遠き鯨の国
幸まる
この先に
その二国は、険しい山岳地帯に囲まれた盆地に在った。
歴史を遡れば、元々は一つの国であったというその二国は、遥か昔に王族同士の派閥争いから内乱が起こり、混乱の末に二つに分かれたという。
そんな曰くがあったからか、二国は事あるごとに異なる主張をし、小競り合いが絶えなかった。
左国の王都では、今日も多くの者が行き交う。
数ヶ月前に二国間で休戦協定が結ばれた
休戦処理も落ち着いた今、民は平常の生活を取り戻しつつある。
例え、戦による傷を抱えていても。
休戦と言う名の、一時的な平和であっても。
それが二国間の歴史での常だった。
露店が並ぶ大通りの向こう、中央の広場では、数日前から都に逗留している
彼等は海際の国からやって来たということで、広場上空に幻影を映し出し、広大な海を見せているのだ。
集まっている人々から、ワッと歓声が上がる。
見上げる世界には、ざぶりざぶりと幾重にも波が漂い、ぶつかりあって白い
波の間には、光弾く小型の魚達が泳ぎ、それを散らすように大型の魚が横切る。
大小の泡が湧き上がれば、そこから色とりどりのクラゲが生まれて揺蕩う。
山々に囲まれた内陸の土地に生きる民は、海を見ずに生涯を過ごす者がほとんどだ。
幻影師が映し出す海は、彼等にとって初めて見る世界で、それが本物の海と同じかどうかは分からずとも、強く心揺さぶるものだった。
本日の演し物を終えて、撤収しようとしていた幻影師達のところに、ローブのフードを深く被った男が訪ねて来たのは、首都に逗留して七日ほど経った頃だった。
「病床の国王に、心安らげる幻影を見せてもらいたい」
ローブの男はそう言って、金貨の入った重い袋を、積み上げられた荷物の上に置いた。
幻影師の仲間達は、思わず目を見合わせた。
左国の国王は、二国間で休戦を成してから少しして、床に伏した。
症状としては、生きたまま身体が腐敗しているのだといい、病でなく、右国の者が掛けた呪いであると噂されている。
薬はおろか聖魔法も効き目がなく、その生命は既に尽きかけているという話だ。
後継には、既に人格者と称される王子が定められていて、次代への備えは盤石だ。
しかし、国民思いの王として支持された彼の死期が近付くことは、薄暗い靄が掛かるように、国中に憂いを広げていた。
「王は病の悪化によって、安らげる間がない。僅かでも良い。そなた達の幻影の術で、夢を見せて欲しいのだ」
ローブの男が固い声で言えば、幻影師は軽く首を振った。
「私の腕で、お望みの
「それでも良い。王の死期は近い。国の為、民の為に力を尽くした王に、せめて最期にほんの少しだけでも、安らかなる時間を差し上げたいのだ」
そう言ってフードをはぐった男は、次代の王。
後継である王子だった。
左国の王宮は、奥に進めば進む程、薬香の匂いが濃く、空気は重くなる。
それが顕著に王の病状を物語っていた。
王子が幻影師を連れて来たと聞き、国の重鎮達の中には、非難の声を上げる者もいた。
幻影の術は、精神魔法に属する技。
素性が知れぬ上、そんな技を使う者を無闇に王に近付けては、危害を加えることもあるかも知れない。
王に掛けられた呪いすらも、この者達のような術師が関わっているのかもしれない、と。
しかし、王子は聞き入れなかった。
王の死は、間近に迫っているのだ。
ましてや、幻影師達が招き入れられたのは、王宮の最奥。
何か怪しい動きをしても、逃げることは叶うまい。
そうして半ば強引に、王の寝室は閉じられた。
室内にいるのは、王子と幻影師一行、王を看ている薬師、そして寝台に横たわる異形の王だけ。
王の身体は噂通り、既に四肢が壊死しており、皮膚の多くは包帯に覆われていたが、その白にもじわりと泥色が滲み、隠しようのない腐敗臭が漂っていた。
王子が側に寄り、王に幻影師を連れてきたことを告げると、王はきっぱりと答えた。
「要らぬ」
「父上……」
「我に安らぎなど無用だ。この痛苦は、罪なき多くの右国民の生命を奪った、我に与えられるべき罰。命尽きるまで、このまま全て受け入れねばならぬ」
「しかし」
「要らぬ」
王の息は荒く、声は苦痛に掠れていたが、その意志は固く、少しも揺らいでいなかった。
生きたまま腐敗していくなど、想像を絶する苦しみであろうに、王はそれを自ら罰として受け入れているというのか。
「……それ程の罰を受けなければならない罪だと分かっていて、貴方はなぜ戦をしたのですか?」
寝台の側まで寄った幻影師が、静かに尋ねた。
「なぜ、罪なき民と分かっていて、右国に攻め入って民を殺したのですか?」
王子が口を挟もうとしたが、王が軽く手を上げて止めた。
「……確かに、愚かしいことだ。だが、右国の者は、我の妻と娘を殺した」
些細なことで、小さな衝突があった頃だった。
国の行事で地方へ向かった王妃と王女は、国境を越えて攻め入った右国の兵士に捕らえられ、殺された。
「妻と子に、何の非があっただろう。右国は、開戦を宣言する為に妻と子に苦しみを与え、嬲り殺しにして晒した。……堪えられなかった。許すことが出来なかった。同じ痛みを味あわせてやらねばならぬと誓った」
王の声が、初めて揺らいだ。
「……我は愚かだ。報復に、何の意味があっただろう。愛する者達は返っては来ぬ。愚かしい……、愚かしいことだ。だが、我が怒りを止められなかった。だからこそ、この罰を避けることは許されぬ……」
己の罪に対する罰は、受けねばならない。
王のその固い意志が、薬も聖魔法も受け付けない理由なのだろう。
「……人間は、何処までも愚かだ」
しばらくの静寂の後、幻影師はそう言って、両手を上げた。
コポリ、と微かに湿った水の音がして、次の瞬間には、頭上に海が映し出された。
濃く薄く、藍緑の重い波が押し寄せる。
光も届かない、深い深い海の底。
暗い魚影が幾つも揺れるが、光の届かない海底では、輝きはなかった。
広場で見たような幻影ではない。
王子が不審気に眉根を寄せた時、波の奥から、更に大きな影が近付いて来た。
ゴブゴブと鈍く音が聞こえそうなその影は、近付けば巨大な魚のような生き物であることが分かった。
しかし、これまで生きてきて一度も見たことがないような巨大な生き物で、頭上からゆっくりと迫り来れば、幻と分かっていても身体は強張り、王子は声も出なかった。
それは、鯨。
陸に住む者は、本でしか見たことのない生き物。
王の寝台の上で、鯨はガパリと大きく口を開けた。
開いた口は、部屋を全て飲み込む程の大きさだったが、その中は不思議と海面のようにキラキラと光を弾いた。
溢れる光の眩しさに、王は一度目を閉じたが、再び目を開けた時、目の前の光景に息を呑む。
目の前には、愛する
二人は微笑んで、王の側に寄り、包帯の巻かれた手や頬に触れる。
幻であるその手に感触など勿論なかったが、その柔らかさも体温も、王には思い出すことが出来、途端に両目からは涙が溢れた。
「……すまない……お前たちを守ることが出来なかった。苦しんで逝ったであろうに、何も出来なかった……」
すまない、すまないと詫び続ける王に、王妃と王女は微笑んで首を振った。
『私達がいるのは、
「……そうか、もう苦しいことはないか……、安らかであるか……」
王妃と王女は柔らかく頷き、王は深く深く安堵の息を吐いて、ゆっくり、ゆっくりと目を閉じた。
「待て」
王宮を去ろうとする幻影師一行を、廊下で呼び止めたのは王子だ。
振り返った幻影師の前に立ち、目線を落とした彼をしばらく見つめて言った。
「そなたは何者だ」
「私は、ただの
「ならばなぜ、母と妹を知っていた?」
「王妃様と王女様のお姿を知る機会は、この国にいればいくらでもございましょう」
王族の肖像画は、王都に入れば主要施設で見ることが出来る。
「確かにそうだ。しかし、右国に捕らえられた時の衣装を知るものはいない」
幻影師の側にいた二人の仲間が、ピリと気配を尖らせた。
幻影師が鯨と共に見せた二人の姿は、右国に捕らえられた時に身に着けていた衣装そのままだった。
あの姿は、あの時のことを知るものにしか、表せないもの。
「右国民だな?」
仲間が素早く動きそうになるのを、幻影師が抑えた。
鋭く見返し、詰めた襟元を緩めて王子に問う。
「だとしたら、どうしますか? ここで私を討ち、再び開戦を?」
「……っ!」
幻影師の緩めた襟元から、鎖骨が見えた。
その下に彫られているのは、右国の王家の紋章。
「…………王子、我らは、いつまで報復し合えば良いのでしょう。隣り合って生き、同じ人間であるのに、一体いつまで……」
「…………いつまで」
二人の王子は、ここで明確に答えの出せない問いを挟み、沈黙したのだった―――。
「王を殺さなくても良かったのですか?」
王宮を出て歩く
開戦の懸念があるとして、精神魔法を学ぶ為に留学していた海際の国から帰国してみれば、既に自国は敗戦に追い込まれていた。
首を取られた仲間の
一体、
その疑問だけが膨らんでいく日々……。
そんな中で、とうとう王の側に寄る機会を得たのだ。
「……あの王は、今まさに罰を受けている。今殺すのは、楽にしてやるだけだろう」
幻影師は、幻を見せただけで、
幻影師の歩く前を、子供達が大きな声で笑いあって駆けて行く。
海際の国では、善良なる行いを以って正しく生きた者は、海へ還り、母なる生命と呼ばれる鯨の『苦知らずの国』へ至るのだという。
海を知らない二国は、大きな決断と渾身の変化を掴み取らねば、鯨の下には行けぬのだろうか。
「私達は、どうすればいい……」
幻影師の呟きは、さざ波のような人々のざわめきに溶ける。
―――二国の先は、まだ誰も知らない。
《 終 》
遠き鯨の国 幸まる @karamitu
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