終章 再び廻る輪廻

 黎明が迫る王都の空は、奇妙な色合いを帯びていた。紫灰色の雲が滞留し、風は止み、空気が重い。人々は家に籠り、騎士団は不測の事態に備えて巡回する。昨夜の仮面舞踏会の惨劇、そして宰相グラーティア卿にまつわる不穏な噂が王都中を覆い始めていた。


 魔法塔の上階、セリアの研究室には、アルト、セリア、ガルム、リィゼ、クレリアが集まっている。

 クレリアは禁書を開き、古代文字で記された封印術のページを指し示した。「ここに書かれた封印術『アムニエ・マルハ』を行うことで、魔族の血を封じ、魔王化を阻止できる。アルト、君には封印術の媒介となる魔力と、世界を守る強い意志が必要だ。」

 アルトは頷く。「俺は迷わない。代償があろうとも、世界を守る。」


 セリアは結界を張り、塔の一室を儀式空間へと変える。「ここなら外部からの干渉を防げる。ガルム、リィゼ、あなたたちは下の階で待機して、敵が来たら知らせて。」

 ガルムは鋼の眼差しで応え、「分かった。アルト、最後までお前はお前だ。俺たちはお前を信じる。」

 リィゼは微笑み、「勇者様、あなたが迷宮を抜けた時と同じように、僕はあなたを信じるよ」と励ましの言葉を贈る。


 二人が下へ降りると、クレリアとセリアは封印術の陣式を床に描き始める。淡い魔力光が螺旋状の紋様を浮かび上がらせ、アルトはその中央に膝をつく。

 「アルト、これから私たちはあなたの中にある魔族の血脈を鎮めるための呪文を唱えるわ。」

 クレリアが深呼吸し、杖を掲げる。「あなたは目を閉じて、闇と戦うイメージを固めて。ニアと宰相が放つ闇がどんなに強くても、あなたは世界を守りたいのよね?」


 アルトは目を閉じる。魔王討伐時に味わった苦難、仲間たちとの絆、平和を願う人々の笑顔が脳裏に甦る。ニアが囁く「魔王になれ」という声を思い出しても、アルトはその誘惑を跳ね除ける。

 「俺は魔王にならない。世界が光に満ちるために、ここで踏ん張るんだ。」


 儀式が始まる。クレリアとセリアが古代語の呪文を紡ぎ、紋様が輝きを増していく。アルトの体内で熱と痛みがせめぎ合うような感覚が走る。血管が軋み、心臓が妙な鼓動を打つ。しかし、アルトは耐える。

 「うあっ……ぐっ……」

 苦痛が強まるが、アルトは歯を食いしばり、頭を垂れない。世界の運命がかかっているのだ。


 その時、塔全体が揺れるような衝撃が走った。下の階から騎士たちの怒声、衝突音が響く。

 「来たわね……闇勢力か、宰相が差し向けた兵か!」

 セリアは儀式を続けながら顔をしかめる。クレリアが息を飲む。「アルト、ここを動かないで。私が結界を強化する!」


 下階では、ガルムが剣を抜き、リィゼが軽い治癒術を構えつつ応戦していた。扉を破り闇装束の兵士たちが雪崩れ込んでくる。彼らは宰相の密命を受けた暗部の騎士、あるいはニアに操られた闇の手先だ。

 「ガルム団長、敵は多数です!」

 部下の騎士が叫ぶ。ガルムは冷静に指示を出し、狭い階段を利用して防衛線を築く。「踏み込ませるな! アルトたちが上で大事な儀式をしているんだ!」


 重厚な剣戟が交錯し、火花が散る。リィゼは傷ついた仲間に素早く治癒魔法を施し、戦線を維持する。

 「アルト、負けるなよ……」

 ガルムは心中で願う。


 一方、魔法塔の外、宰相グラーティア卿は王城の高台から塔を睥睨していた。彼は黒衣に身を包み、隣にはニア・フォルテリアが立っている。

 「封印術を手に入れたか、勇者……だが、遅すぎる。我らが闇の力は頂点に達しつつある。魔王の座は空いている。あの勇者が拒むのなら、別の器を探せばいいのだ。」

 宰相は静かに笑う。「しかし、勇者が自らの血を封印するなど、余計な真似を……。ニア、行け。塔を壊せ。あの者どもを闇へ屈服させろ。」


 ニアは微笑む。血のような瞳が妖しく輝く。「かしこまりました、卿。あのアルトがどれだけ抗おうと、闇から逃れられないことを教えてあげましょう。」

 ニアは漆黒の翼を幻術で生やし、闇の気配を纏って魔法塔へと飛び立つ。


 塔の上階では、アルトが歯を食いしばり、意識の底で魔族の血と格闘していた。苦痛が極まる時、頭蓋に響くような嘲笑が聞こえる。ニアの声だ。

 「アルト・グランフォード……私がここまで手を尽くしているのに、なぜ魔王になるのを拒むの? 強大な力を得て、世界を支配すればいいのに。」

 脳裏に直接響く幻聴めいた声に、アルトは首を振る。「黙れ……俺は力だけでは世界を救えないと知っている。仲間がいるからこそ、闇を乗り越えたんだ。お前たちのような闇の支配は願い下げだ!」


 闇が渦巻き、塔の壁面が軋む音がする。ニアが外から攻撃魔法を放ったのだろう。窓ガラスが割れ、黒い羽根が吹き込んでくる。

 セリアが防壁魔法を張って衝撃を緩和する。クレリアは必死に呪文を維持し、封印術の光を強める。「アルト、あと少しよ! あなたが闇に屈しない限り、封印は完成する!」


 ガルムたちは下階で必死に抵抗しているが、闇勢力の兵が増援を呼び、形勢は厳しい。リィゼが治癒魔法で味方を励まし、ガルムは決死の覚悟で前へ進む。

 「団長、もうもたないかもしれない!」

 若い騎士が叫ぶが、ガルムは振り返らない。「耐えるんだ。アルトは必ずやり遂げる。俺たちも命を懸けよう。勇者を信じろ!」


 その瞬間、大きな爆音が響き、塔の壁が一部崩れた。ニアが暗黒雷撃を放ち、塔の外壁を削りつつあるのだ。空から滑り込むように黒いローブの魔術師たちが侵入し、上階へ迫る。

 「やばい……上へ行かせるな!」

 ガルムが叫び、騎士たちが必死に応戦するが、敵の魔術師が炎球を放ち、隊列を乱す。リィゼが必死に治癒しようとするが魔力が足りない。


 「ここはもう限界か……」

 その時、外から新たな足音が響き、森の弓使いメリアが軽装で駆けつけてきた。彼女は遅れながらも噂を聞いて参上したのだ。

 「アルトを守りに来たわよ! あんたたち、下がって!」

 メリアが矢を番え、魔術師たちの隙間を正確に射抜く。一本の矢が炎球を放とうとしていた魔術師の喉元に突き刺さり、闇勢力が悲鳴を上げる。

 メリアの加勢で一瞬戦線が持ち直す。


 下階で粘る仲間たちを感じ取り、アルトは痛みに耐えながら微笑んだ。「みんな、ありがとう……俺は負けない!」

 クレリアが最終段階の呪文を唱える。「アルト、心を無にして、ただ世界を思って!」

 アルトは強い意志で応じる。「俺は、光のある世界を守りたい。そのためなら命など惜しくない!」


 封印術が完成に近づくと、アルトの胸元から淡い光が滲み出る。その光は血脈を縛る鎖となり、魔族の闇を包み込む。アルトは絶叫するほどの痛みに見舞われるが、心は決して折れない。

 ニアは窓越しにその光景を見て舌打ちする。「ちっ、まずいわね。あの術が完成すれば、彼は魔王化の芽を摘んでしまう。」

 ニアは塔の中へ突入しようとするが、ガルムとメリアが階段で立ちはだかる。


 「ニア・フォルテリア、ここは通さない!」

 ガルムが剣を構え、メリアが矢を番える。ニアは笑う。「勇敢ね。でも無駄よ。私は魔族、あなたたち人間風情がどこまで耐えられるかしら?」


 メリアが矢を放つが、ニアは闇の袖でそれを受け止め、霧散させる。ガルムが突撃するが、ニアは軽く身を翻してかわし、逆に闇の触手めいた魔力でガルムの足を取ろうとする。

 だが、その瞬間、後方から光の魔法が飛来し、ニアの動きを妨げた。リィゼだ。戦闘魔法が不得手な彼だが、光系の治癒魔法は一瞬闇を弾くことができる。

 「ちっ、小賢しい……」

 ニアが苛立ったように眉をひそめる。


 上階、封印術の光が最高潮に達する。アルトは嗚咽のような声を上げ、拳を固める。「うおおおおっ!」

 光が彼の体から噴き出し、部屋全体を浄化するような輝きが満ちる。セリアが目を細め、「成功した……!」と声を上げる。

 クレリアも唇を震わせる。「アルト、やり遂げたわ。あなたの中の魔族の血は今、鎖に縛られている。もう魔王にはなれない!」


 アルトは膝をつき、荒い息を吐く。体中が痛み、力が抜けるようだ。しかし、心は清々しい。「ありがとう……セリア、クレリア……俺は自由だ……」

 その解放感は、かつて魔王を倒した直後に感じた世界の光と似ていた。


 だが、まだ終わっていない。ニアと宰相がいる限り、世界は闇の脅威から逃れられない。アルトはふらつく足で立ち上がる。「行こう。ニアを倒す。宰相を討つんだ。」

 セリアが心配そうに支える。「でも、あなたは今……」

 アルトは首を振る。「命は多少削られたかもしれないが、俺はまだ剣を握れる。魔王化の危険がなくなった今、恐れるものはない!」


 クレリアも杖を握りしめる。「私も行く。封印術で消耗したけれど、まだ戦えるわ。」

 セリアは大きく頷き、「ええ、一緒に行きましょう。」と決意を固める。


 三人は下階へ急ぐ。そこではニアがガルム、メリア、リィゼを前に不敵な笑みを浮かべていた。

 「もう限界でしょう? さあ、降伏するなら今よ。私たちは世界を新たな秩序で統べる。弱者が苦しまない世界を創るためにね。」

 メリアは血を流しながら矢を構える。「嘘おっしゃい。あんたらがやってるのは血塗られた支配! そんなもの誰も望んでない!」


 ガルムが肩で息をしながらもニアを睨む。「アルトは負けない。あいつは魔王にはならなかったんだ。」

 ニアは一瞬動揺する。「まさか……封印が完成したの?」

 その問いに答えるように、後方の階段からアルトが姿を現す。セリア、クレリアが並び立つ。

 「ニア、俺は自由だ。お前たちの思惑は外れた!」

 アルトの声には揺るぎない決意がこもっている。


 ニアは目を細め、「馬鹿な……闇の血を封じるなんて……」と呻く。宰相がどこかで指示を待っているはずだが、状況はニアに不利だ。

 「もういい、ここであなたたちを殺して、別の魔王候補を探すまで!」

 ニアが闇の魔力を高め、塔を揺るがさんとばかりに黒い雷を放つ。


 セリアとクレリアが即座に防壁魔法を張り、ガルムとメリアが側面から攻撃する。リィゼは再び傷ついた仲間を癒す。アルトは剣を構え、ニアとの間合いを詰める。

 「ニア、お前は世界を闇で覆いたいのかもしれないが、そんな支配はもう通用しない。俺たちは自由意志で光を選ぶ!」

 アルトが剣を振り下ろし、ニアは腕をクロスして防御するが、剣圧は強く、闇のマントが裂ける。


 続けざまにガルムが側面から斬り込む。ニアは瞬間移動のような動きで回避するが、メリアの矢がその軌跡を読んで待ち受けていた。矢がニアの肩を掠め、黒い血が飛ぶ。

 「ぐっ……!」

 ニアは苛立ちを見せ、「こんな雑魚どもに!」と怒号を上げ、闇の刃を生成する。しかし、セリアが風の魔法で刃をいなし、クレリアが雷撃でニアの足元を狙う。リィゼが微かな光でニアの動きを鈍らせる。


 完璧な連携がニアを追い込む。アルトはとどめを刺すべく跳躍し、剣を突き出す。ニアは目を剥いて後退するが、背後にはガルムがいる。ガルムは盾でニアの背中を叩き、バランスを崩させる。

 そこへアルトの剣が一閃し、ニアの胸元を貫く。

 「……っ!」

 ニアは血を吐きながら膝をつく。「ま……さか……こんな、人間ごときに……」

 アルトは唇を結ぶ。「人間ごとき、か……でも俺たちは仲間がいる。闇に屈しない意思がある。お前たち魔族に欠けているものが、ここにあるんだ。」


 ニアは笑うような嗚咽を漏らし、闇の気配とともに身体が崩れ始める。「世界は……また……繰り返す……新たな魔王が……いつか……」

 最後の言葉は闇に溶け、ニアの形は黑い霧となって消え失せた。


 静寂が訪れる。誰もが肩で息をし、血と汗が混じっている。だが、勝利だ。

 「ニアを倒した……あとは宰相か。」

 ガルムが剣を納め、メリアが弓を下ろす。リィゼはホッと息をつく。


 その時、塔の外から喇叭の音が聞こえた。王都の兵たちが動き出し、宰相グラーティア卿が事態を収拾しようと動いているのだろう。だが、既に宰相の企みは露見している。仮面舞踏会での惨劇、黒いローブの儀式……王都の人々は宰相が闇勢力と結託していた証拠を掴みつつある。

 クレリアが外を覗き、「王立騎士団の本部から旗が上がっている。おそらく、宰相への叛意が起きたのね。」

 セリアは疲れた笑みを浮かべる。「結局、宰相も闇を使い、魔王の座を操ろうとしたが、失敗した。もう逃げ場はないでしょう。」


 アルトは剣を杖代わりにしながら、仲間たちを見る。「俺たちは勝ったんだな……」

 ガルムが微笑む。「ああ、勝った。お前が闇に屈しなかったからだ。」

 メリアは「まったく、相変わらずヒヤヒヤさせるんだから」と苦笑する。リィゼは「でも、これで平和になるね」と満面の笑顔。


 クレリアは禁書を閉じる。「この書は封印されるべきもの。封印術は必要な時にだけ使われてきたが、アルトが自分で意思を示したからこそ成立した。あとは王族が正統に統治すれば、世界はまた歩み出せるでしょう。」


 数日後――

 宰相は王族や諸侯によって断罪され、ニアの闇勢力は四散した。王は病床から回復し、新たな秩序を築くと宣言。王都はゆっくりだが、平和を取り戻し始める。

 魔法塔の一室、アルトは窓辺で朝日を眺めていた。セリアが側でハーブティーを用意し、ガルムとメリア、リィゼが談笑している。クレリアは禁書を封じる儀式を準備中だ。


 「アルト、これからはどうする?」

 セリアが尋ねる。アルトは穏やかに笑う。「旅を続けるよ。各地を見て回りたい。今度は闇を求めてじゃなくて、光を確かめるためにね。封印で寿命が縮むかもしれないけど、その間にたくさん笑って過ごしたいんだ。」

 ガルムは腕を組み、「王都には俺がいる。何かあれば呼べ。すぐ駆けつける。」

 メリアは「森の村にも遊びに来てよ。きっと木々がまた緑を増やしているから。」

 リィゼは「僕は病院で働き続けるよ。困っている人がいたら助ける。それが僕の選んだ道だ。」


 クレリアは微笑み、「私も各地の資料を整理するわ。今回の件で、人と魔族、闇と光の歴史に新たな理解が必要だと思ったの。」

 アルトは仲間たちの言葉に目を細める。「ありがとう、みんな。俺は魔王にならずに済んだ。みんなのおかげだ。これからは、俺もただの一人の人間として生きていく。世界が少しでも良くなるように。」


 朝日が窓から差し込み、塔の部屋を金色に染める。遠くで鳥の囀りが聞こえ、王都の街角では子供たちが遊ぶ声が戻りつつある。

 アルトは心の中で呟く。「魔王を倒した勇者は、新たな魔王となるはずだった。だが、俺は世界を守る意志で、その道を断った。闇は巡るかもしれないが、人々が光を選ぶ限り、希望は消えない。」


 そう、世界は再び廻る。闇と光が交錯し、幾度も困難が訪れるだろう。しかし、意志ある者が力を合わせれば、どんな闇も打ち砕ける。

 アルトは剣を背に、仲間たちと笑い合い、そして新たな一日を踏み出した。


 ――これが、魔王を倒した勇者が紡いだ新たな物語の結末。闇を拒み、光を抱いた彼の道は、命の輝きと共に続いていく。

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魔王を倒した勇者は新たな魔王となった 真島こうさく @Majimax

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