第3話 サウィンの訪れ


 夜、ミケラは読みかけの本の上で手紙を書いていた。

 手紙の中身は本の感想だ。手元の蝋燭の明かりだけを頼りに、夜中にこそこそと手紙を書いていることには理由がある。そう遠くない将来、自分の目の届かないところで大きく育つであろうローウェンとタマラへ、そして大切な両親であるアレクシスとエヴリンへ残したいものがあったからだ。ミケラは城の至る場所に、ミケラの私物の間にその手紙を残した。家族には直接渡すことが出来ないこの手紙はミケラが家族に残せる唯一の声の形だった。

 少しでも寂しさが減りますように。

 思い出してもらえるように。


 折り畳んだ手紙をミケラはページの間に挟んで隠した。


「二人はどんな大人になるんだろう。ローウェンは私の身長よりも大きくなるかしら。タマラの初めての好きな人はどんな方かしら…………」


 ミケラは蝋燭の明かりにだけ、そっと秘密を打ち明ける。


「家族と離れたくないわ……」


 ——それでも、ミケラは妖精王の花嫁として、妖精の国へ嫁ぐことは避けられない運命だった。


 ミケラはその願いをグィネヴィア女神にも、すべての創造主にも祈ったことはない。決して聞き届けられてはいけない願いを心にしまうかのように、蝋燭にふっと息を吹きかけた。部屋は静寂にどっぷりと包まれた。ミケラは自分の息づかいの音まで聞こえる静寂に耳を澄ました。

 しばらくの間、ミケラは静寂の中で女神と父なる創造主へ祈りを捧げた。今日一日の家族と過ごした思い出が心に浮かび、胸が締めつけられるような切なさを感じる。しかし、その中にも温かな愛情が溢れていた。

 ミケラは静かに立ち上がり、部屋の中を歩き回った。カーテンの間から差し込む月明かりが、彼女の足元を優しく照らしている。カーテンをめくって、夜空を見上げた。星々がきらめき、まるで彼女を見守っているかのようだった。いつか訪れる別れの日までの思い出が、幸福に満ちあふれたものになるよう過ごせるように。ミケラは女神にも想像主にも願えない思いを見守る星々に願った。

 彼女はそっと微笑み、口ずさみ始めた。幼い頃に母親が聞かせてくれた子守唄を思い出し、そのメロディを静かに奏でた。


 そっと目を閉じて 眠りにつく時

 エリンの緑の丘 夜の中へと

 星々が見守る 君の眠る夜

 風の歌に乗って 運ばれる足

 エリンの大地へ 導かれる


 母の愛に包まれて おやすみなさい

 母の愛に包まれて おやすみなさい


 星を眺めていたミケラの瞼がだんたんと重くなり、彼女は窓辺からベッドへと戻った。心の中に温かな子守唄の響きを残しながら、彼女はゆっくりと瞼を下ろす。ミケラは夜の闇の中で静かに眠りについた。

 しかし、当然ながら星々は夢の中までミケラを見守ることはできなかった。



 上も下もない空間に自分がぽつんと浮かんでいる感覚。

 灰色にぼやけた世界。

 そして、目の前には煌めく紫色の目をした男がいた。

 若々しさを感じる艶やかな肌や、シワ一つない目元から推察するにまだ20代なのだろう。

 背が高く、端正な堀の深い顔をしている。高い鼻は彼をより一層聡明に見せた。

 目は鋭く、小刀を口に咥えているようにきつく結ばれた薄い口元が彼を近寄りがたくさせる。

 輝く銀髪はそれこそ刃物のように光り、許されている以上に近づけばすっぱりと切られてしまう気がした。


 ——離れなければ。


 それ以上そばにいれば切られてしまう、危ない、逃げろ、とミケラの理性が叫んでいる。

 しかし、彼の目はミケラに様々なことを語ろうと煌めいて——ミケラの視線を奪った。

 息がつまるほど美しい銀髪の男は、ミケラをただ見つめている。


 ここは夢の中だ。ミケラはまた夢を見ている。

 そのことが、肌を焼くような焦燥感と色の濃い絶望感をミケラに与えていた。しかし、それらはすぐに熱い感情に吞み込まれるようにして消えていく。心すら思い通りにならないのか、夢の中というのは。


 ——あんまりだわ。


 ミケラは唯一自由にできる頭の中で悪態をついた。


 ——あなたはだれなの?


 銀髪の男に向かってミケラは叫んだが、それは声になることはなかった。だが、ミケラの叫びは相手に届いたようだ。男はゆっくりと頷く。そして、きりっと結ばれていた唇が解かれ、男の鋭い顔面は、ほどけるようにやわらかくなる。

 男の持つ輝きは、切そうなほどの冷たい光から、優しい月明かりへ変化した。その眼差しを受けたミケラの心臓はトクトクと早鐘を打つ。


「        」


 男はミケラに近づいて、ミケラの頬に手を添えた。吐息すらぶつかりそうなほど距離が近づく。だが、男の言葉をミケラは拾うことができない。言葉の形を成さないくぐもった音だけが、ミケラに降り積もるばかり。それだというのに、ミケラの心は震えていた。たしかに感情を受けとめていた。その感情は、まさしくミケラのものだった。男の紫の瞳がミケラに向けられている。その理知的な瞳はミケラの届かない声にすら気づいて、救いだしてしまいそうだった。深い紫の虹彩には、ミケラの姿が映っている。


 ——あなたはなんと言っているの?


 音を少しもこぼさないように、とミケラが耳を傾けようとした。その時、目の前の男は苦しみだす。そんなまさか、いやだ。ミケラの思考よりも早く世界は動き出している。気がつけば、ミケラの手には小刀が握られていた。世界にまた赤が広がっていく。


 ——また、私が……。私が、彼を……どうして……?


 男の体が傾いていく。ミケラは考えるまでもなく、男の体を抱きとめた。そのまま二人して座り込むように床に崩れる。赤い色は広がったままだ。


 ——あなたは一体……誰なの?


 腕の中の男は、ミケラを見ていた。


「お嬢様……ミケラお嬢様!!」


 はっ、とミケラが目を開いて真っ先に目に飛び込んだのは、心配げなメイドの顔。

 それから、見慣れた天井だった。

 ほっと安堵の息をこぼすと目尻から涙が逃げていった。ミケラは両手で顔を覆って、メイドの心配する声も無視してしばらく涙に耽った。

 この頃、夢は手を替え品を替えミケラに同じ結末を見せた。男の顔は夢を見るごとに鮮明になり、その上ひどく懐かしさを伴うようになっていった。頬に添えられた手が、ミケラの純情を求めて近づいてくる唇が、煌めく紫の瞳はミケラをいくつもの幻想に取り込んだ。

 しかし、必ず夢は同じ終わり方をする。


 ミケラの手に握られた小刀。それは人間の子どもが生まれると必ず購入されるスティルレイという大変軽い鉄で出来た武器だ。武器であり、刺すことができればなんでもよしとされていた。そのため多くの人は子どもが生まれると男女問わず包丁や鎌を作ってやるのだった。古くからの伝統では必ず小刀が与えられる。ミケラの家は由緒正しき貴族の家であるため、伝統にならい小刀が子どもたちに与えられた。美しい装飾が施されたそれは、妖精すら殺せるとされている。その小刀でミケラは夢の中であの恐ろしいほど美しい男を殺した。何度も、何度も……。


「ミケラ様、お労しいわ」

「サウィンがもうあと数日に迫っておりますので、悪夢をよく見るのもきっとそのせいでしょう」

「私、何か温かいものを持って参りますね」


 ミケラの周りでメイドたちがしゃべっている。けれども、ミケラはまだ言葉を紡げなかった。体が震えている。涙が溢れて止まらない。


「あなたは一体誰なの……。どうして私の夢に出てくるの」


 自分の腕で感情を押しつぶすように、小さな小さな声でミケラは吐き出した。



「お嬢様こちらを」


 やっと落ち着いた頃、ミケラは行儀が悪いとはわかっていながらもベッドの上で温かい飲み物をいただいた。普段は行儀にうるさいメイドたちも思うところがあったのか、ミケラの好きなようにさせていた。


「なんだか、空が薄暗いわ。朝のようには思えない」

「……ええ、今日は曇りというわけではありませんが、どうにも暗くて。空がこうも薄暗いと気分も滅入ってしまいますよね」


 メイドの言葉にミケラは少し嫌な予感がした。今日のこの朝の空は……どこか、極夜の空に近い気がした。しかし、極夜はサウィンの後にやってくるものだ。冬の中でも一番寒い日から数日……長い年は一週間以上も夜のまま陽が上らないことがある。それはエリンの土地では冬の訪れを意味した。創造主が太陽を休ませるため、太陽を覆い隠してしまうのだ。——地方によっては太陽を妖精が盗んだ、とも言う。


「さぁ、ミケラ様!支度をしましょう。もうすぐ朝食の時間ですので!」


 明るく励ますような口調で告げたメイドに頷き返してミケラは立ち上がった。

 一日は始まったばかりだ。そして、夢は——どれほどそれが現実味を帯びていても、夢にすぎない。


 支度を終えてミケラが食卓についた時にはすでに家族全員が集まっていた。ミケラへ心配そうに視線を向けるエヴリンとアレクシスにできるだけ視線を合わせず、まっすぐに自分の席へ着いた。夢が増えるということは、花嫁になる日が近いことを告げていた。グウィン家のお抱えの学者たちが、あらゆる文献から導きだした「妖精王の花嫁」の謎の一つだ。最初は数日に一度ほどの夢がここのところ毎日続いている。それはつまり、ミケラが家族と別れる日が、刻一刻と迫っているということだ。

 今朝見た夢のせいか、この薄暗い空のせいか……ミケラは腹ペコのはずなのに一切朝食に手をつけられなかった。


「失礼します!! グウィン侯爵閣下、お食事中に申し訳ございませんが重大な報告がございます」

「良い、告げよ」

「……学匠<メイスター>エックハルトによると、今年度のサウィンは通年の二週間早まり、一週間後に到来予定とのことです……!」

「なにっ!?」


 ミケラは身体中からあらゆるものが抜け落ちて空っぽになった気がした。鼓膜すら落としてしまったのか、その後慌ただしく人々が動く音も全く耳に入らなかった。ミケラはただ、"その日"が想像以上に早く、全く準備もできないまま近づいていることに気がついて、何も受け止めることができなかった。


「そんないやだ!いやだ!」


 ローウェンとタマラが体当たりをするようにミケラに抱きつくまで、ミケラは呆然とその場に座っていた。



 それから一週間はあっという間に過ぎていった。

 家族は片時もミケラを離さなかった。タマラとローウェンは毎日ミケラと共に寝たがった。メイドも執事もいなくなった静かな寝室で、タマラとローウェンは鼻をすすった。ローウェンは決まって涙に濡れた声でミケラに誓った。


「僕が……、僕がいつかちゃんと騎士になって…帝に認められたら…お姉ちゃんを助けにいきますから。妖精王を倒します、絶対に。だから、待っててくださいね」


 タマラはぎゅっとミケラのネグリジェを掴み、ローウェンはミケラの腕に顔を押し付けて眠った。二人の深い寝息が聞こえるまでミケラは涙を堪え続けなくてはいけなかった。朝になるとエヴリンとアレクシスがミケラをあの手この手で甘やかし、国中の美味しいもの、美しいドレスをミケラに与えようと躍起になった。数々の贈り物よりも、ミケラにとって嬉しかったのは、ぎゅっと抱きしめられたり、両親から自身の幼い頃の思い出を聞くことだった。


 手放したくないものは山ほどあり、ミケラは毎日徹夜をして蝋燭に秘密を打ち明け続けた。


 ——いつの間にか一週間が過ぎ、サウィンがやってきた。


「ミケラ様、とってもお美しいです」


 メイドが囁いた。鏡には丁寧に髪を結い上げられ、化粧を施されたミケラがいた。


「でも緑のドレスは……私には似合わないと思わない?」

「そんなことないです! とってもお似合いですよ」


 ミケラは曖昧に微笑んだ。お世辞だとわかっていた。

 深い緑色のドレスは裾も身丈も長く、ほとんどの生地が床にべったりと落ちている。緑色はグウィン家の象徴だ。奇しくもグウィン家の者は翠眼と深い茶色の髪を持って生まれる。花嫁衣装に緑が伝統的に使われるのは、瞳の色と合わせるためだ。黒髪に乳白色の瞳をしているのはミケラだけだった。深い茶色に、美しい緑の眼を携えた乙女がこのドレスを着れば、きっと大変華やかなものになるだろう。

 しかし、ミケラが着るとミケラの顔の血色を悪く見せた。連日の夜更かしも相まって、今のミケラは自分を美しいと思えなかった。たとえ、幾重にも結ばれた髪の毛に多くの宝石が編み込まれていても、職人たちが時間をかけてドレスのあちらこちらに刺繍を施していても。ミケラには鏡に映る自分が「美しい花嫁」だとは思えなかった。


 ミケラはため息を吐いて、鏡に映る自分にいい加減嫌気がさして目を閉じた。


 突如目の前に広がったのはあの灰色の世界。光はきらめいて、好き勝手な色をミケラに見せつけた。——夢だ。しばらく目の前には空虚が広がっていた。灰色の世界。光。自分の指先。水の中のように自分の黒髪が舞い上がっているのをミケラは信じられない気持ちで眺めた。


 何かをとらえようと前へ手を伸ばしていたミケラの手を掴み、誰かが背後からミケラを抱きしめ、耳元で囁いた。


「ミケラ」


 鼓膜を揺らすその声は、低く、甘く掠れている。ミケラの伸ばした手をそっと引き寄せるように、背後の人物がミケラの手に指を絡めて繋がる。その手の大きさに、ハッとした。


 ——あなたは一体……誰なの?


 案の定、声は出なかった。ミケラは指一本動かすことができなかった。しかし、緩やかな動きで視界の端に銀色の髪の毛が映った時、ミケラは今自分が誰に抱きしめられているのかはっきりと理解した。


「ミケラ」


 聞き慣れた声にミケラはハッと顔を上げ、辺りを見回した。そこは見慣れた城の中庭だった。


 ——そうだった、今は……。


 隣に立つ父がミケラの肩に手を乗せて微笑みを向けられている。


「私はどんな時も、ミケラ。お前の傍にいる」


 その笑みが、歪みそうになっていること。肩に置かれたその手が震えていることにミケラは気づいた。ミケラはシワの刻まれた大きな父の手が自分の肩に触れた時、そのあたたかさに心臓ごと掴まれた。カーディオン帝国人らしい、厳しい父の柔らかい部分をミケラは初めて知ったような気がした。いつもミケラとの別れを惜しんで涙声になるのは母のエヴリンだった。ミケラは根っからの騎士であるアレクシスは娘が妖精の元へ嫁ぐことも「帝国のため」「貴族としての誇りだ」「選ばれた者なのだ」と考えていると思っていた。実際その言葉をアレクシスはいつも繰り返していた。しかし、今この瞬間、しっかりと姿形を焼き付けるように強く乗せられた大きな掌に、ミケラはやっと父親の人となりがわかった気がした。


 ——自分自身に言い聞かせていたんだわ。

 

 行くな、というようにミケラを掴む父の手は、ひどく弱く感じた。


「お前は、私の誇りだ」


 ミケラは目が火をつけられたように熱くなり、涙がとめどなく頬を流れていくのを感じた。

 施された化粧が涙と共に花嫁衣装に落ちていくことも、気にするほどの余裕はない。ミケラはアレクシスの体を抱きしめて、子どもの頃のようにその胸で涙を流した。受け止めた父親の胸はやはり大きく、一生敵わない気がした。これから紡げるはずだったいくつもの思い出を思うと、悲しみは波のように永遠と寄せて来る。


「あらあら、もう。あなたは本当に、泣き虫なんだから」

「お姉様……うっ、ひくっ」


 振り向けば家族が出来損ないの笑顔を浮かべて立っている。ミケラは一人一人の顔をじっくりと見つめた。たとえどれほど愛おしくても、家族の顔がいつか朧げな記憶になってしまうことが、ミケラには耐え難かった。身体中の液体が流れるように、涙はいつまでもとめどなく流れている。手を繋がれ、抱きしめられ、背中を押されながらようやく玄関口へ到着した頃、そこにはすでにミケラの人生に関わってきた全ての人々がいた。

 家族も、使用人も。屋敷に住まう人々が屋敷の前に出そろっていた。

 皆、霧の向こう側を見つめている。

 その霧は数日前から屋敷を取り囲むように立ち込め始めたものだった。霧の密度が濃く、薄い紫色を灯す中、霧の向こうではかすかな光が揺らめいていた。ミケラは息をのみ、震える体をそっと抱きしめた。揺らめく霧の様子は、夢で見た光景に似ている。


 ——今日、私は……。


 心の中で呟いたその瞬間。霧がゆっくりと動き出し、まるで生き物のように波打ちながら形を変えていく。船着場の白波のように、何か意思を持った巨大な生き物のように、霧は蠢き、その中心部から何かを吐き出そうとしている。


「あ!」


 誰かが、声を上げる。すると、散りばめられた色の破片を裂いて出て来るように、霧の波の中から美しく輝く船がゆっくりと姿を現したのだ。ミケラのドレスに負けず劣らず、美しい装飾が施された船だ。ミケラたちが住むカーディオン帝国中を探したってこんなに美しい船は見つからないだろう。その船の全容が現れた時、腰を抜かした者、わぁと歓声をあげる者、グィネヴィア女神の名前をつぶやく者と、反応はさまざまだった。それらの反応を気にかけることなく、船は屋敷の前に厳かに停泊した。船の底は、地面に着いてすらいない。


「あれが、妖精……?」


 また、誰かが声を上げる。船の甲板に目を移すと、優雅な衣装をまとった人たちが立っていた。彼らは華奢に見えたが長身で、遠目から見てもその人々の珠のように光り輝く美しさが目に届く。近づいた彼らの顔を見て、女性も男性も不意に水を掛けられたような、はっとした表情を浮かべた。


——耳が尖っている。


「妖精たちだ…」


 ローウェンの怯えた声がその場に響き渡った。

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2024年12月19日 23:00
2024年12月22日 23:00
2024年12月25日 23:00

妖精は夢を見ない 森野 狐 @foxkonkonkitune

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