アドバイス

珠洲泉帆

アドバイス

 その家の庭には、幽霊が出るという。

 ジュディが最初にその話を聞いたのは、下宿がある町の食堂に来たときだった。

「子供も大人も、みんな言うんですよ。庭の木の下に、ぼうっと立ってる人影がいるんだって。苦しそうなうめき声を聞いたっていう人もいるし、不気味でしょう?」

 ジュディが試験勉強のために町に来たと知って親切にしてくれたおかみは、サービスのアップルパイをテーブルに置きながらそう言った。確かに不気味ではある。しかし科学の信奉者であるジュディは、それ以上の感想を持つことはなかった。家の管理人からも何も知らされていないし、ただの噂話だ。

「影だの声だの、それだけと言えばそれだけなんですけどね。ま、何にしろ、困ったことがあったら声をかけてね」

「ありがとう」

 そう言って、ジュディはさくさくのアップルパイを頬張った。


 ジュディは数学科の学生で、来る試験のために猛勉強する必要があった。気を引きしめて勉強に集中するため、普段と違う静かな環境に移りたかった。そのとき、親戚の老婆が管理人を務めている家があると聞き、これ幸いと下宿させてもらったのだ。ちんまりとした町に建つ、これまたちんまりとした家。ジュディはすっかり気に入った。ここでなら、今までよりずっと身を入れて勉強ができそうだ。

 クリーム色の壁をしたその家は、一階に玄関とリビング、応接間、キッチンと食堂があった。二階には書斎と寝室、浴室が備えられている。ジュディは二階の書斎を勉強部屋に選んだ。書棚と大きなデスクと椅子があるその部屋は、いかにも勉学のための場所にふさわしかった。

 書斎の窓からは庭を見下ろせた。小さいながらも手入れの行き届いたその庭に、大きな木が一本植わっていた。ジュディには、それがアカバニラだとすぐにわかった。地元ではあちこちに植えられているお馴染みの木だ。なかなか見事な枝ぶりで、その日陰はひと休みするのにうってつけだった。

 ジュディはさっそく勉強に取りかかった。思った通り、するすると進んだ。朝から晩までデスクにかじりつき、立ち上がるのは食事のときと寝るときくらいだった。ここでなら試験の準備を万端にできる。ジュディは安心しきっていた。

 ある夜、妙なことが起こった。参考書とノートを開いて問題に取り組んでいたジュディだったが、物音を聞いた気がしたのだ。それは確かに人の声だった。机の上に置いたランプの灯が微かに揺れた。ジュディは音に気をとられ、辺りを見回した。

 また聞こえた。悲鳴のような、うめいているような、そんな声だ。窓の外から聞こえてきた。

 ジュディはそろそろと立ち上がり、窓に近づいた。風の音かと思ったが、強い風なんてちっとも吹いてはいない。カーテンのすきまから覗いてみたが、木の枝は静止していた。

 ジュディはデスクに戻った。椅子に座る瞬間また声がして、ジュディははっと身を固くした。

 耳を澄ませてみたが、それ以上は何も起こらなかった。ジュディの心は目の前の問題に戻った。音の正体が何であれ、噂は本当だった。


 ついに、ジュディは難問に行き当たった。どんなに考えてもいい解法が見つからず、思考は堂々巡りに入った。気分転換をするために外に出ることが増え、人に会う機会も増えた。

「困ったことは何もない? いつでも言って」

 コーヒーを飲みに食堂に来たジュディを温かく迎えてくれたおかみは、にこにこと人の好さそうな笑顔をしている。しかし、ジュディが自分も声を聞いたと言うと、おかみは顔をくもらせた。

「やっぱりねえ……。実は、わたしも聞いたんですよ。家のそばを通ったときにね。あれは夜だったかな。悪さはされてないね?」

「まさか」

 ジュディは笑いながら首を横に振った。いくらなんでも、心霊現象まで起こるはずがない。

「声は確かに聞こえたけれど、何かいわくはないんですか、あの家って」

「どうかしらねえ……」

 おかみは言葉を濁したが、彼女の表情にはそれを打ち明けてしまいたい衝動が表れていた。ジュディがさらに質問すると、おかみは口を開いた。

「それがねえ、あの家の庭に立派な木があるでしょう。あれで首を吊った人がいるっていうのよ。なんでもそれが、あなたと同じように、勉強するため家に閉じこもってた人だって話よ。だから、声も影もその人のものなんじゃないかって思うのよ」


 その話を聞いてから、庭を見るジュディの目は少し変わった。幽霊などいないと信じてはいても、人死にがあった庭だと聞くとやはり気味が悪く思える。それでも、下宿の契約期間が切れるのはまだまだ先だし、書斎の居心地は抜群にいい。そのまま家に留まることにして、幽霊話は忘れようと努めた。

 難問はいまだに解けないままだった。夜、ジュディはため息をついて両腕を伸ばした。ずっと座っていたせいで背中が固くなっている。立ち上がって軽くストレッチをし、空気を入れ替えようと窓に近寄った。

 窓を開けて新鮮な空気を入れる。深呼吸してリラックスしていると、ジュディの目がそれを捉えた。

 月明かりの中、それはアカバニラの根元にたたずんでいた。ジュディは窓枠に手を置き、目を凝らした。誰かいる。誰か人間の影がそこにいて、こちらを見上げている。

 ジュディは瞬きした。雲が流れて月を覆った。月光が戻ってきたときには、影は消えていた。

 勉強を再開したが、難問はやはり解けなかった。お手上げ状態になったジュディは深々と息をつき、そして諦めた。解けないものにいつまでも時間をとられてもしょうがない。今日は眠って、明日の自分に賭けよう。

 書斎を出る前、もう一度窓辺に寄った。首を吊って死んだその人も、ここで勉強していたのだろうか。時には今のジュディのように、思い悩むこともあったに違いない。あるいは勉強に行き詰って、それを苦にして……。

 ジュディは頭を振った。明日、すぐに解き直せるように、デスクの上のノートはそのままにしておいた。もう寝てしまおう。

 翌朝、書斎に入ってノートを見たジュディは言葉を失った。ずっと行き詰っていた問題の正しい解法が、誰かの手で書き込まれていたのだった。


 下宿の契約が終わるときが来た。ジュディはすっきりとした気持ちでその日を迎えた。わからないところはすべて解決したし、試験に出そうなところもチェックしてある。最後に食堂でコーヒーを頼み、おかみに幽霊のしわざと思われるノートの書き込みの話をした。

「まあまあ、そんなことが」おかみは目をまん丸にする。「じゃあ、悪い霊ではないのねえ。あなたに何事もなくてよかった」

 ジュディはうなずいてコーヒーをすすった。幽霊についてわからないことは多いが、少なくとも、頭がいいことには間違いないだろう。

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