見知らぬ駅の優しい手
篠月黎 / 神楽圭
第1話
就職した息子の様子を見に、東京に行った日のことです。
「《事故のため、この先運転を見合わせております……》」
「えっ!」
なんて運が悪いのかしら。アナウンスを聞いた瞬間に、呆然としてその場に立ち往生してしまいました。
生まれも育ちも高知の私は、電車なんてほとんど乗ったことがありません。だから最初は電車に乗るのも一苦労だったのです。もちろん、そのときは東京に出た息子が一緒についてきてくれました。Suicaのカードを差し出しながら「これがあれば切符買わなくていいよ」とまで言ってくれたのです。喜び勇んで「あらありがとう!」早速改札にタッチしてみると、ブザーが鳴り、「お母さん、チャージしないと使えないから」なんて苦笑されました。まったく、あの子は親切なのか不親切なのか。
話が逸れてしまいました。ともかく今日の私は、就職した息子に会うために東京にやって来て、せっかくだからちょっと観光して帰ろうと決意したのです。もちろん、あらかじめ息子に、どの駅で何色の線に乗ればいいのと確認して、手帳にメモしてきました。そしてやっとの思いでこの駅にたどりついて、やれやれようやく後は乗りさえすれば着くぞと、そう思った矢先に、事故に出くわしてしまったのです。
東京の人はこんなこと慣れっこなのでしょう。アナウンスが流れた途端、私の周りの人々は迷わずくるりと踵を返します。中には足を止める人もいましたが、スマホを取り出してちょっちょと指を動かすと、きっとそれだけで迂回路を見つけるのでしょう、すぐに爪先を新しい方向へ向けます。
でも、私はそうはいきません。息子が進学してから何度か来たことはありますが、それでも東京の勝手はよく分からないままです。
「ええ……どうしよう……」
とりあえず、周りの人の真似をしてアイフォンを取り出してみます。息子と機種が同じだから、分からなかったら使い方を教えてもらえるから、という理由で選んだアイフォンです。しかし、なにをどう調べればいいのか分かりません。高知では“電車”といえば不便な乗り物です。東京の時刻表を見ると目が回ってしまいそうになるくらい、電車の本数も少ないのです。なんなら、山の中をずうっとぐるりと回って走るので、息子は「あんなの乗ってたらいつ帰れるか分からない」なんて話していました。
もちろん、私だってお嫁に行くまでは電車を使っていました。だから乗り換えくらいは分かります。でも、私が電車を使ってお出かけをしていた学生の間は、ICカードなんてものはなかったのです。それに、あくまで東京からはとおく離れた田舎の話です。こんな、目が回るような駅で、ちゃっちゃと電車を選び出すことなんてなかったのです。
さて、そんな私ですが、いまはSuicaのチャージ方法をマスターしています。なんとアイフォンでSuicaを出すことまでできるのです。ちなみに、娘は「スマホの電池が切れたらオワリだから物理で持ったほうがいいんじゃない?」なんてアドバイスをくれて、そっかあ、若い子はみーんなスマホにしちゃうのがいいと思うんだと思ってたけど、そうでもないのね、あなたが変わっているのかしら、なんてお喋りしました。
そんなやりとりを思い出しながら、手帳を開いて、巻末にくっついている路線図を広げてみます。東京の路線図はまるで迷路のようで、にらめっこした途端に負けてしまいます。
息子も娘も、こんな路線図を見た瞬間にぱっぱと、自分がどこにいて、行き先がどこにあって、そのためにはこの線が速くて、と理解できるのでしょう。頭の中でパパパパパッと繋がっていく感じには、久しく覚えがありません。五十歳を過ぎてからというものの、思考回路というか、反射神経というか、なにかを処理する能力がすっかり鈍ってしまって、なんでもよーく読んでみないと分からなくなってしまいました。息子がスマホでニュースを読んでいるとき、横から見ていると、私がほんの2、3行しか読めないうちにすーっと指を動かすのですから、あなた本当に読んでるの、と聞いてしまったことがありました。もちろん、読んでいるそうです。
というわけで、私は、ひとりでは到底目的地にたどりつくことはできなさそうです。ああ恥ずかしい、田舎者だわ、そう自分を叱りながら、近くに立っていた駅員さんを捕まえました。
「すみません、ちょっとお尋ねしたいのですけれど……」
「あ、はい」
近くに立って初めて気が付いたのですが、その子はずいぶん若い男の子でした。もしかすると、息子と同じくらいかもしれません。
「浅草に行きたいんですけど、どうやって行ったらいいのか分からなくて」
「あー、ええっと、浅草……」
んん? 怪しい返事を聞いて、私はじっとその男の子の顔を見つめました。男の子は、私が広げている小さな路線図を覗きこみます。
「今いるのは……」
いまいる駅と反対の場所を探しています。
「……ここです」
「あ、そっちですね……」
私が指さすと、そちらに視線を動かします。それを見て分かりました。
この子、さては新人だなあ。どうりで息子と同じくらいに見えるはず。しかも、都会の子なら新人でも東京の路線に詳しいだろうから、私みたいに地方から来た子だなあ。
その男の子は、どうにも困った様子で「ええと……浅草には……」と眉間に皺を寄せるばかりです。しまったなあ、と私は肩を落としました。この子には申し訳ないけれど、これじゃあちょーっと、頼りがないわ。
「どうかしましたか?」
あら。そんな私達の様子に気が付いて、別の駅員さんがやって来てくれました。しかも、今度は私と同じくらいの年のおじさんですから、ベテランさんです。
「浅草に行きたいんですけれど……」
「ああ、それなら」
こともなげに、頷いてくれます。やれやれ、ああ助かった。
「まず大井町に出るといいですよ。その後は上野まで行って乗り換えても行けますし、新橋から乗り換えてもいいし。東京で乗り換えることもできます」
ピッピッピ、とおじさんの駅員さんは、広げてある路線図を3ヶ所くらい指さしました。
はいい? 首を傾げてしまいました。どこで乗り換えるって言ったかしら? どこを指さしたかしら? 最初は上野って言ったかしら……上野に行ったら……次はどれに乗れば浅草に行くのかしら?
とっても頼りになるベテランさんなのは間違いありませんでしたが、ちんぷんかんぷんです。駅員さんは悪くありません、正しい道を、3つも教えてくれたのですから。
どーうしよう。路線図を広げたまま、途方に暮れてしまいました。息子に電話して聞こうかしら。でもこの時間は仕事中だわ。駅員さんには悪いけれど、メモを取りますから、と言って、もう一回説明してもらおうかしら……。
「あなた、浅草に行きたいの?」
そのときです。後ろから、ゆったりとした穏やかなおばあさんの声がしました。
振り向くと、七十歳かそこらのおばさまが立っていらっしゃいました。特別美人なおばさまというわけではありませんでしたが、服装がきちーんとして、小奇麗で、首のストールがちょっとおしゃれなおばさまでした。都会の人って、本当になんでもないときでもみーんなきちっと綺麗にしているものよねえ。
「ええ、そうなんですけど……」
「私、これから浅草を通って行くのよ。よかったら一緒に行きましょう」
「まあ、本当ですか」
渡りに船とはこのこと! 思わぬ助け船に、ぱっと表情が輝いてしまうのが自分でも分かりました。駅員さん二人は、じゃ、自分達はお役御免ですね、という感じで、ぺこっと頭を下げてくれました。私も頭を下げて返すと、おばさまはそれを待ってから「「行きましょう」と先導してくれました。迷いのない足でした。
そのまま、少しだけ駅構内を一緒に歩きました。おばさまに案内されたとおりに電車に乗りましたが、座席は満員で座ることはできませんでした。でも、おばさまは足取りもしっかりしていて、電車内で立っているというのに、少しもよろめくことはありませんでした。私は、電車がブレーキをかけるたびに、おっとっととよろめいてしまうのに。
「このたびは、ありがとうございます。私、普段は田舎に住んでおりまして、電車のことはさっぱり……」
「あら、そうなの。どこからいらしたの?」
「高知からです」
「あら、じゃあ……誰だったかしら、総理大臣の……濱口雄幸ね」
「そうですそうです、よくご存知ですね」
坂本龍馬記念館もあるわねえ、とおっしゃって、よくご存知でしたから、もしかしてご旅行されたことがあるんでしょうかと聞いてみました。でも、おばさまは「行ってみたいなあと思ってるのよ」と笑いました。そんな風に知識が豊富で、そして「どこかいいところがあるかしら?」と話題の広げ方が上手でした。
でも、私がお話できることなんてたかがしれていました。行くところといえば、お城なんていかがでしょうかと答えましたけれど、他にはなかなか心当たりもありません。でも、そんな私の様子に気が付いて「郷土料理はどんなものがあるの?」と聞いてくださいました。それでも私は思いつくものがなくて「レンコン……ですかね……」と原材料を口にしてしまいました。せっかく気を遣ってくださったのに、なんだか感じが悪いわ。こんなときに備えて、もっと知っておくんだったわ。
私はそう反省していましたけれど、するとおばさまは、今度はレンコンを使ったお料理の話をしてくれました。そうとなれば、専業主婦の私にもお話できることはありました。そしてその話に「そうなの、蓮根って煮る以外にもお料理の方法があるのねえ」と感心してくださるのです。なんて感じのいい方なんでしょう。
「都会の人って、お料理が下手なのよ」
「あら、そんなことないでしょう。こんなにおいしいものがたくさんあるんだから……」
「逆ですよ、逆。お料理をしなくても、おいしいものがあるんだもの。みんなそれを買って帰るのよ」
そう言われると確かに、都会の人達は“デパ地下”の高いお総菜を買っていきます。私もデパ地下は大好きです、見ているだけで楽しい気持ちになります。でも、デパ地下のお惣菜って、これでもかと具材を詰め込んでいるものもあって、そこまでしなくても、ちょっと材料を買ってちょっとおうちで簡単にこしらえてしまえば済むものなのに、と思うこともあります。揚げ物もそうです、揚げ物なんて揚げたてが一番おいしいに決まっていますから、おうちに帰って揚げればいいのに、どうしてわざわざ高いお金を出して冷めたものを買って、帰って温めなおすなんてことを……。そうぼやくと、息子にも娘にも「都会の人はお母さんと違って忙しいんだよ」と呆れられてしまいました。おばさまもおっしゃるとおりです、都会の人は忙しくて、のんびりおうちでお料理をする暇はないのでしょう。なるほど、そうなんですねえ、と頷きました。
おばさまとは、浅草に着くまで、そんな他愛もないお喋りに花を咲かせました。途中、おばさまは窓の外を指さして「もうすぐ行くとスカイツリーが見えますよ」とも教えてくださいました。
「あらっ、じゃあ見ておかなきゃ……!」
じっと注意していたのに、いつまで経っても見えてきません。
「いま過ぎましたよ」
と思ったら、別の方が教えてくれました。私達が話すのを聞いていたのでしょう。おばさまは、ふふ、と笑いました。
そうして、十分、二十分は乗っていたでしょうか。
「この次が浅草よ」
おばさまがそう教えてくれました。ああもう、本当によかった。一時はどうなることかと思ったけれど、ちゃーんと浅草に着くことができそうです。
……あ、そうだわ。はっと思い立って、バッグを開いて、手帳を探します。
「あの、よろしければ、お名前とご住所を教えていただけないでしょうか?」
もちろん、贈り物なんて大層なことをするつもりではありませんでした。私はとっても助かりましたが、おばさまのご様子からして、きっと贈り物をしてはかえって気を遣わせてしまいます。でも、せめて感謝の御葉書きを出そうと思ったのです。
「あら、文通?」
でも、おばさまの優しい手が、そっと私の手を留めました。
「私、教えないわよ」
えっ、どうして? びっくりしておばさまの目を見つめ返しました。しわに囲まれたおばさまの目が、じっと私を見つめ返し、微笑みます。
「文通って、続かないものでしょう。もし御縁があるのなら、文通なんてしなくても、またお会いできるわ。だから私、お手紙は出さないの。あなたとお会いできて楽しかったけれど、今日こうして会えたことは、今日これでおしまい」
「《浅草ー、浅草ー、お出口は、右側です……》」
そのとき、ちょうど電車が浅草に着きました。
あらっ、降りなきゃ。扉の近くにずっと立ってたら邪魔になるわ。
慌てて電車を降りると、ホームに立っていた人達がどんどん電車に入っていきました。それでもなんとか、おばさまの姿を見ることはできていましたが、こんなところに立っていたら邪魔だわ、そう気付いて足を動かすと、もう見えなくなってしまっていました。
でも、おばさまからは、まだ私のことが見えるんじゃないかしら。一生懸命背伸びをして、私達が乗っていたあたりへ、そっと頭を下げました。電車が動き出す音がします。顔を上げましたが、やはり、おばさまの姿は見えません。
でも、おばさまからは、私のことが見えてるかも。そう願って、もう一度頭を下げました。
そのおばさまは、まるで女優のように、特別にきれいな方だったわけではありません。特別に飾り立てた方でもありませんでした。
ただ、とても優しく、素敵な方でした。物知りで、気遣いがお上手で、親しみやすいけれど不躾ではない、とっても感じのいい方でした。いま思えば、あのおばさまは、私が困っているのを見つけて、ご自分は用事がないのに、わざわざ浅草まで遠回りして行ってくれたのではないでしょうか。
東京から戻ってきて、まだ高校に通う娘のご飯を作りながら、ときどき、あのおばさまのことを思い出します。私はまだまだ、これからも年をとっていきます。そのときには、私も、あんな素敵なおばさまになりたいと思うのです。
見知らぬ駅の優しい手 篠月黎 / 神楽圭 @Anecdote810
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