瞬間、風が吹き抜けていった。


●第2章:パリの風


 パリ・シャルル・ド・ゴール空港に降り立った時、二人は現実感を失いかけた。


「本当に来ちゃった……」


 葉月が呟く横で、紬は目を輝かせている。


「すごい! パリだよ、パリ!」


 到着ロビーには、様々な言語が飛び交っている。その喧噪の中、二人は事前に予約していたレンタカー会社に向かった。


「あの、予約していたんですが……」


 片言の英語で話しかける葉月に、カウンターの女性が優しく微笑む。


「ああ、日本からですね。お待ちしていました」


 フランス語なまりの英語で、女性は手続きを進めてくれる。紬は傍らで、興奮気味に周りを見回している。


「葉月ちゃん、見て! あっちのカフェ、すっごく素敵!」


「紬、ちょっと落ち着いて」


 書類にサインをしながら、葉月は苦笑する。相変わらずの紬だ。


 手続きを終え、二人はレンタルした小型バンに乗り込んだ。日本から送った調理器具や食材は、すでに指定の場所で受け取っていた。


「よし、積み込み完了!」


 最後の段ボールを収納し終えて、紬が手を叩く。車内には、コンパクトなキッチン設備が整然と並んでいる。


「で、最初はどこに行く?」


「えっと……」


 葉月が地図を広げる。事前に調べた営業許可が取れそうな場所を、いくつかマークしてある。


「モンマルトルの近くに、小さな広場があるんだけど」


「そこにしよう!」


 紬の即決に、葉月は少し不安を覚える。もう少し慎重に考えたほうが……。


「大丈夫、私が運転する!」


「え? 紬が?」


「うん! 国際免許、ちゃんと取ったもん」


 確かに二人とも免許を持っているが、左ハンドルの運転は初めてだ。


「でも……」


「任せて!」


 紬の勢いに押され、葉月は助手席に座ることになった。エンジンがかかり、車が動き出す。


「わあ! パリの街を運転してるよ!」


 紬の声が弾む。葉月は地図とナビを確認しながら、所々で方向を指示する。


 パリの街並みは、想像以上に美しかった。石畳の道を走り抜けながら、街角に立ち並ぶカフェやブティック。その景色に見とれていると、目的地に到着した。


「ここかな?」


 小さな広場の一角に車を停める。周りには、古い建物が立ち並び、カフェテラスで朝食を楽しむ人々の姿が見える。


「よし、準備しよう!」


 紬が元気よく声を上げる。二人で手分けして、調理器具を並べ始めた。イスとテーブルも用意し、手書きのメニューボードを立てる。


「ねえ、本当にお客さん来るかな……」


 準備を終えて、葉月が不安そうに呟く。


「来るよ! 絶対!」


 紬は迷いなく答える。その自信は、どこから来るのだろう。葉月にはまだ分からない。


 最初の一時間は、誰も立ち止まらなかった。通り過ぎる人々は、珍しそうに二人を見るだけ。


「あ!」


 突然、紬が声を上げた。一人の若い女性が、メニューボードを覗き込んでいる。


「Hello!」


 紬が笑顔で声をかける。女性も微笑み返してくれた。


「これは何? おにぎり?」


「Yes! Japanese rice ball with French taste!」


 紬が身振り手振りを交えながら説明する。その横で、葉月は緊張しながらカマンベールと梅のおにぎりを作り始めた。


「面白そう。一つください」


 女性が笑顔で注文する。葉月は丁寧におにぎりを包み、紬が受け渡す。


 女性が一口かじると、目を見開いた。


「美味しい! これ、なんていう味?」


「カマンベールチーズと梅干しです」


 葉月が小さな声で答える。


「素晴らしいわ! 友達も呼んでくるわね」


 女性は携帯電話を取り出し、写真を撮り始めた。そして数分後、何人かの若者たちが集まってきた。


「これが噂のジャパニーズ・フュージョン?」


「私も食べてみたい!」


 次々と注文が入る。葉月は夢中でおにぎりを作り続けた。和風カレー、ハーブ香る枝豆、ロックフォールチーズと海苔……。


「葉月ちゃん、すごいよ! みんな喜んでる!」


 紬が嬉しそうに声をかける。確かに、食べた人々の表情は明るい。中には「C'est bon!(美味しい!)」と叫ぶ人もいる。


 昼過ぎには、小さな行列ができるほどになっていた。


「これ、インスタ映えするわ!」


「新しい味ね。でも、懐かしい感じもする」


 様々な感想が飛び交う。その声を聞きながら、葉月は少しずつ自信を持ち始めていた。


 夕方、営業を終えた二人は、売り上げを数えていた。


「すごい! 予想以上だよ!」


 紬が目を輝かせる。確かに、初日としては上々の結果だ。


「でも、明日は違う場所にしよう」


「うん! パリの色んなところで売ってみたいもんね」


 片付けを終えた後、二人は近くのカフェでお茶を飲むことにした。パリの街角で、エスプレッソを飲みながらのひととき。


「ねえ、葉月ちゃん」


「うん?」


「私たち、やっていけそうだね」


 紬の言葉に、葉月は静かに頷いた。確かに不安はまだある。でも、今日一日で見えてきたものもある。自分たちの料理が、言葉の壁を越えて人々に届くということ。


「そうだね。きっと、大丈夫」


 夕暮れのパリの空に、エッフェル塔のシルエットが浮かび上がっていた。二人の冒険は、まだ始まったばかり。この先どんな出会いが待っているのか、誰にも分からない。


 でも、それは素敵な未知数だった。


●第3章:スパイスの香り


 モロッコのカサブランカに到着したのは、パリを発ってから一週間後のことだった。


「暑い……」


 空港を出た瞬間、葉月は息を呑んだ。パリとは全く違う、乾いた熱気が二人を包み込む。


「でも、この匂い!」


 紬が鼻を鳴らす。確かに、空気中にはスパイスの香りが漂っている。シナモンやクミン、コリアンダー。その香りは、まるで二人を誘うかのようだった。


 今回もレンタカーを借り、事前に手配していた食材を受け取る。パリでの経験を活かし、手続きもスムーズに進んだ。


「市場に行ってみない?」


 紬が提案する。確かに、現地のスパイスを見てみたい。二人は車を安全な場所に停め、メディナ(旧市街)へと向かった。


「すごい……」


 迷路のような路地に、色とりどりの商品が並んでいる。スパイスの山は、まるで砂丘のよう。その横には新鮮な野菜や果物、干し肉などが所狭しと並ぶ。


「あ、これ何だろう?」


 紬が指さす先には、見たことのないスパイスが。店主らしき男性が、にこやかに説明を始める。


「これはラス・エル・ハヌート。モロッコの伝統的なスパイスブレンドさ」


 流暢な英語で答えが返ってきた。葉月は興味深そうにスパイスを手に取る。


「何種類のスパイスが入ってるんですか?」


「それは秘密さ。でも、二十種類以上は入ってる。料理人かい?」


「はい。私たち、キッチンカーで料理を出そうと思って」


 葉月が答えると、店主の目が輝いた。


「おお! そうか。ならこれを使ってみるといい」


 店主は別のスパイスも見せてくれた。クミン、コリアンダー、ターメリック……。それぞれの特徴を丁寧に説明してくれる。


「あの、これ全部買っていいですか?」


 紬が目を輝かせながら言う。葉月も反対する理由はなかった。確かに、これらのスパイスは新しいメニューの可能性を広げてくれそうだ。


「ありがとう! さあ、これで新作が作れるね!」


 買い物を終えて外に出ると、通りにはさらに多くの人が行き交っていた。様々な店から漂う香りが、空気を甘く染めている。


「ねえ、あれ見て」


 紬が指さす先には、タジン鍋を使って料理を作る屋台があった。円錐形の蓋から、香り高い蒸気が立ち上っている。


「あんな風に、現地の調理器具も使ってみる?」


「うーん、でも置く場所が……」


 葉月が悩んでいると、突然横から声がかかった。


「あら、日本人?」


 振り向くと、年配の日本人女性が立っていた。


「私も日本人よ。ここで料理教室を開いているの」


 自己紹介する女性の名は藤堂明美。二十年前に モロッコに移住し、現地の料理を研究しているという。


「キッチンカー? 面白そうね。どんなメニューを考えているの?」


 話を聞いた明美は、二人の計画に興味を示してくれた。


「よかったら、明日うちの教室に来ない? モロッコ料理のコツを教えるわ」


 二人は喜んで申し出を受けた。その晩、宿に戻った二人は早速新しいメニューを考え始めた。


「ねえ、このスパイスとお味噌って合うかな?」


「面白そう! 試してみよう」


 翌日、明美の料理教室で二人は目から鱗が落ちる思いだった。


「モロッコ料理の基本は、スパイスのバランス。でも、それ以上に大切なのは、料理に込める思い」


 明美の言葉は、まるで魔法のように二人の心に染み込んでいく。


「あなたたちの和食の知識は、きっとここでも活きるわ」


 教わった技術を早速キッチンカーで実践することにした。場所は、明美が紹介してくれた市場の一角。


「よし、準備オッケー!」


 紬が看板を立てる。新作の「モロッカンスパイス味噌おにぎり」を中心に、タジン風炊き込みご飯のおにぎりなど、モロッコの風を感じるメニューが並ぶ。


 最初は物珍しさから、現地の人々が集まってきた。


「これは何だ?」


「日本の伝統食です。でも、モロッコの味も入ってます」


 葉月が説明すると、人々は興味深そうに注文してくれた。


「おお! これは……」


 一口食べた男性が目を見開く。


「不思議だ。スパイスは知っている味なのに、まったく新しい」


 その言葉に、葉月は密かに喜びを感じた。これこそ、自分たちが目指していたものだから。


 その日の夕方、思いがけない来客があった。


「やっぱり美味しいわね」


 明美が笑顔で立っていた。


「藤堂さん!」


「明美でいいのよ。それより、これ持ってきたわ」


 差し出されたのは、古びたノートだった。


「私の二十年分のレシピよ。参考になれば」


「え、でも、こんな大切なものを……」


「いいの。あなたたち、きっとこれを活かしてくれるでしょ?」


 その夜、二人は宿でノートを開いた。そこには、モロッコの家庭料理から、明美独自のアレンジメニューまで、びっしりとレシピが書き込まれていた。


「すごい……。これ、本当に私たちが借りていいのかな」


「うん。だから、もっともっと美味しいものを作らないとね」


 紬の言葉に、葉月も頷く。明美から受け取ったのは、単なるレシピ集ではない。二十年かけて築き上げた、料理への情熱だ。


 一週間後、カサブランカを離れる日。明美が空港まで見送りに来てくれた。


「気をつけてね。そして、自分たちの料理を信じて」


「はい! ありがとうございました!」


 飛行機が離陸する直前、紬が葉月に囁いた。


「ねえ、私たち、少し成長したかも」


 葉月は黙って頷いた。確かに、パリを出発した時より、二人は何かを掴みかけている気がした。それは料理の技術だけでなく、もっと大切な何か。


 機内から見えるモロッコの街並みが、次第に小さくなっていく。次の目的地、インドへ。新たな冒険が、また始まろうとしていた。


●第4章:インドの色彩


 ムンバイの空気は、湿度が高く、甘く重たかった。


「うわ、これはちょっと……」


 空港を出た瞬間、紬が額の汗を拭う。モロッコとは違う種類の暑さが、二人を包み込む。


「でも、この匂い!」


 葉月が鼻を鳴らす。カレースパイスの香りだろうか。それとも、路上の露店から漂う甘い香り。様々な匂いが混ざり合って、独特の空気を作り出している。


「私たちのキッチンカー、この中でやっていけるかな」


 タクシーの中から街並みを眺めながら、葉月が不安そうに呟く。確かに、ここは今までの場所とは全く違う。道路は車や人で溢れ、至る所に屋台が並び、それぞれが独自の存在感を放っている。


「大丈夫! 私たちには秘密兵器があるもん」


 紬が得意げに言う。それは、モロッコで明美から教わったスパイスの使い方だ。


「インドのスパイスも、きっと面白い使い方があるはず」


 宿に荷物を置いた後、二人は早速市場に向かった。そこは、まさに色彩の洪水だった。


「わあ! これ全部スパイス?」


 紬が目を見開く。赤、黄、茶、緑。様々な色のスパイスが山と積まれている。その横には、新鮮な野菜や果物が鮮やかな色を放っている。


「あの、これは何ですか?」


 葉月が店主に尋ねると、にこやかな答えが返ってきた。


「これはガラムマサラ。これはターメリック。そしてこれは……」


 次々と説明される香辛料の名前と用途。二人は必死でメモを取る。


「料理人なの?」


 隣の店の女性が興味深そうに声をかけてきた。


「はい。私たち、キッチンカーで料理を……」


 説明すると、女性の目が輝いた。


「まあ! それなら、うちで使っているスパイスブレンドを分けてあげるわ」


 そうして二人は、思いがけない贈り物を受け取ることになった。


「これ、家族に伝わる配合なの。きっと、あなたたちの料理に合うはずよ」


 その日の夕方、二人は宿で新しいメニューを考えていた。


「ねえ、これとこれを組み合わせてみない?」


 紬が提案するのは、カレースパイスと出汁を合わせたおにぎり。一見すると無謀な組み合わせに見えるが、パリやモロッコでの経験から、二人は既に味の調和について多くを学んでいた。


「うん、でも配合が難しそう……」


 試作を重ねること数時間。ようやく納得のいく味にたどり着いた。


「これ、いける!」


 紬が目を輝かせる。確かに、スパイスの刺激と出汁の優しさが不思議なバランスを生み出している。


 翌日、二人は地元の人に教えてもらった場所でキッチンカーを開いた。大きな市場の近く、人通りの多い路地の一角だ。


「今日は暑くなりそうだね」


 準備をしながら、葉月が空を見上げる。まだ朝だというのに、既に陽射しは強い。


「涼しい食べ物を出そうよ」


 紬の提案で、メニューにはライタを使ったひんやりおにぎりも加えた。ヨーグルトベースのインド風ソースは、暑い日にぴったりだ。


 最初のお客さんは、近くの事務所で働いているという若い女性だった。


「これ、何? 見たことないわ」


「日本のおにぎりです。でも、インドの味も入ってます」


 説明を聞いた女性は、興味深そうに注文してくれた。一口食べると、目を丸くする。


「面白い! スパイシーなのに、どこか懐かしい味がする」


 その言葉に、葉月は密かに嬉しさを感じた。それこそが、自分たちの目指している味だから。


 噂は瞬く間に広がり、昼過ぎには行列ができるほどになった。


「これ、子供も食べられる?」


「はい、スパイスは控えめにしてあります」


 家族連れも増えてきた。子供たちは、形の変わった食べ物に興味津々だ。


「見て! お寿司みたいだよ」


「違うわよ、これはおにぎりっていうの」


 そんな会話を聞きながら、二人は笑顔で接客を続けた。


 その日の夕方、片付けを終えた後、近くのダバ(大衆食堂)で夕食を取ることにした。


「カレーって、奥が深いね」


 本場のカレーを食べながら、紬が呟く。確かに、今まで「カレー」として一括りにしていた味わいが、実は無限の広がりを持っていることを、二人は日々実感していた。


「でも、だからこそ面白いよね」


 葉月の言葉に、紬は頷く。


「私たちの料理も、もっともっと進化させられそう」


 その晩、二人は新しいメニューのアイデアを出し合った。インドで学んだ味を、どう自分たちの料理に活かすか。可能性は無限大に思えた。


 一週間が過ぎ、ムンバイの街にも少しずつ慣れてきた頃。思いがけない出会いがあった。


「すみません、日本から来られたんですか?」


 キッチンカーに近づいてきたのは、中年の日本人男性。自己紹介によると、インドで貿易会社を営んでいるという。


「実は、来週大きなイベントがあるんです。そこで、あなたたちの料理を出してもらえないでしょうか?」


 その提案は、二人にとって大きな挑戦となった。今までの路上営業とは違う、本格的なケータリング。しかも、インドと日本のビジネスマンが集まるという。


「どうする?」


 紬が葉月を見る。葉月は少し考えてから、頷いた。


「やってみましょう」


 準備は大変だった。大量の食材の調達、新しいメニューの開発、そして衛生管理の徹底。でも、二人は持ち前の工夫と、これまでの経験を活かして乗り切った。


 イベント当日。会場に並べられた料理を見て、参加者たちは興味深そうに集まってきた。


「これは……和食? インド料理?」


「両方です」


 葉月が答える。ガラムマサラを効かせた炊き込みご飯のおにぎり、ラッサム風の出汁で味付けたおにぎり、ナンをイメージした平たいおにぎり。どれも、和とインドの味わいが絶妙なバランスで融合している。


「これは素晴らしい!」


 インド人のビジネスマンが感嘆の声を上げる。


「伝統を大切にしながら、新しい可能性を探る。これぞイノベーションですね」


 日本人の参加者も、興味深そうに料理を味わっていく。


「まさか、おにぎりがここまで進化するとは」


 その言葉に、葉月は密かに誇らしさを感じた。確かに、自分たちの料理は「進化」していた。でも、それは決して伝統を失うことではない。むしろ、伝統の本質を理解し、新しい形で表現することなのだ。


 イベントは大成功に終わった。主催者からは、また機会があればぜひ、と声をかけられた。


「ねえ、私たち、すごいことしてるのかも」


 その夜、宿に戻った紬が興奮気味に言う。


「そうかな……」


「そうだよ! だって見てよ、みんなの笑顔。私たちの料理で、人と人が繋がってる」


 紬の言葉に、葉月は考え込む。確かに、自分たちの料理は単なる食事以上のものになっていた。それは文化の架け橋であり、人々の出会いの場でもある。


「葉月ちゃん」


「うん?」


「私、もっと色んな場所で料理したい。もっと色んな人に食べてもらいたい」


 紬の瞳が輝いている。その横顔を見ながら、葉月は胸が温かくなるのを感じた。この旅で、紬はますます美しくなっている。外見だけでなく、内側から輝くような美しさを身にまとっていた。


「そうだね。私も、もっと挑戦してみたい」


 窓の外では、インドの夜空に星が瞬いていた。次の目的地は、アメリカ。また新しい挑戦が、二人を待っている。


「ねえ、アメリカではどんな料理ができるかな」


「うーん、ハンバーガー風おにぎりとか?」


「それ、面白そう!」


 二人は夜遅くまで、新しいメニューのアイデアを出し合った。インドで学んだことを胸に、新たな冒険へと向かう準備を始める。


 翌朝、二人は早くに目を覚ました。今日は市場で最後の買い物をする予定だ。


「あ、葉月ちゃんの髪、くしゃくしゃだよ」


 紬が笑いながら、葉月の髪に手を伸ばす。優しく髪をとかす指先に、葉月は少しだけ顔を赤らめた。


「紬こそ、ほら、シャツのボタンが掛け違ってる」


「えっ、本当だ!」


 そんな何気ない朝の光景が、二人にとってはかけがえのない日常になっていた。


●第5章:アメリカの大地


 ロサンゼルス国際空港に降り立った時、二人は深い安堵を感じていた。インドとは違い、どこか落ち着いた空気が漂う。


「なんか、ホッとするね」


 紬が伸びをしながら言う。確かに、ここは今までの場所とは少し違う。街並みも人々も、どこか親しみやすい雰囲気がある。


「でも、ここでも頑張らないとね」


 葉月の言葉に、紬は元気よく頷く。アメリカは、食の激戦区。様々な文化の料理が入り混じり、新しいものが次々と生まれては消えていく場所だ。


 レンタカーを借り、まずは下見に出かけた。ロサンゼルスの街を走りながら、二人は様々なフードトラックを見かける。メキシカン、中華、韓国……。世界中の味が、車輪の上で提供されている。


「私たちも、負けてられないね」


 紬の声には、今までにない自信が混じっている。パリからインドまで、各地で培った経験が、確かな力になっているのを感じる。


「うん。でも、ここはちょっと違うアプローチが必要かも」


 葉月が言う通り、アメリカには独特の食文化がある。ファストフードの本場でありながら、健康志向も強い。その両方を満たすような料理が求められる。


「じゃあ、まずは市場調査?」


「そうだね。色んな店を見て回ろう」


 二人は様々なフードトラックを訪ね歩いた。注文する客層、価格帯、人気メニュー。すべてをメモに取っていく。


「ねえ、これ面白いかも」


 紬が指さしたのは、フュージョン料理を提供するフードトラック。メキシコとアジアの味を組み合わせた料理が人気を集めていた。


「確かに。私たちも、もっと大胆に攻めてみる?」


 その言葉をきっかけに、二人は新しいメニュー開発に着手した。和食の基本は守りながら、アメリカンな要素を取り入れる。


「どう? このテリヤキバーガー風おにぎり」


 葉月が作った試作品を、紬が頬張る。


「うん! 美味しい! でも、もうちょっとスパイシーな方がいいかも」


 試行錯誤を重ねて、新メニューが完成した。テリヤキバーガー風、タコライス風、BBQプルドポーク風。どれも、おにぎりの形は保ちながら、アメリカンな味わいを楽しめる一品だ。


「よし、準備OK!」


 営業初日、二人は人気のフードトラック集積地に場所を確保した。周りには既に多くの店が並んでいる。


「緊張するね」


 葉月が少し不安そうに周りを見回す。確かに、ここは今までで一番の激戦区かもしれない。


「大丈夫! 私たちには、誰にもない武器があるもん」


 紬の言葉通り、二人の料理には独自の強みがあった。パリで学んだ繊細さ、モロッコで身につけたスパイスの使い方、インドで培った大胆さ。その全てを、和食の技術で調和させる。


「いらっしゃいませ!」


 最初のお客さんは、近くのオフィスで働くという女性だった。


「これ、なに? 見たことないわ」


「日本のおにぎりです。でも、ちょっとアメリカンテイストを加えてみました」


 説明を聞いた女性は、興味深そうにテリヤキバーガー風おにぎりを注文した。


「Oh my god! This is amazing!」


 一口食べた途端、女性の目が輝く。


「みんなに教えなきゃ!」


 そう言って、さっそくスマートフォンを取り出した。SNSに投稿する様子を見ながら、二人は顔を見合わせる。


「これは、いけるかも」


 その予感は的中した。昼過ぎには、行列ができるほどの人気に。


「具材は全部オーガニック?」


「カロリーは?」


 健康を気にする客からの質問も多い。事前に準備していた栄養成分表が役立った。


「日本の米って、こんなに多様な味になるのね」


 アジア系の客からそんな感想をもらうことも。母国の味を懐かしむ人々にも、新しい形で和食を届けられる。


 その日の営業を終えた後、二人は近くのビーチに座っていた。夕陽が海に沈んでいく。


「ねえ、葉月ちゃん」


「うん?」


「私たち、ここまで来られたね」


 紬の声には、感慨深いものが混じっている。確かに、パリを出発した時には想像もできなかったほど、二人は成長していた。


「うん。紬のおかげだよ」


「え?」


「だって、紬が誘ってくれなかったら、私はまだ日本で、何もせずにいたと思う」


 葉月の言葉に、紬は目を潤ませた。


「私も、葉月ちゃんがいなかったら、ここまで来られなかった。葉月ちゃんの料理の才能があったから」


 二人は黙って夕陽を見つめる。波の音が、静かに響いていた。


「もっと遠くまで行こう」


 紬が突然言った。


「まだまだ、行ってない場所がたくさんあるもん」


 その言葉に、葉月は笑顔で頷いた。確かに、世界はまだまだ広い。そして二人には、まだまだ可能性がある。


「そうだね。もっと色んな味を見つけよう」


 夜風が、二人の髪を優しく撫でていく。明日からまた、新しい挑戦が始まる。でも、もう怖くはない。二人一緒なら、どんな困難も乗り越えられる。


 そう信じられるようになっていた。


●第6章:揺れる心


 ロサンゼルスでの営業が軌道に乗り始めた頃、思いがけない出来事が起きた。


「葉月ちゃん、これ見て!」


 朝の準備中、紬がスマートフォンを差し出す。画面には、日本の料理雑誌のウェブサイトが表示されていた。


「海外で活躍する日本人シェフ特集……って」


 葉月の目が大きく見開かれる。そこには、二人のキッチンカーの記事が掲載されていた。パリからインドまでの軌跡が、写真付きで紹介されている。


「すごい! 私たち、注目されてるんだね!」


 紬が嬉しそうに跳ね回る。確かに、これは予想外の展開だった。世界各地で食べた人々が、SNSで情報を拡散してくれていたのは知っていた。でも、まさか日本の雑誌に取り上げられるとは。


「ねえ、インタビューの依頼も来てるよ」


 紬がメールを確認しながら言う。日本のメディアが、二人の活動に興味を示しているようだ。


「どうする?」


 葉月は少し考え込む。注目されることは、嬉しい反面、プレッシャーでもある。今までは自分たちのペースで やってこれた。でも、これからは……。


「受けてみる?」


 紬の声に、葉月は顔を上げる。紬の瞳には、いつもの優しさと、何か新しい輝きが宿っていた。


「うん、そうだね」


 インタビューは、スカイプを通じて行われた。二人の始まりから、各地での経験、そして将来の展望まで。


「最後に、お二人の夢を教えてください」


 記者の質問に、紬が即答する。


「世界中の人に、私たちの料理を食べてもらうことです!」


 その言葉を聞きながら、葉月は複雑な思いに駆られた。確かに、それは二人の夢だった。でも、この旅を続けて行く中で、自分の中に別の思いも芽生えていた。


 その夜、営業を終えた後。


「ねえ、葉月ちゃん」


「うん?」


「私たち、このまま旅を続けていけるよね?」


 紬の声には、珍しく不安が混じっている。


「どうして?」


「なんか、日本で注目されるってことは、いつかは帰らなきゃいけないのかなって」


 その言葉に、葉月は胸が締め付けられる。確かに、いつかは日本に帰る。それは、最初から分かっていたはず。でも、実際にその可能性を突きつけられると、複雑な感情が湧き上がる。


「紬」


「うん?」


「私ね、考えてたの」


 葉月は、ずっと言えずにいた思いを告白する。


「いつか、お店を持ちたいなって。固定の、ちゃんとしたお店」


「え?」


 紬が驚いたように葉月を見つめる。


「でも、その店は、世界中の味を集めた店にしたいの。この旅で学んだことを、全部活かして」


 葉月の言葉に、紬は黙って耳を傾けている。


「だから、まだまだ旅は続けたい。もっと色んな場所で、色んな味に出会いたい。でも、いつかは……」


 言葉が途切れる。紬の反応が怖かった。この夢は、紬の描く未来と違うのかもしれない。


 しばらくの沈黙の後、紬が静かに口を開いた。


「それ、素敵だね」


「え?」


「葉月ちゃんのお店。きっと、素敵な場所になると思う」


 紬の笑顔には、どこか切なさが混じっているように見えた。


「でも、私はまだ旅を続けたいな。もっともっと世界中を回って、色んな人に出会いたい」


 二人の視線が絡み合う。そこには、お互いへの深い愛情と、少しずつ違う方向を向き始めた未来への戸惑いが溶け合っていた。


「ねえ、それでも一緒に居られるよね?」


 紬の声が震える。


「もちろん」


 葉月は迷わず答えた。


「だって、私のお店には、紬の見つけた味が必要だもん」


 その言葉に、紬の目から涙がこぼれた。


「うん! 私が世界中から、素敵な味を集めてくる!」


 二人は抱き合う。違う夢を持ちながらも、確かに繋がっている。それは、この旅で培った絆だった。


 次の日から、二人の動きはさらに活発になった。今まで以上に、様々なレストランを訪れ、シェフたちと交流を深めた。


「へえ、この味付けって面白いね」


 ロサンゼルスのフュージョンレストランで、葉月がメモを取る。隣では紬が、地元のシェフと熱心に話し込んでいる。


 二人の関係も、少しずつ変化していった。より深く、より強く。でも、同時により複雑に。


「葉月ちゃん、この味どう?」


 紬が新作を差し出す。カリフォルニアロール風のおにぎり。見た目は和食そのものなのに、中身は斬新なアメリカンテイスト。


「すごい。これ、私のお店でも出したいな」


「えへへ、じゃあ、このレシピは特別に教えてあげる!」


 二人は笑い合う。違う未来を見つめながらも、今この瞬間は確かに一つだった。


 ある日、思いがけない来客があった。


「すみません、お二人が噂の『ふたりの小さな台所』ですか?」


 現れたのは、ロサンゼルスで日本食レストランを経営する男性だった。


「実は、お二人のことは以前から注目していました」


 男性の提案は、意外なものだった。


「私のレストランで、期間限定でメニューを提供してみませんか?」


 キッチンカーとは違う、本格的なレストランでの出店。それは、葉月の夢に一歩近づくチャンスでもあった。


「どうする?」


 紬が葉月を見る。その瞳には、応援の気持ちが溢れている。


「やってみたい」


 葉月の答えに、紬は満面の笑みを浮かべた。


「よし! じゃあ私は、その間にメキシコまで行ってきていい?」


「え?」


「だって、新しいメニューのヒント、絶対見つかるはずだもん!」


 紬の提案に、葉月は少し考え込む。確かに、二人の道は少しずつ分かれ始めている。でも、それは決して悪いことではない。むしろ、お互いの夢を応援し合えることが、本当の絆なのかもしれない。


「うん、行っておいで。でも、素敵な味、見つけてきてね」


「もちろん! 葉月ちゃんのお店で使える、最高の味を見つけてくるから!」


 夕暮れのビーチで、二人は肩を寄せ合った。波の音が、静かに響いている。


「ねえ、怖くない?」


 紬の問いに、葉月は首を横に振る。


「ううん。だって、私たちずっと繋がってるもん」


「うん。私たちの絆は、世界中に広がってるんだもんね」


 空には、夕焼けが広がっていた。それは、二人の未来のように、美しく、そして少しせつない色をしていた。


●終章:私たちの場所


 レストランでの出店が終わり、紬がメキシコから戻ってきた頃、ロサンゼルスは初冬を迎えていた。


「ただいま!」


 空港で再会した時、紬は小麦色に日焼けしていた。その腕には、大きな紙袋。


「これ、見て!」


 中身は、メキシコで見つけたというスパイスの数々。


「これとこれを合わせると、すっごく面白い味になるの!」


 紬の目が輝いている。その横で、葉月はレストランでの経験を話す。


「お客さんの反応が、直接見られるの」


「うん」


「厨房でみんなと協力して作るのも、楽しかった」


 二人の会話には、少し距離を置いて過ごした時間が、かえって絆を深めたような感触があった。


 その夜、二人は今後のことを話し合った。


「私ね、南米に行ってみたいの」


 紬が切り出す。


「メキシコで出会った人に、ペルーの料理がすごく面白いって教えてもらって」


 一方、葉月はレストランのオーナーから誘いを受けていた。


「シェフとして働かないかって」


 二人は黙り込む。ついに、その時が来たのだ。


「ねえ、葉月ちゃん」


「うん?」


「私たち、これからどうなるのかな」


 紬の声は、不安と期待が入り混じっている。


「私は――」


 葉月は言葉を選ぶ。


「この街で、お店を持ちたい」


「うん」


「でも、それは紬の旅が終わることじゃない」


 葉月は紬の手を取る。


「紬が世界中で見つけた味を、ここで形にする。そして、紬はまた新しい味を探しに行く」


「葉月ちゃん……」


「それが、私たちの形だと思う」


 紬の目から、涙がこぼれる。


「うん! 私ね、どこに行っても、葉月ちゃんのことを考えながら料理してた。この味、葉月ちゃんだったらどう活かすかなって」


「私も、お店のメニューを考えるとき、いつも紬の声が聞こえてくるの」


 二人は抱き合う。違う道を歩み始めても、心はいつも一つ。それが、二人の出した答えだった。


 それから一年後。


 ロサンゼルスの小さなレストラン『Futari no Kitchen』がオープンした。


 白を基調とした店内には、世界各地の調味料が並ぶ。壁には、二人の旅の写真が飾られている。


 そして今日も、世界のどこかで紬が新しい味を探している。彼女が見つけた味は、葉月の手によって新しい形に生まれ変わる。


 お店のメニューは、季節とともに変わっていく。でも、基本は変わらない。和食をベースに、世界の味を取り入れた料理。それは、二人の旅の記録であり、これからの物語でもある。


「いってきます!」


 紬からのビデオ通話。背景に広がるのは、どこかの街の市場だ。


「気をつけてね」


「うん! 新しい味、絶対見つけてくるから!」


 葉月は笑顔で頷く。


 世界は広い。でも、二人の心は いつもつながっている。


 それは、料理という共通の言語があるから。


 二人の小さな台所は、今日も世界のどこかで、新しい物語を紡いでいく。


# エピローグ


 春の陽気が差し込むレストランで、葉月は新しいメニューを考えていた。紬から送られてきた、ペルーのスパイスを使って。


「なるほど、これならいけるかも」


 試作品を口に運ぶと、懐かしい味がする。それは、旅の始まりを思い出させる味。


 鈴の音とともにドアが開く。


「ただいま!」


 紬が満面の笑みで立っていた。手には、新しい調味料の袋。


「お帰りなさい」


 二人は微笑み合う。


 これが、私たちの選んだ道。


 それは、離れていても確かに繋がっている。


 世界中に広がる、私たちの小さな台所。


*** おわり ***

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【世界グルメキッチンカー短編小説】葉月と紬、ふたりの小さな台所 〜世界を包むおにぎりの物語〜(約17,600字) 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi

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