呂雉の髪飾り

白里りこ

呂雉の髪飾り

「素敵な贈り物をありがとうございます」

 呂雉りょちは婚約者から渡されたこうがいを粛々と受け取った。髪を上げる際に必要な、女性には無くてはならない棒状の髪飾りだ。手にしたそれは決して高価とは言えない無骨な木製の品で、豪農の娘である呂雉の持ち物とは比ぶべくもない。それでも彼は、二人の仲が末永く続くようにと、丈夫な作りの物を選んでくれたのだ。

「大切にします」

 呂雉はつんと澄まして述べたが、少しばかり舞い上がっていることは否定できなかった。

「ああ、そうしてくれ」

 男は頭を掻いて照れ笑いをした。貧農の三男坊で侠客、呂雉の家柄とは全くと言って良いほど釣り合わないが、父がその人柄を気に入って是非にと用意してくれた縁談だった。父の人を見る目は確かだと、呂雉は信じて疑わなかった。粗末で地味なほうを纏った、どことなく愛嬌のあるこの男は、名を劉邦りゅうほうと言った。

 程なくして呂雉は劉邦と正式に結婚し、彼の家に入った。義父母に教わりながら、慣れない農作業と家事を積極的に覚えていく。劉邦の新妻として、新しい家族に貢献しようと、呂雉は張り切っていた。

 毎日、朝も早くから呂雉は、女衆と共同で家事を行い、皆で揃って朝食を摂る。献立は質素なもので、少ない時は粟飯だけ。多ければおかずが一品付く。飼っている鶏の玉子と、市場でまとめ買いしたにらを混ぜ合わせて炒めた料理は、呂雉も好んで食した。

 食事を終えたら、家と城壁を出て農地に向かい、畑仕事をする。草をむしり、土を耕し、水を汲み、汗水を流して日没まで働く。陽の光が肌をじりじりと灼く日も、大粒の雨が背中をしきりに叩く日も、変わらず作業を続ける。それでも生活は苦しく、呂雉は己の持ち物を片端から手放した。質の良い布地は売り払い、代わりに麻の着物を繕って直しながら使い回す。笄も、劉邦にもらった物以外は全て金に換えた。どうせ土にまみれて生きるのだから、上等な物など持っていても仕方がない。そんな物より、劉邦の隣に居ることの方が余程大切だ。

 そんな中、劉邦はというと、ひどく不真面目でだらしがなかった。はい県の亭長という、下級の役人に任命されてはいるのだが、仕事は怠けがちだ。給金はすぐに酒と賭博で浪費し、好き放題にふらふらと出歩き、徒党を組んで悪さをし、実家の農業はこれっぽっちも手伝わない。

 だが劉邦には、どこか憎めないところがあった。沛には彼を慕う者がわんさかいて、ちょっと町を歩けば誰かしらから声をかけられる。任侠者からも堅気の者からも大人気である。初対面で父に気に入られた度量は伊達ではなかった。何とも形容し難い、不思議な魅力を持ち合わせている。

 呂雉も態度には出さないが、劉邦には完全にほだされていた。

「こんなに良い嫁さんをもらって、俺は果報者だなあ」

 酒に酔ってふらりと家に帰ったかと思えば、劉邦はそんなことを言う。呂雉は当然のように「そうでしょうとも」と返すのだが、内心では浮かれていた。こうして夫と心を通わせられるなら、夫の嬉しそうな笑顔を見られるなら、家事も農作業も苦ではなかった。そもそもあらゆる苦労を覚悟の上で、それでも添い遂げると心に決めた相手だ。少しでも幸せな瞬間があるだけで、呂雉は充分だった。

 やがて呂雉は娘を授かった。あの劉邦の長子が生まれたということで、近隣の人々は祝いの席を設け、食卓に豚肉料理を用意した。豚は食糞の性質を利用して普段から公共のかわやで飼育しており、特別な日に限り皆で食べることにしているのだ。その後呂雉は息子も授かり、皆はまた大いに祝福した。

 劉邦も二人の子が可愛いようだった。これまであまり家に寄り付かなかったくせに、最近はよく子らの顔を見に来る。その時は必ず呂雉に労いの言葉をかけてくれるのだった。育児をやってくれる訳ではないのだが、それでも呂雉は満ち足りていた。


 その頃には始皇帝は逝去しており、秦王朝は混乱の只中にあった。あちこちで小規模な蜂起が多発しているとの噂が駆け巡り、沛の人々も秦への不満を公然と口にするようになっていた。ある日、始皇帝の陵墓を築くための人夫を咸陽かんようへ連れて行く仕事をしていた劉邦は、旅の途中で任務を放棄して人夫を逃がし、機に乗じて挙兵した。持ち前の人徳であれよあれよという間に仲間を集め、めきめきと頭角を表す。激戦の末に秦を滅ぼし、漢王の地位を得たかと思うと、今度は共に戦った項羽こううと争い始めた。勝った方が中華の覇権を手にするのだ。

 夫の成り上がりぶりに正直なところ戸惑っていた呂雉は、新たに手に入れた沛の屋敷で大人しく待機していたが、ある日項羽の軍勢が町に突入してきた。彼らは馬を駆り、矢を射掛け、火を放ち、逃げ惑う人々を斬りつけ、狼藉を働きながら、屋敷まで乗り込んでくる。二人の子らは辛うじて先に逃がしたものの、呂雉と義父母と付き人はあえなく人質に取られた。

 劉邦の出世で得た財産は全て取り上げられた。縄を打たれた呂雉は、震える手に素朴な笄一つのみを握り、赤褐色の囚人服を着て狭い牢に入った。義父母の世話を焼きながら、助けを待つ日々が始まった。

 一日に二度、看守が小汚い椀に食事を入れて運んでくる。大抵は水っぽい粟の粥だけで、ごく稀に葱の入った汁などが供された。いずれも味はひどいものだった。

 毎晩、冷たく固い石の床で丸まって眠る前に、呂雉は笄を握り締める。明日こそあの人は助けてくれるだろうかと、淡い期待を抱く。しかし劉邦は項羽と戦うことに執着し、呂雉の救出をいつまでも先延ばしにした。

 呂雉は想像の中で、何度も項羽の目を潰し、耳と鼻を削いだ。止めどなく血潮を垂れ流して悶絶する無様な姿を思い描いた。どんな責苦を与えても足りなかった。項羽のせいで呂雉は、こんな辛酸を嘗めているのだ。項羽のせいで劉邦は、いつまでも天下統一を成し遂げられないのだ。


 心身を蝕まれながら、一日一日を削り取るようにして暮らし、二年半の月日が過ぎ去った。そして遂にその日は来た。劉邦が項羽と和睦を結び、人質を解放させたのだ。

 釈放された呂雉たちは、馬車で劉邦の元に送り届けられることになった。一行を乗せた馬車が、項羽の根城である彭城ほうじょうを出て、西へと走り出す。逸る気持ちを抑えつつ、がたがたと揺られ続けた呂雉は、数日後に広武山という地に到着した。凹凸の多い地形で、まばらに樹木が生えている他は、土の色ばかりが広がる荒涼とした大地である。敵である楚軍の横を無事に通り抜けた馬車は、遂に漢軍の前に到着した。先頭に剣を佩いた劉邦が立っているのを見つけた呂雉は、馬車が停まるや否や一人で飛び降り、萎えた足をもつれさせながら走って彼の元に向かった。待ち侘びた再会の瞬間だ。どれ程この時を夢に見たか分からない。

「おお、お前か」

 劉邦が振り向いて呂雉を見る。

「旦那様!」

 呂雉はその広い胸に飛び込んで縋りついた。硬い鎧越しにきつく夫を抱き締める。しかし、劉邦からの抱擁は無かった。怪訝に思って見上げると、劉邦は困り顔であらぬ方向を向いていた。呂雉はこんなにも艱難辛苦を耐え抜いてきたのに、慰めの言葉の一つもない。代わって呂雉に話しかけたのは、ふっくらとした体つきの、見知らぬ若い女性であった。

「まあ、あなたが旦那様のもう一人の奥様?」

 呂雉は腕を解いた。戦いの最中、劉邦が新たに妻を娶ったという話は聞いていた。彼女を戦場に連れ回し、いつもそばに置いているということも。

「ええ。──あなたが夫の側室の、戚姫せききですか」

「そうよ」

 戚姫はなまめかしく笑った。彼女は鮮やかな色合いの襦裙じゅくんを纏っていて、肌も髪もつやつやで、薄く化粧をしていて、頭には瀟洒なかんざしを幾つも差している。対する呂雉は、簡素な旅装をしているだけで、体はがりがりに痩せていて、肌荒れも酷く、髪だって手入れできていないのを笄で簡素に結ってあるだけだ。

 惨めだ、と思った。この差はどういうことだろう。呂雉は何ら恥じるような生き方はしていないというのに、我慢に我慢を重ねてようやく日常を取り戻せると思ったのに、どういう訳か初っ端から圧倒的な敗北を見せつけられている。

 呂雉の目線を察した戚姫は、得意気な表情を浮かべた。

「綺麗でしょう? 着物も簪もみんな、旦那様がくださったのよ」

「そうですか」

 呂雉は真顔で言ったが、腹の底からはふつふつと怒りが湧いてきていた。それはみるみる内に広がって、全身を焼き苛む悔しさへと変貌していく。呂雉は安価で飾り気の無いこの笄一つだけをよすがに、長い囚人生活を送っていたのに、劉邦ときたら知らんぷりで、美しい娘を愛でていたという訳だ。

 その後呂雉は馬車を乗り換えて、子らの待つ漢中まで行くことになった。劉邦はというと、和睦したと思って油断している項羽たちを騙し討ちにするために、戚姫を伴って再び戦に出て行ってしまった。

 道中で呂雉は、劉邦の心離れをいよいよ確信することとなった。

 随従の者が教えてくれた。呂雉が捕らわれた時のあの戦で劉邦は、より速く逃げ延びようとして、子らを馬車から突き落としたそうだ。臣下が幼い二人を拾い上げたお陰で、何とか事なきを得たという。

 我が子の命すら捨てようとした劉邦が、妻の身の安全など念頭に置くはずがなかった。実の親から殺されかけて、あの子たちはどれほど傷ついたろう。人情を売りに仲間とつるんでいるくせに、妻子の命を軽んじるとは言語道断。あんな男を信じて待っていた自分が馬鹿みたいだ。

 いつの間にか劉邦は変わってしまった。呂雉たちへの興味を失ってしまった。認めたくないが、そういうことらしい。

 呂雉は唇をぎゅっと噛んで俯いた。涙が零れて頬を伝ったが、拭う気すら起こらない。胸中では悲嘆と憤怒の大嵐が、轟々と激しく渦を巻いている。

 もう、あの男を愛することはしない。絶対に。

 馬車の中で、呂雉は固く誓った。


 間もなく劉邦は項羽に打ち勝ち、漢の皇帝となった。呂雉は正妻として皇后の座についた。絹の着物に珠の簪、象牙の笄を身に付けて、呂雉は人々の祝賀を受けた。建造された広大な後宮の一室で、呂雉は例のみすぼらしい笄を木箱の中に放り込んだ。これを使う機会はこの先二度と訪れない。ようやくこの忌まわしい思い出ともおさらばだ。

 劉邦はその後も戦に明け暮れていた。各地の反乱を鎮めたり、外敵から国を守ったりする必要があったからだ。劉邦の遠征には当然のように戚姫が付き従い、呂雉は置いて行かれた。呂雉とて、そう易々と都の長安を空けられない。劉邦の臣下たちと共に留守を預かり、国内の法の整備や税の管理などをする必要があった。幸い、裕福な家に生まれた呂雉には、豊かな教養が備わっている。加えてこの都には、新しい国作りの助けになるようにと、秦の遺物や諸子百家の書物といった知恵が集められていた。

 今や呂雉は、刺繍の施された着物の袖を颯爽と翻して、臣下たちに指示を出し、竹簡に文字をしたため、官吏の報告に耳を傾けていた。生まれたての王朝を動かす仕事は、なかなかに悪くなかった。拠り所を失くして荒んでいた心が、再び潤い始める。

 思えば秦の時代には、民草は虐げられ、国土は荒れ放題だった。豪奢な宮殿やら廟やらを建てるための人夫として、多くの民が咸陽に召し出され、そのまま帰らなかった。残った民も高い税を払わされ、自らの口に入る穀物が足りずに飢え死にしていた。始皇帝とその周囲が贅沢をしている一方で、民はこの上なく苦しんでいたのだ。

 漢の時代はきっと豊かな物にしてやりたい。自らも貧しい暮らしをして来たからこそ、民には豊かな暮らしをしてもらいたい。そのためには、秦のやり方を模倣しつつも、悪い所は直すべきだ。特に、貴族や重臣が甘い蜜を吸い、民草が虐げられていた仕組みは宜しくない。民を縛る力を緩め、上の立場に立つ者ほど気を引き締めるよう、刑法を制定せねばならない。

 こうして国の制度を整えていくことは、民のために、ひいては子らのためになるはずだった。


 数年が経過した。

 劉邦への謀反を企んだ者は次々と粛清されていた。ある者は斬られ、ある者は首を落とされ、ある者は反乱の末に討たれた。血腥いことだが、呂雉は恐れず、むしろ謀反人を厳罰に処して見せしめとした。手足を切断して放置するなど、惨く苛烈な拷問にかけてから殺すことも少なくなかった。

 近頃の劉邦は、北方の騎馬民族である匈奴きょうどの扱いに悩んでいた。冒頓単于ぼくとつぜんう率いる彼らは盛んに勢力を拡大しており、漢の軍は大敗したばかりであった。和平の道を探るべく奔走していた劉邦を労わるため、呂雉たちはちょっとした宴を催した。

 まだ日の高い内から、羊や仔牛、鵝鳥がちょうといった肉や、米やきび、豆などを使った豪勢な料理が並べられる。酒もどんどん運び込まれ、琴や笛が華やかに音楽を添えている。劉邦は機嫌が良さそうだった。ふさふさの顎髭を揺らして、臣下たちと賑やかに歓談している。

 宴が本格的に始まると、劉邦は酌のために呂雉を呼んだ。珍しいこともあるものだ。嬉しくなどなかった。今の呂雉は劉邦の愛妻でも何でもない、皇帝に近しい立場にいるだけの一人の政治家なのだから。だいたいこういう時の劉邦には、何か呂雉の意に反する相談でもあるに違いないのだ。

 呂雉は劉邦の角杯かくはいに黙って酒を注いだ。媚びはしないが、邪険にもしない。正統な皇后として毅然とした態度を貫くことが己に利すると、呂雉は心得ていた。

「お前に一つ、話しておきたいことがあるんだが」

 やはり劉邦は切り出した。呂雉は身構えた。

「何でしょう」

「俺たちの娘を、冒頓単于に嫁がせることにした」

 予想よりも遥かに重大な話が持ちかけられた。呂雉はつい劉邦を引っ叩きたくなるのを、持ち前の冷静さで辛うじてこらえた。

「反対です」

「もう決まったことだ」

「直ちに取り消してください」

 娘は既にちょう王に降嫁していた。中華の北部に位置する趙国は、匈奴の脅威に絶えず晒されており、軍事的に重要度の高い土地である。よしみを結んでおくのは良いことだと、劉邦が縁談を進めたのだ。それなのにわざわざ離婚させて、夷狄いてきにやってしまおうというのか。

「それではあの子があんまり可哀想です」

「しかし、もう兵を死なせる訳にはいかん。皆の命を守るのも、公主としての務めだろう」

「なりません。あなたに情というものは無いのですか」

「そりゃあ、えーと」

 劉邦がたじたじとなる。更に言い重ねようとした呂雉を、場違いなほど呑気な声が制した。

「陛下にはもちろん情がおありよ。だって私にはとっても優しいもの。ねえ」

 呂雉は声の主である戚姫を睨んだ。

「横から口を挟まないでもらえますか」

「口を挟んでいるのはあなたよ。陛下にとって、あなたはいないも同然なの。陛下のお決めになったことを、あなた如きが邪魔立てしちゃいけないの」

「これは私の娘に関することです」

「だから何? あなたの意見なんて何の価値も無いわ。あなたの居場所だってもうじきなくなる。陛下はあなたの息子を廃嫡して、私の子を後継になさるから」

 戚姫が誇らし気に胸を張る。劉邦が「おい、それはまだ言うなって……」と狼狽えた様子で口走る。臣下や他の側室が驚いたり気まずそうにしたりと様々な反応を見せる。

 ああ、と呂雉の中で焦燥感と危機感が肥大する。それだけは許す訳にはいかない。呂雉ならば幾ら邪険に扱われようが構わないが、二人の子らを無碍にされることだけはあってはならない。馬車から突き落とされるような経験を、二度とあの子たちにさせてはならない。

 呂雉は深呼吸すると、捻りを利かせて右腕を振りかぶり、劉邦の横っ面に渾身の平手打ちを食らわせた。不意を突かれた劉邦が仰向けによろけ、倒れる。後ろにあった屏風も倒れる。酒がこぼれて床に飛び散る。一同が騒然となる。

「大変失礼しました」

 呂雉は悠々と己の膳の前に正座し直した。臣下の助けを借りて起き上がろうとする劉邦を、冷然と見据える。

「私は娘の離婚も息子の廃嫡も許可できません。必ず止めてご覧に入れます」

 劉邦はばつが悪そうに口の中でもごもごと何か言っていた。戚姫が呆気に取られた様子で呂雉を見ていた。


 いざ事を構えるとなると、宮殿内に呂雉の味方は多かった。呂雉は普段から政務に深く携わって過ごしているのだから、これは順当な流れだった。

 多くの官吏や知識人が、こぞって劉邦に諫言した。

「陛下。匈奴との和平は確かに重要ですが、何も娘御を結婚させずとも良いでしょう」

 劉邦の古くからの馴染みである蕭何しょうかが言い張る。彼はその功績により、廷臣の最高職たる相国しょうこくに任じられていた。法律や国の仕組みに関する知識が豊富で、長安でも辣腕を発揮している。呂雉と協力して仕事をすることも多く、今回の呂雉の頼みを快く引き受けてくれたのだった。

「しかしだな」

「お子様をわざわざ離縁させるとは、尋常ではありません。そのような無情な行いをなさっては、陛下のお人柄が疑われかねませんよ」

「それはそうだが、このままでは匈奴と交渉ができん」

 やれやれ、と蕭何は嘆息した。

「連中との和平の方法は他にもありましょう。問題はそこではありません。皇后様は日夜泣いておられます。陛下も一人の親として、娘御の幸せを願ってやれないのですか」

 ぬぬ、と劉邦は唸った。横で様子を見ていた呂雉は、手応えを感じていた。案の定、臣下に人格の面から注意されるのは、劉邦には手痛いらしい。蕭何を巻き込んで正解だった。

「陛下。嫡子を簡単にお変えになるのは、波乱の元です。いたずらに道理に反することをなさいますな」

 その知略で度々劉邦を救ってきた賢臣である張良ちょうりょうが主張する。劉邦が項羽を騙し討ちにして勝利できたのも、元はと言えば彼の発案によるものだったそうだ。体が弱く前線には出られない分、後方支援に尽力しており、呂雉との接点も多かった。今回は呂雉の願いを聞いてわざわざ所領から長安に戻ってきてくれたのだった。

「お前までそう言うか」

「はい。秦の王朝が、後継を明らかにしなかったせいで荒れたことをお忘れですか。ここは漢の初代皇帝として、揺るがぬ姿勢を見せて頂きたいものです」

「しかしあいつは軟弱だ。皇帝には向かん」

 全く、と張良は頭を横に振った。

「もう戦乱の時代は終わりです。これからは天下泰平の時代。お優しい太子様こそ、次の治世を築くのに相応しいのです。乱暴な者は平和な世を作ることができません。みすみす反乱を許すことになるでしょう」

 むむ、と劉邦は言葉に詰まった。隣で控えていた呂雉は、してやったりと小さく頷いた。やはり、先を見通せる臣下の言葉は、劉邦にはこたえるようだ。張良を呼んだのは正しかった。

 他にもあの手この手で大勢の者が劉邦をやり込めた。とうとう劉邦は、周りの考えを尊重せざるを得なくなった。

 娘の離婚話は取りやめになり、息子は後継者として認められた。呂雉は劉邦に打ち勝ったのだ。このやり方は有効だと、呂雉は学んだ。こうして政略を用いれば、呂雉はこの未央宮びおうきゅうを渡り歩いて行ける。

 戚姫は、ぷりぷり怒っていた。呂雉はその様子を観察しながら、油断してはならないと肝に銘じた。あの女はまた皇后の座を狙うかも知れない。次なる敵は、戚姫とその息子の劉如意にょいである。

 結果的に、彼らを貶めるのはそう難しいことではなかった。

 劉邦が崩御したからだ。


 漢王朝の偉大なる始祖は、おくりなを高祖とし、丁重に祀られ弔われた。棺に入れられ、数多の兵馬俑と共に埋葬される。沢山の人間が彼の死を惜しんだ。悲しみに暮れて静かに項垂れる者もいれば、身も世もなく啼泣する者もいた。

 呂雉も普段の高貴な黄色の襦裙から、真っ白な喪服に着替えて、皇帝の死を悼んだ。同時に、途轍もない重圧を感じてもいた。次に取るべき行動は何かと、忙しなく思考を巡らせる。

 劉邦を言い包めるだけで思い通りに事が進んでいた時代は終わった。若き次代皇帝の劉盈りゅうえいが、立派に国を導けるようになるまで、呂雉は一人で彼を支えてやらねばならない。これまで以上に味方を増やし、敵を排除する必要があった。

 敵を、殺す必要が。

 今や戚姫と劉如意は、後ろ盾を殆ど喪った。呂雉が彼らを亡き者にしても、文句を言える輩などこの王宮には居まい。

 ──かつて劉邦は、秦を滅ぼし、項羽を討った。

 孟子曰く、男には外に、女には内に、それぞれ成すべき役割があるという。大事を成すのに、男は国中を飛び回って戦うことで外敵を排す。ならば女は宮廷にて内なる敵を排すのが筋だ。劉邦が政敵を尽く殺して皇帝の座を手に入れたのと同じ様に、呂雉は政敵を徹底的に殺して我が子を皇帝に据え置くのだ。今までと何ら変わらない。これが覇道という物だ。

 早速、呂雉は戚姫を捕らえた。罪状は幾らでも作れた。元より呂雉は、高位の者ほど取り締まれるようにと、法律を定めている。劉邦の戦にくっついて行ってばかりで、政略と呼べるものを何も学んでいない戚姫を陥れるのは、容易かった。

 呂雉は戚姫を謀反人と呼び、投獄して囚人服を着せた。髪を切らせて禿頭にした。食事は薄い粟の粥しか与えなかった。そうして一日中穀物を搗かせた。

 戚姫が痩せ衰えた段階で、呂雉は更なる制裁を加えることにした。きちんと身支度をした上で、刑吏を伴って牢を訪ねる。呂雉を見るや否や、戚姫が噛み付いてきた。

「あなた、私をこんな目に遭わせておいて、ただで済むと思ってるの」

「あら、思ったより元気そうですね。安心しました」

 呂雉に指示を出された刑吏たちが動き出す。特別に作らせた枷で戚姫の体を大の字に括り付け、即座に両耳を切り落とした。

 耳をつんざく絶叫が響き渡る。枷から逃れようと身悶えする戚姫を、呂雉は顔を少し顰めて見やる。

「よくも……よくもこんな、残酷なことができるわね! ……人でなし!」

 流石、戦場で何万もの兵が死ぬのを見ていた女は、言うことが違う。

「これが私の政のやり方です。敵を殺し味方を守るのは、政の基本ですからね」

 凛然とした表情を些かも崩さず言い放つ。しかし、戚姫は尚も食ってかかる。

「嘘ばっかり」

 荒い息を吐きながら、戚姫は確かにそう言った。

「政だけが目的なら、さっさと私を……殺せばいいでしょう。わざわざ、生かしたまま、こんな拷問にかけるのは……本当は、あなたが、あの方に、愛されたかったからよ。違う?」

 呂雉はぴくりと眉を動かした。

 愛? ──まさか。そんな物、とうの昔に諦めた。見当違いも甚だしい。

 第一、拷問ならば他の罪人にだってやってきたことだ。戚姫だけを特別扱いするなどという、そんな劉邦のような真似を、よりにもよって呂雉がするなど有り得ない。

 呂雉の胸中も知らずに、戚姫は好き勝手に言い募る。

「あなたは……あの方の寵愛を奪った私のことが……憎くて仕方ないだけでしょう。復讐して、私怨を晴らしたいだけなのに……政だの何だのと言い訳を並べて、みっともないこと」

 多量の血と滂沱の涙が、戚姫の顎から滴る。

「残念だったわね。こんなことをしても、あなたが欲しかった物は、手に、入らないんだから」

「……。何を言っているのか、分かりかねますね」

 呂雉が再び指示を出す。今度は鼻を削ぎ、目を潰した。再びの喚き声が収まってきた辺りで、呂雉は一歩戚姫に近寄り、よく言い含めた。

「どう見ても、みっともないのはあなたです。あなたが私に楯突くのが悪いんですよ。現皇帝陛下の将来を邪魔立てする者は、早々に消し去らなくては」

 そうだ。単なる私怨と混同されては困る。これも全て政治のため、そして我が子のため。

「宮廷内の者を厳しく取り締まることは、謀反の防止にも役立ちます。この国でことわりに反すればどうなるか、私に歯向かえばどうなるのかを、皆に知らしめるのです」

 安定した治世を築くために、これは必要な手順だ。劉盈を追い落とそうとした者は、ただ殺すだけでは済まさない。凄惨な死に方をしてもらわなければ示しがつかない。それだけのこと。

 顔の半分以上が赤に染まり、元の顔立ちが分からなくなっている戚姫は、しかし、それでも何か喋ろうとした。

「あなたは、私が、羨ましかった、だけよ!」

 呂雉は黙って、刑吏に続きを促した。戚姫の両手両足の先が切断された。激しく血飛沫が上がり、暗がりの床に血溜まりができる。ようやく枷から自由になった戚姫は、奇声を上げながら、虫けらのように痙攣していた。極め付けに喉を焼いて声を封じる毒薬を飲ませた呂雉は、戚姫を牢の厠に落とすよう命じた。

 自身の糞尿に塗れた、人の姿に似た生き物を、侮蔑を込めて見下ろす。

「何と醜い。あなたのことはこれから人豚ひとぶたと呼ばせましょう」

「……」

「さようなら。後程あなたの子の訃報が届くはずです」

「……」

 それは最早どうする事もできずに、夥しい量の血を流しながら、声なき慟哭で身を震わせていた。呂雉はしばらくその様子を眺めていたが、やがて刑吏に牢の扉を閉めさせ、その場を去った。


 後宮に戻った呂雉は、寝台に腰掛けて一息ついた。やっと一仕事終えた。邪魔者が一人消えた。後は劉如意の暗殺の報告を待つのみだ。これで我が子の将来は安泰となる。この国の未来も約束される。

 だが、胸の中のもやは晴れない。それは次第に暗く重く淀む泥のようになって、呂雉の気分を侵蝕していく。

「寵愛、ですって」

 改めて呟いてみて、あまりの屈辱に顔を歪めた。不愉快極まりない。これではまるで呂雉が、あの男を慕っていたかのようではないか。そんなことは絶対にしないと誓ったのに。

「忌々しい……」

 寝台の横に目をやる。きちんと整頓された棚には、煌びやかな置物や装身具が、丁寧に磨かれた状態で並んでいる。呂雉はその中から木箱を探して、あのちゃちな笄を取り出した。こんな古びた物を後生大事に保管している自分が、無性に許せなくなってきた。

 両手に持って、一思いにへし折ろうとする。だが笄は頑丈なままで、たわみすらしない。ならば丸ごと火鉢に焚べてしまおうと、青銅器の前にしゃがみ込む。揺らめく炭火の中へと落とせばすぐに終わるはずなのに、一向に手を伸ばせない。

 伸ばせない。

 白い衣を纏った呂雉は、笄を握り込み、うずくまったまま、硬直したように動かなかった。



 おわり

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