鄙の消光、民主主義の作り方
鬼伯 (kihaku)
第1話 民主主義の作り方
01 非政治的民主主義
スズランスイセンが咲いた。スノーフレーク(snow flake)ともいうらしい。雪片(せっぺん)、雪のひとひら。たしかに、白い小さな花はそう見える。残雪にめぐりあう心地よさがある。スイセンもスズランスイセンもヒガンバナ科。地中海沿岸から或る物は風に吹かれて、或る物は人間の衣服にもぐりこんで、或る物は船荷といっしょに、ヤッコラサと渡来したのだろう。
ヤッコラサといえば民主主義もそうだ。ロック(John Locke)が1689年に出した『市民政府論』において「本来、万人が自由平等独立であるから、何人も、自己の同意なしにこの状態を離れて他人の政治的権力に服従させられることはない」(岩波文庫p.100)と述べてから、1776年のアメリカ合衆国独立宣言、1789年におきたフランス革命などをへて日本にもたらされた。だが、組み立てられる前の部品のまま沿岸に放っておかれた。
私のいう沿岸に放っておかれた部品についてよく教えてくれるのは、20世紀の政治哲学者・イギリスのリンゼイ(A.D.Lindsay)著『民主主義の本質』(永岡薫訳、未来社)における「訳者あとがき」の次の一節だ。
「リンゼイにとっては、民主主義は政治の理論であるよりもまえに、まず社会の理論でなければならないのでありました。そして、政治的民主主義は基礎的な社会の民主主義、すなわち非政治的民主主義を基盤としてのみ成熟し、確立されると考えているのです。わたくしたちにとって、このことは平凡なこと柄のようで、じつはきわめて重要な意味をもっていると考えられます。(中略)ほんらい社会生活のための手段でしかありえない政治が容易に第一義化されてしまって、民主主義がそれなくしては成立しえない社会そのものの近代に独自な意味が見失われてしまいがちだからであります」
非政治的民主主義というのはむずかしい表現だが、家庭、地域、学校、会社、このような日常生活において家父長制のような専制が生きのこっていないかということである。自分たちの生活のなかで個がないがしろにされているのに目をつむって、議会議員に対してのみデモクラシーと叫んでもはじまらない。私のいう、放っておかれた部品とは、生活のなかの民主主義のことだ。
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02 学歴ウンヌン
赤白のチューリップが咲いた。絵本にかかれたような花だ。純真無垢の両手をひろげたように咲いた。と、ここまで書いて考える。赤白のチューリップというのは、一つの花に赤白がいりまじっているのか、それとも……。私がいいたいのは、赤いチューリップが咲いた、白いチューリップが咲いた、ということ。
ネットニュースの目次一覧をながめる。都知事の学歴詐称疑惑の見出しが目に入る。又候(またぞろ)の感がぬぐえない。それにしても日本人は、たぶん日本人はといってよいと思う、学歴ウンヌンが好きだ。学歴を詐称して、それを自分の利益と不当にむすびつけたという事実があれば罪は罪なんだろうけれど、ふつうの人は表面上、ヘェートーダイすごいなーというものの、内心はそれほど感心しちゃーいない。都知事がカイロ大学でもホッカイロ大学でもかまわない。中卒でも何でもいい。何ができるか、何をするか、日本の首都をおさめる親分としてどんなクリエィティブティーと慈しみを発揮してくれるか、それだけだ。
20代30代の青年がどこそこの大学卒を鼻にかけて官庁や大企業に就職しようというのなら分かる。しかし、高齢者、それも後期高齢者になった者に学歴詐称といってみたところで仕方あるまい。学歴詐称が法律上どうなのか知らないが、そんなことでしか人を批判できない輩のほうが罪ぶかい。だいいち品てェものがねえ。
まったく、「18歳の瞬間風速」(これは筆者の造語でけっこう気に入っている)で人生を語ろうなんていうのは人生の騙(かた)りだ。メディアも18歳の瞬間風速を後押しするから質(たち)がわるい。むかし、ライシャワー博士が、教育テレビだったかでいってたっけ、アメリカでもハーバード大学卒業を自慢する人がいなくはないが、日本の東大信仰はひどすぎる、というようなことを。グローバルな時代とはいえ、せせこましい島国根性はかんたんに抜けないから、18歳の瞬間風速だとか名門の生まれだとか何かに寄りかかる癖も抜けないのだろう。
茨木のり子があきれかえっている、「もはや/いかなる権威にも倚(よ)りかかりたくはない/ながく生きて/心底学んだのはそれぐらい/じぶんの耳目/じぶんの二本足のみで立っていて/なに不都合のことやある/倚りかかるとすれば/それは/椅子の背もたれだけ」(『倚りかからず』より)
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03 地域の行事で
リラが咲いた。リラの花がどうしたとかいう歌謡曲がむかしあった。リラはフランス語。英語ならライラック。モクセイ科だという。花に顔をちかづけると佳いかおりがする。ずっとむかし、という云い方は激しく曖昧だが、リラの根っこにカブトムシが20匹も30匹も生えたことがあった。落ち葉が根っこあたりに積もってあったかなベッドとなったのだろう。あまりにいるので子どものいる知人をまねいて持っていってもらった。
いまのNHK朝ドラは女性が法曹界をめざす話だ。時宜を得た企画だと思う。国会でも女性議員が少ない、県議会市町村議会でも少ない、企業幹部でも少ない。少ないから増やせという号令が海外からも届く。国内でも増やせ増やせの声があがるが増える気配がない。
女性が意志決定部門に少ないとなぜ女性を増やさないといけないのか。女性にしか分からない要望をおもてに載せるためだという。女性にしか分からない要望、差別されている人にしか分からない要望、外国人にしか分からない要望、それを聴く耳、聞く気持ちがない男性に問題の根っこはあるのではないか。そこが変われば女でも男でもよいわけだ。
それがサー変わらねえじゃねえか。――だね、変わらない。なぜ変わらないのだ。変わる気持ち、それが一つもないからだ。だから法曹界に女性を送れ、議会に女性を送れというんだネ。そうだ、そうすりゃー否も応もなく変わる。意志決定機関に女性が多くなればネ、でもそれが望める? 望めないけど圧力にはなる。そういうことだよネ、でも圧力としても脆弱だ。
法曹界や議会などに女性が席をえるのはシンボリックではあるけれど、そういうところに席を得られる女性はやっぱり特別な人だ。私をふくめた草木は思う。シンボリックな席とともに、日々の暮らしの中のこと、地域の祭事、スポーツ行事、懇親会などなどにおいて、女性の位置をマイノリティーから普通にすることだ、と。地域の行事で、おんなはお勝手仕事、この意識を変えるだけで、国会議員を増やすのと同じ効果があるはずだ。なぜならその人たち、その草木である私たちが、選挙するのである。
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04 CMのおかしさ
終日、雨だ。ブルーベリーの花が雨にきれいだ。かがやいている。たった4本のブルーベリーだが毎とし鈴なりの至福をつれてくる。ベリー(berry)はラズベリー、ストロベリー、ブルーベリーなど核がなく果肉がやわらかい小果実のことと英和辞典はおしえる。植物用語としてberryは漿果(しょうか;皮部分が多肉で汁液いっぱいの果実。液果)と訳されトマト・キュウリなどが含まれるが、分類学的にはまったく無縁な別植物でありながら食用になる小さな球形の多肉果をつけることで「…ベリー」と呼ばれる植物がある。バラ科のストロベリー・ブラックベリー・ラズベリー、ユキノシタ科のグースベリー、ツツジ科のグランベリー・ブルーベリーなどがそれだという。
テレビでインスタント味噌汁のCMをやっている。和食料理の名人という人が顔を見せて、うちの店の物と遜色ありませんと推奨する。有名な旅館の女将が出てきて、○○屋の物とおなじですと称讃する。私は思う。ハハーンあの有名な料亭はこのインスタント味噌汁を出しているのか。ハハーンあの有名旅館○○屋もこのインスタントか。名人や女将が、遜色ない、おなじです、というくらいだから、たまに行った客には判別つかないだろう。
コマーシャルだからオーバーになるのは已(や)むを得ない。それをいちいち気に病んでいたら世の中にうるおいがなくなる。そういえば私も単身赴任のとき、このインスタント○○に厄介になった。これなら充分と思ったものだ、当初は……。だがしだいに飽きる。人間はまいにちおなじ物を作ろうと思っても、どこか違ってくる。だが機械はおなじく作ることができる。すると私程度の舌でも飽きを知る。
ミスのないものはつまらない。まちがわない物は美味くない。人間の職人は、まいにち同じ物を作っているつもりだろうが、じつは同じではない物をつくっているのではないか。だから飽きさせないのではないか。同じ物なんか作れないのだ。いってみれば、まいにちまいにち小さなミスをしているがゆえに尊い味になる。と、そんなことを考える。
インスタントは便利だ。ときどき厄介になる。まいにち自分でつくると肩肘をはらずに世話になる。そんな塩梅がいいのではないか。
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05 選挙権返納
ヒメウツギが咲いた。白い花だ。この白は白の中の白という白さだ。姫卯木、アジサイ科、ウツギ属の落葉低木。日本の固有種だそうだ。辞典でウツギをひくとユキノシタ科とあり、ハコネウツギとひくとスイカズラ科とある。それぞれファミリー(科)がちがうのか、フーン。暦の月名(つきめい)の卯月は卯の花の咲く月からきているという人もあり。苗を植える月、ナエウエヅキからという人もあり。空木(うつぎ)と書くのは幹が中空であることから。これは納得。剪定しているから分かる。
どこだかの知事が、0(れい)歳児にも選挙権を与えるべきといって波紋を呼んでいるという記事をネットで見た。本論に入る前に「波紋を呼んでいる」について。この手の記事がよく見られるが、どこでどう波紋を呼んでいるのか説明されないことが多い。憶測報道というものではないか。あるいは記者の願望報道、煽り報道の類とも思われる。これに私たち読者はかんたんにだまされる。新聞に書いてあったからとかテレビでいっていたからとかで、自分で考えようとしない。
0歳児に選挙権を与えるべき――さすがに無理と思われても議論は排除しないほうがいい。0歳児にも人格はあるのだから選挙権を所有できるのは当然だという意見もあろう。しかし、0歳児は政治的判断ができるのか? 一定の年齢まで保護者が代理するといっても、子どもと保護者とがおなじ意見であるとしてよいのか、そんな疑問もわく。0歳児の選挙権所有はかなりハードルが高い。
私は選挙権について、ずっと前から「0歳児」とは反対の方向から考えている。現在、選挙権を持てるのは18歳という線引きがある。人生前期に線引きするのだから人生後期の70歳か75歳で選挙権を失効するという線引きをしたらどうかというものだ。青少年の判断力にはかなわない70歳や75歳はいっぱいいる。高齢者は経験値で何とかごまかして表現ができるから青年を凌駕しているように見えるが、見えるだけだ。将来はいまの青年の時代である。高齢者は、せめて後期高齢者は選挙権を返納、あるいは青年に譲ることのできる方式を法的に整備してほしい。
どの世界でもおなじだが、年寄りがいばっていて、青年がちぢこまっているような組織は先が知れている。青年も甘えてないで自分を奮い立たせてほしい。
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06 堀田善衛
ツツジが咲いていた。深紅の、そりゃーきれいな色だ。深紅がこんなにきれいだとは知らなかった。車と塀とのあいだにちょこんとあったものだから、咲いているのに気がつかなかった。わるいわるい。あれ? ツツジではなくサツキか。どっち? 気にも止めなかった。調べるとみると雄しべの数に違いがあるらしい。サツキは5本、ツツジは6本以上だという。うちのはツツジだ。
書棚に『定家明月記私抄』を見つけた。明月記があるのは分かっていたが――自分で買ったのだから――それ以上の意識はなかった。手にすると著者の名に堀田善衛(よしえ)とある。堀田善衛が明月記か、自分の本なのにまったく結びつかなかった。シダラない。だが著者の名には神経が昂ぶった。堀田善衛の『スペイン断章』では軀がふるえた。それをずっと忘れない。なぜ、どのような点でふるえたのか、詳細までは覚えていないが、その筆致の卓抜さにふるえたのだと思う。読書で真に軀がふるえたのは、これともう一つの2冊くらいだ。
明月記私抄をひらく。見返しに、1988年5月と買った日付があり、自身の名もならぶ。万年筆のゆるがぬ文字だ。こういうきちんとした書き方は私にしては格別のことである。1988年昭和53年、竹下登内閣の時代。自民党が税率3㌫の消費税を導入するという税制抜本改革大綱を決定、瀬戸大橋(海峡部9・4㎞)が開通、東京地検がリクルート本社を一斉捜索などがあった。翌年1月に改元があり平成になった。
本文(ほんもん)をパラパラとめくる。朱の傍線が所々にあるから一度は読みとおしたのだろう。何一つ記憶にない。しかしこれはいいことだ。堀田善衛の明月記をもういちど真っ新(まっさら)から読めるのだ。昂奮がじわり。もう夜もふけゆく。目次をめくり、中扉をめくり、「序の記」だけ覗く。
――世上乱逆追討耳ニ満ツト雖(イエド)モ、之ヲ注セズ。紅旗征戎(コウキセイジュウ)吾ガ事ニ非ズ。
ここに目がとまる。「という一文があることを知り、愕然とした」と著者のことばが刻まれている、石に刻するように。これではまた堀田善衛に軀をふるわさせられ、私はまた愕然とする。ツンドクがこんなにいいものだとは知らなかった、と。
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07 読み方年月日
野バラが咲いた。白い花だ。小ぶりな花だ。かおりがいい。野バラは野イバラ(野茨)ともいうようだ。茨ときくとトゲトゲしさが思われるが普通のあの観賞用のバラのようなトゲはない。ヒゲのようなトゲがあるがさわっても痛くない。野イバラはいい。質素でまさに野に似合う。秋には赤い実がなる。ローズヒップ(rose hip)だ。ヒップとは野バラの赤く熟した実のこと。飲み物にして愉しめる。
インターネットを見る。調べ事・確認作業をしていて思う。読みにくい字や普通とは読み方が異なる字に、読み方(ふりがな)がない記事が気になる。というより役に立たない。自分たちは普通に知っているからふりがなの必要など気にも止めないのだろう。そういう心が透けて見えるので腹立たしい。
たとえば、永福寺、これ何と読むだろう。エイフクジじゃないの?であろう。鎌倉の永福寺はヨウフクジと詠む。仏教関係は呉音で読むのでヨウと読む。それが、個人のホープページならともかく、鎌倉市の公的ホームページでもふりがながない。失礼ながら、どういう感覚の広報活動をしているのであろうや、といいたくなる。
奈良吉野の金峯山寺のホームページを見る。金峯山、これは何と読むだろう。キンプセンと読む。キンポウサンではない。山は呉音でセン。峯は峰とおなじだからホウ、訛ってポウだが、もっと訛ってプ。こんなこと、仏教関係者かそれに詳しい人じゃないいかぎり読めない。読めない、それが普通、という、普通の人の感覚が分からないからふりがなの必要性が分からない。かろうじて、「金峯山寺について」という見出しの下に(About Kinpusenji Temple)とあるので、ああキンプセンジかと分かる次第。
公的ホームページで、行事案内などに年月日が付いていないのも、やはり広報感覚をうたがう。年が知りたい。月日が付いていても、今年なのか去年だったのか、いつだったのか不明なのは資料になりえない。有名な寺院だからみんな読み方くらい知っているだろう、知っていて当然だ。有名な行事だからいつのことかくらい周知だろう、知らない方がおかしい。そういう姿勢のように思われる。小さなことかも知れないが、公的機関がこういう無神経さを日々やしなっているのでは、たまらない。うっかりしていたというならよいが……
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08 ごめんなさい語
ムラサキツユクサが咲いた。手入れ不十分な花壇のなかで悠然と自己主張をしている。透明感のある紫だ。ムラサキツユクサは英名スパイダーワート(spiderwort)。スパイダーワートは蜘蛛の草。長いおしべが蜘蛛の脚のように見えるかららしい。ツユクサ(露草)は朝に花ひらき午後――朝露がなくなる頃――には閉じてしまうのでその名がついたという。要するに一日花だ。身近ではアサガオ、高原ではニッコウキスゲもいちにちばなだ。
暇つぶしにテレビをよく観る。適当なのがないからいつも画面をあっちこっちに変転させる。どのチャンネルを観ても、女性のアナウンサーやキャスターの髪の毛が目にかかっているのが気になる。歌川広重の「大はしあたけの夕立」(名所江戸百景)の雨のように、額から上まぶたに筋状に髪の毛がたれている。ちなみに、「あたけ」というのは大橋の向こう岸のあたりをそういったらしい。あたけ=安宅船の船蔵があったそうだ。
あたけの筋雨のごとく目にかかる髪の毛はたぶん御洒落としてやっていることだろうからトヤコウいえない。それを承知で敢えていうのだが、アナウンサーなど公的ニュースにかかわる人の目の動き・口もとの様相は、受けとる側にとって小さくない情報だ。目は口ほどに物をいうだから、仕事場にいるときはそんなことも気にしてくれるとありがたいが、これはもう何とかハラスメントになるのだろうか。
メディア人の「ごめんなさい」というお気楽なことばも気になる。「御免」の歴史的意味はともかく、こんにちにおける「ごめんなさい」は幼児語であり仲間語であり家庭語であり、タメ語に近い。アナウンサーがゲストに対して「ごめんなさい」、店に行けばスタッフが客に対して「ごめんなさい」、議員が選挙民に対して「ごめんなさい」、幼稚園にまよいこんだかと一瞬クラッとする。
企業や官庁が失敗したときの謝罪会見を想像してみよう。社長が「ごめんなさい」、長官が「ごめんなさい」と発したらどうか。許せるだろうか。やっぱり大人社会では「すみません」ではないか。「済みません」は自分がやるべきことが済んでいないために迷惑をかけましたの意。元は自分のこころが澄んでいない「澄みません」だったとの説もある。謝り方が美しいと世の中が美しくなる。
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09 死ぬのは庶民
アレッと思ったらミカンの花が咲きおわっていた。「疾(と)っくに咲いていたじゃない、気がつかなかった? 匂いもあったし」と家族にいわれた。体調の関係で何日か安静にしているようにとドクターからいわれていたので、庭に出ることもあったが気が散漫だったのだろう。わずかに咲き残っている白い花の香りを利(き)いた。この香りが好きだ。♪ミカンの花が咲いている、という歌が頭に胸にながれる。この歌がまた好きで。
昨日も今日もあっちでこっちで戦争だ。明日も同じだろう。あさっても変わらないだろう。千年も2千年もそうやってきた。そうやってきた原因の一つは領土拡張論と聖地あらそい。おのれの持ち分を何とか理由をつけて拡げたい、誰もが持っている欲だ。欲は君主も持てば庶民も持つ。庶民の庭木が道や隣地に食みでるくらいはかわいいものだが、一国の親分があそこがほしいという欲を張ると悲惨なことがおこる。戦争だ。どっちにしたって死ぬのは庶民だ。領土拡張論が正義だろうが不義だろうが、死ぬのは庶民だ。
もうひとつ、長い戦争に聖地あらそいがある。宗教の聖地あらそいだ。教祖というのは罪深い、と思う。いや、教祖が罪深いのではなく、教祖をあがめたてる人たちの熱狂の罪深さか。教祖がどこそこで迫害に遭って死んだなどというのは教祖のせいではない。その崇高さ(といってよいのか分からないが)を尊ぶ人々がそこを聖地とし、戦争をしてでも守りぬく、奪いかえす、という行動に出る。なんだか健康のためなら死んでもいいというようなブラックジョークに似ている。
人が何を信奉するしないは自由だ。だが、教祖は言いのこしてほしかった。場所や物がたっといのではない、相手の自由をみとめることがたっといのだ、目の前にいる人の生存権をみとめることがたっといのだ、と。鄙びとの筆者がいうまでもなく、教祖という人は、そう言いのこしたり書きのこしたり、行動であらわしたりしてきたのだろう、きっと。だけど宗教を利用する人たちはそういうところは見ない。場所や物を押しいただいて尊びの対象とする。誰にも分かりやすいからだ。一丸となれるからだ。分かりやすいのはいいが、余りに分かりやすいのは危険だ。政治はその分かりやすさを利用する。
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10 謂わばミーハー
草むしりの折にふっと庭の隅に目をやると、ホタルブクロが咲いていた。また気がつかなかった。わりィーわりィー。蛍袋、これが咲(わら)うと夏がくると思っている。これが咲ったら近くの小川にホタルを観に行かなくちゃと思うけれど、その時刻になると面倒になる。ホタルホタルと騒ぐ人もいるが、ホタルなんかこの時期になると出てくるのはふつうだ。ふつうじゃない異常な世界に暮らす人たちが騒ぐ。騒ぐなら自分の生活のありように騒ぐほうが先ではなかろうか。というのは言い過ぎ、生意気だ。
某日の新聞に、「小事はこれを他にはかり、大事はこれをみずから決すというのが、先生の信条だった。」という鶴見俊輔のことばが引かれていた。先生というのは「上司だった仏文学者の桑原武夫」とも誌されている。
私は訳もなく、鶴見俊輔や桑原武夫の名を見ると、うれしい。特に2人の名を同時に見るなど稀で、うれしさは倍増する。「訳もなく」に訳をつけると、鶴見氏のほうは、私の人生の師が尊敬していたからだ。よく話の中に出てきた。私は鶴見氏については書物等を通してしか知らない。謂わばミーハーだ。私など、尊敬ウンヌンと思うだけで失礼な気がして、ただ眺めていただけだった。
桑原武夫のほうは著書『文章作法』に出逢っていよいよ頭をさげるようになった。登山家としての名は知っていた。第二芸術論を喝破したのでも知っていた。その人が文章作法というヘナチョコ文学者のような本を書くとは思わなかったが、考えてみれば桑原氏はフランス文学者だった。
この本とどのように出逢ったのか覚えていない。2冊持っているはずだということは頭の中にあった。書棚を懐中電灯でさぐると1冊あった。「90年購入。この本は2冊目。最初の1冊は余りにも良いので他人にあげた」と誌してある。『文章作法』はちょっと変わった文章論で、という言い方をするとき、私の説明能力の無さが露呈するのだが、私には効き目があった。谷崎や三島の文章論よりも合点がいった。「文章を書くということはひとりごと、つぶやき、あるいは叫びではない。それは独語ではなく、相手のある言葉、すなわち対話です」とあるのだが、「鄙の消光」はまったく独語。
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(おわり)
鄙の消光、民主主義の作り方 鬼伯 (kihaku) @sinigy
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