【哲学百合短編小説】月下の問い ―― あなたは何のために生きていますか?(約8,500字)

藍埜佑(あいのたすく)

【哲学百合短編小説】月下の問い ―― あなたは何のために生きていますか?(約8,500字)

●序章:問いの始まり


 春の終わりを告げる風が、大学の講義棟の窓を揺らしていた。岸田優花は、哲学概論の講義を終えたばかりの教室に佇んでいた。三十歳を目前に控えた彼女の細い指が、古びた教壇を優しく撫でる。


「先生」


 声の主は、最後列に座っていた山本さくらだった。いつもの真摯な眼差しで、優花を見つめている。


「何かな、山本さん」


「先生は……本当に生きることの意味を見つけられたんですか?」


 その問いは、優花の心の奥深くに眠っていた何かを呼び覚ました。幼い頃から彼女を苛んでいた、あの根源的な問い。なぜ私たちは生きているのか? その答えを探して哲学の道を選んだはずなのに。


 さくらの澄んだ瞳に映る自分を見つめながら、優花は言葉を探した。


「それは……」


 言葉が喉まで上がってきて、そこで止まる。嘘はつきたくない。特にこの純粋な問いを投げかけてきた学生には。


「ごめんなさい。まだ、私にも分からないわ」


 素直にそう告白すると、さくらは意外そうな表情を浮かべた。


「でも先生は、いつも素晴らしい講義をしてくださいますよね。存在の意味について、生きることの価値について」


「ええ。だからこそ、より深く考えざるを得ないの」


 優花は窓の外に目を向けた。キャンパスの桜は散り、若葉が風に揺れている。


「哲学は、答えを与えてくれるというより、より深い問いへと誘ってくれるものかもしれないわ」


 さくらは小さく頷いた。その仕草には何か儚さが漂っていて、優花の胸を締め付けた。


 教室を出る前に、さくらは振り返って言った。


「先生が答えを見つけたら、私にも教えてください」


 その背中を見送りながら、優花は自分の心の空虚さを、これまで以上に痛烈に感じていた。


●第一章:迷いの中で


 その日の夜、優花は自宅のパソコンの前で、ある記事に見入っていた。「現代の隠遁者たち」と題された記事の中に、ひときわ目を引く一節があった。


『山形県の山奥に佇む古刹、月読寺。そこに住まう藤原澪は、禅の世界では「悟りを得た者」として知られる。しかし、彼女を訪ねる人々が求めているのは、必ずしも悟りではない。むしろ、日々の生活の中で失われた何かを、取り戻そうとしているのかもしれない』


 藤原澪――八十代の老尼であり、かつては女子大で哲学を教えていたという経歴を持つ人物。優花は、その名前を何度も読み返した。


 窓の外では、東京の夜景が煌めいている。高層ビルの明かりが、まるで地上の星座のように輝いていた。その光の海を見つめながら、優花は決心を固めていった。


 翌朝、大学の研究室で休暇届けを提出する。同僚たちは意外そうな顔をした。いつも几帳面で、休暇など取らない優花が、突然一週間の休みを申請したのだから。


「気分転換でもするの?」


 隣の研究室の田辺教授が、やさしく声をかけてきた。


「ええ、少し考え事がありまして」


「そう。あなたらしくないわね」


 田辺教授は微笑んで、優花の肩に手を置いた。


「でも、たまにはそういうのも必要よ。特に、あなたみたいに頭でっかちな人はね」


 その言葉に、優花は苦笑いを浮かべた。確かに、自分は考えすぎる傾向にあった。物事を常に論理的に捉えようとし、感情を後回しにしてきた。それは、自分を守るための習慣だったのかもしれない。


 その日の午後、優花は山形行きの切符を購入した。スマートフォンには、月読寺までの道順が表示されている。明日の朝一番の新幹線に乗れば、昼過ぎには到着するはずだ。


 帰り道、優花は書店に立ち寄った。旅行用の小さなバッグには、禅に関する入門書が一冊、そして長年の友人である、ニーチェの『ツァラトゥストラ』が収められた。


 自宅に戻ると、優花は久しぶりに押し入れから座布団を取り出した。かつて、学生時代に座禅を組もうと購入したものだ。結局、ほとんど使わないままだったが、今回は必要になりそうだった。


 夜、布団に横たわりながら、優花は自分の決断の突飛さを考えていた。インターネットの記事を見ただけで、見知らぬ寺を訪ねていく。しかし、その非合理的な行動にこそ、何か意味があるのかもしれない。


 眠りに落ちる直前、さくらの問いが再び脳裏をよぎった。


「生きることの意味を見つけられたんですか?」


 その答えは、きっとこの旅の先にある。そう信じたかった。


●第二章:山寺にて


 山道を登りながら、優花は自分の決断を少し後悔し始めていた。荷物は軽かったものの、舗装されていない道は予想以上に険しく、新しく購入したハイキングシューズが足に馴染んでいなかった。


 しかし、その疲れも、目の前に広がる風景の美しさで忘れられた。深い緑に包まれた山々、遠くに聳える峰々、そして時折耳に届く鳥のさえずり。都会の喧騒から離れ、自然の中に身を置くことで、優花は少しずつ心が落ち着いていくのを感じていた。


 二時間ほど歩いた頃、古びた山門が見えてきた。苔むした石段を上がると、そこには小さな寺が佇んでいた。月読寺――看板の文字は、年月の風雨で薄れかけていた。


「お客様ですか?」


 優しい声に振り返ると、二十代後半と思われる若い女性が立っていた。黒い作務衣姿で、短く刈り上げた髪が印象的だった。


「はい。藤原澪さんにお会いしたくて」


「あぁ、祖師さまですね。私は弟子の中島蓮です」


 蓮の表情には、優しさと共に芯の強さが感じられた。彼女は優花を本堂へと案内した。


 本堂に入ると、ほのかな線香の香りが漂っていた。床は光沢を失った古い板張りで、所々に補修の跡が見える。正面の仏壇には、一輪の白い百合が活けられていた。


「少々お待ちください」


 蓮が奥へ消えていくと、優花は静かに待った。壁には「無心」という一字が掛けられている。その文字を見つめているうちに、不思議と心が落ち着いていくのを感じた。


 しばらくして、軽い足音が聞こえてきた。振り返ると、小柄な老尼が立っていた。藤原澪である。


「よく来てくれました」


 澪の声は、年齢を感じさせない清々しさを持っていた。深いしわの刻まれた顔には、穏やかな笑みが浮かんでいる。


「私は岸田優花と申します。東京の大学で哲学を……」


「ええ、知っています。蓮から聞きました」


 澪は優花の隣に座り、じっと彼女の顔を見つめた。その眼差しには、何か見透かすような力があった。


「あなたは、何かを探しているのですね」


 その言葉に、優花は思わず息を呑んだ。


「はい。私は……生きることの意味を知りたいのです」


 澪は静かに頷いた。


「その問いは、誰もが持っているものです。でも、多くの人は日々の生活に埋もれて、忘れてしまう。あなたは忘れなかった」


 優花は自分の手を見つめた。


「でも、それが苦しいんです。答えが見つからない」


「答えを探すことに執着しすぎているのかもしれません」


 澪の言葉は、優しくも鋭かった。


「ここでしばらく過ごしてみませんか? 今、他にも修行者が来ています。みんな、それぞれの問いを抱えて」


 優花は迷わず頷いた。ここまで来て、帰るつもりはなかった。


 蓮が戻ってきて、優花を小さな庵へと案内した。そこには既に三人の女性が滞在していた。自己紹介を交わすと、彼女たちもまた、それぞれの人生の岐路でここを訪れていたことが分かった。


 森川千鶴は四十代前半。離婚を経て、新しい人生を模索していた。小林葉子は三十代後半で、重い病から回復する過程にあった。そして田中美咲。三十代前半のベンチャー企業経営者で、仕事の重圧から一時的な避難場所を求めていた。


 その夜、優花は初めての座禅に挑戦した。背筋を伸ばし、呼吸に意識を向ける。しかし、すぐに足が痺れ始め、次々と雑念が湧いてきた。


「初めは誰もが同じです」


 蓮が優しく声をかけてきた。


「ゆっくりでいいんです。まずは、自分の呼吸を感じることから」


 優花は深くため息をつき、再び姿勢を正した。月の光が障子を通して差し込み、静寂の中で時間がゆっくりと流れていった。


●第三章:共鳴する心


 朝は早かった。まだ日の出前、鐘の音で目が覚めた。優花は他の修行者たちと共に、本堂での朝の勤行に参加した。


 読経の声が響く中、優花は自分がまるで違う世界に来たような感覚を覚えた。東京での生活、大学での講義、そういったものが遠い記憶のように感じられた。


 朝食は質素だったが、心が落ち着くような味わいがあった。


「いただきます」


 全員で手を合わせ、優花は味噌汁を口に運んだ。野菜は寺の畑で採れたものだという。


 食事の後、蓮から一日のスケジュールを告げられた。午前中は座禅と作務、午後は自由時間。夕方にまた座禅があり、夜は月下での瞑想が予定されていた。


 作務は主に掃除と畑仕事だった。優花は千鶴と共に、本堂の廊下を雑巾で磨いていた。


「私ね、結婚していた時は、こんな家事が本当に嫌いだったの」


 千鶴が静かな声で話し始めた。


「でも今は違うの。一つ一つの動作に、なんだか意味を感じるようになった」


 優花は手を止めて、千鶴の横顔を見つめた。四十代とは思えない柔らかさがあった。


「千鶴さんは、どうしてここに?」


「離婚してから、自分が何のために生きているのか分からなくなって」


 千鶴は雑巾を絞りながら続けた。


「二十年近く、妻として母として生きてきた。それが突然なくなって。でも、今は少しずつ分かってきたの。私は私のために生きていいんだって」


 その言葉に、優花は深く考え込んだ。自分のために生きる――それは簡単なようで、実は最も難しいことなのかもしれない。


 午後、優花は葉子と寺の裏手にある小さな池のほとりで過ごしていた。初夏の陽射しが水面に反射して、きらきらと輝いている。


「ここに来る前は、もう死ぬかと思った」


 葉子は静かに語り始めた。その細い指が、膝の上で震えているように見えた。


「難病って診断されて。でも、それは間違いだったの。ただの過労とストレス」


 優花は思わず、葉子の手に自分の手を重ねた。その手は冷たかった。


「でも、その経験で気づいたの。私は本当は何を大切にしたいのか、何のために生きているのか」


 葉子は優花の手を優しく握り返した。


「先生は? 何か見つかりました?」


「まだ……でも、ここに来て少し分かってきたかも。答えは、きっと頭の中にはないのね」


 二人は黙って池を見つめた。水面に映る雲が、ゆっくりと形を変えていく。


 夕方、美咲が皆を集めて提案をした。


「今夜、お月見をしませんか? 天気もいいし」


 全員で布団を庭に敷き、夜空を見上げることになった。蓮がお茶を淹れ、澪も珍しく同席した。


「月を見ていると、不思議と心が落ち着きますね」


 美咲がつぶやいた。普段は凛とした表情の彼女も、今夜は柔らかな表情を見せていた。


「月は昔から、悟りの象徴とされてきました」


 澪が静かに語り始めた。


「月は何もせず、ただそこにある。でも、その存在自体が光を放つ。私たちも、そうありたいものです」


 優花は月を見上げながら考えた。自分はずっと、何かをしなければならない、何かを見つけなければならないと焦っていた。でも、もしかしたら大切なのは、ただそこにいることなのかもしれない。


 夜が更けていくにつれ、女性たちは次々と眠りについていった。しかし優花は、まだ目が冴えていた。月の光を浴びながら、彼女は自分の人生を振り返っていた。


「眠れないの?」


 蓮が優花の隣に座った。その姿が月明かりに照らされ、まるで天女のように見えた。


「ええ、少し」


「私もよく、こうして月を見上げています」


 蓮は優花の肩に、そっと手を置いた。その温もりが、不思議と心地よかった。


「先生は、いつも何を考えているんですか?」


「私?」


 優花は少し考えてから答えた。


「存在の意味かしら。でも、最近は少し違ってきた気がする」


「どう違うんですか?」


「考えることよりも、感じることが大切なのかもしれないって」


 蓮はにっこりと笑った。その笑顔に、優花は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。


「先生は、変わってきていますよ」


「そう?」


「ええ。来たときより、柔らかくなった」


 優花は思わず、蓮の手に触れた。確かに、自分は少しずつ変わっていっているのかもしれない。頭で理解しようとすることから、心で感じることへ。


 二人は静かに寄り添いながら、夜明けまで月を見続けた。


●第四章:月下の邂逅


 四日目の夜、優花は一人で境内を歩いていた。昼間の暑さが残る空気に、かすかに虫の音が混ざっている。


「月がきれいですね」


 突然声をかけられ、優花は振り返った。そこには見知らぬ老尼が立っていた。


「私は佐々木千代。澪の古い友人です」


 千代は、優花の隣に腰を下ろした。その仕草には、不思議な優雅さがあった。


「澪から聞いています。あなたは生きる意味を探しているのですね」


 優花は黙って頷いた。


「私たちは、若い頃からずっと一緒に修行をしてきました。でも、悟りに至ったのは澪だけ。私はいまだに修行の途中です」


 千代は月を見上げながら、静かに微笑んだ。


「でも、それでいいのです。生きるということは、決して答えを見つけることではない。むしろ、問い続けること。そして、その問いを共に持つ者たちと出会うこと」


 その言葉に、優花は思わず涙がこみ上げてきた。それは悲しみの涙ではなく、何かが溶けていくような、温かな涙だった。


「先生」


 蓮の声が聞こえた。振り返ると、彼女が心配そうな表情で立っていた。


「大丈夫?」


「ええ」


 優花は涙を拭った。


「ただ、少し感動してしまって」


 蓮は優花の隣に座り、そっと肩を抱いた。三人は静かに月を見上げた。


 その夜、優花は不思議な夢を見た。自分が大きな月になって、地上を照らしている夢。目が覚めると、体が温かく、心が静かに満たされているのを感じた。


●第五章:帰路にて


 一週間があっという間に過ぎた。最終日、優花は澪との最後の対話の時を迎えていた。


「生きることは、愛することよ」


 澪はそう言って、優花の手を取った。


「自分を、他者を、そして今この瞬間を」


 優花は深く頷いた。この一週間で、彼女は多くのことを学んだ。しかし、それは知識としての学びではなく、心で感じ取ったものだった。


 帰り際、河原詩織という女性から手紙を受け取った。詩織は数年前に同じように迷い、この寺を訪れた人物だという。


 手紙には、日々の小さな発見や喜びが綴られていた。朝日の中で輝く露、通りすがりの子供の笑顔、夕暮れ時の空の色。それは、生きることの意味を言葉では説明できないが、確かに感じられる瞬間の記録だった。


 東京行きの新幹線の中で、優花はその手紙を何度も読み返した。窓の外を流れる景色が、どこか新鮮に見えた。


 大学に戻った最初の日、さくらが研究室を訪ねてきた。


「先生、お帰りなさい」


 優花は微笑んで答えた。


「ただいま。そうそう、あなたの質問の答え、少し見つかったわ」


「え?」


「生きることは、愛の形を探す旅なのかもしれない。その形は人それぞれ。でも、きっと誰かと共に見つけていくものなの」


 さくらの目が輝いた。その瞬間、優花は確信した。答えは常に、人と人との間にあるのだと。


●第六章:都会の風


 東京での日常が戻ってきた。しかし、優花の中で何かが確実に変化していた。講義の内容も、少しずつ変わっていった。


 ある日の哲学概論の講義で、優花は学生たちに問いかけた。


「哲学は、必ずしも論理的な答えを求めるものではありません。時には、感じることが理解することよりも大切なのです」


 教室の空気が、少しだけ和らいだような気がした。


 研究会でも変化は起きていた。いつもは論理的な議論に終始していた会が、より対話的な場になっていった。そんな中、思いがけない再会が訪れる。


「中島さん?」


 研究会の新しいメンバーとして紹介されたのは、まさかの蓮だった。彼女は客員研究員として着任したという。


「また、お会いできましたね」


 蓮の微笑みは、山寺で見たときと変わらなかった。


 二人は自然と親密な関係を築いていった。週末には、蓮が開く小さな座禅会に参加するようになった。マンションの一室を借りて開かれる会は、都会の喧騒の中の静かな避難所のようだった。


 ある日の座禅会の後、蓮は優花に打ち明けた。


「先生、私、気づいてしまったんです」


「何に?」


「あなたのことを、特別な存在として見ていることに」


 その言葉に、優花の心は大きく揺れた。今まで気づかなかった、あるいは気づこうとしなかった自分の感情が、徐々に形を成していく。


 それは恐れでもあり、希望でもあった。


●第七章:揺れる想い


 蓮の告白から数日が過ぎた。優花は自分の心の内を探っていた。


 講義室で学生たちに向かって話しながら、彼女の心は常に揺れていた。これまで築き上げてきた自分の世界が、少しずつ崩れていくような感覚。


「先生、大丈夫ですか?」


 講義後、さくらが心配そうに声をかけてきた。


「ええ、ありがとう」


 優花は微笑んだが、その笑顔が不自然なものに見えたかもしれない。


 その夜、優花は久しぶりに山寺からもらった手紙を読み返していた。河原詩織の言葉が、今までとは違って見えた。


『時に愛は、私たちの予想もしない形でやってくる。それを受け入れる勇気を持てるかどうかが、人生を大きく変えるのかもしれません』


 窓の外では、東京の夜景が煌めいていた。その光の中に、優花は蓮の面影を見た。


●第八章:内なる声


 悩んだ末、優花は再び山寺を訪れることにした。今度は休暇を取る必要もなく、週末を利用しての短い旅だった。


 澪は変わらない笑顔で優花を迎えた。


「来るだろうと思っていました」


 本堂で二人きりになると、澪は優花の悩みを最初から知っていたかのように話し始めた。


「愛に正しい形などないのよ。大切なのは、その愛が純粋であるかどうか」


 優花は膝の上で握りしめた手を見つめた。


「でも、私は……」


「あなたの心が真実を告げているのなら、それを受け入れることも、時には勇気ある選択になる」


 澪の言葉は、優花の心に深く染み込んでいった。


 帰り際、千代も優花に言葉をかけた。


「幸せは、考えるものではなく、感じるものよ」


 東京に戻る新幹線の中で、優花は長い間窓の外を眺めていた。移り行く景色の中に、自分の心の答えを探すように。


●第九章:選択


 ある夜、優花は蓮を自宅に招いた。二人分のお茶を入れながら、優花は言葉を探していた。


「蓮さん」


「はい?」


「私も、気づいたの」


 蓮の目が大きく開かれた。


「あなたのことを、特別に思っていることに」


 その告白は、思ったより自然に口から出てきた。まるで、長い間心の中に眠っていた言葉が、やっと目を覚ましたかのように。


 蓮は静かに微笑んだ。その表情には、安堵の色が浮かんでいた。


「よかった。私だけじゃなくて」


 二人は言葉もなく、お互いを見つめた。窓の外では、満月が輝いていた。


 関係が深まるにつれ、二人の生活にも変化が訪れた。休日には鎌倉を散策し、古寺を巡り、時には深夜まで哲学について語り合った。


 ある春の朝、桜の花びらが舞う中、優花は講義室で学生たちに語りかけた。


「生きるということは、自分の真実と向き合うこと。そして、その真実を受け入れる勇気を持つこと」


 教室の後ろで、蓮が静かに微笑んでいた。


●終章:愛の形


 一年後の春。優花と蓮は、月読寺を再び訪れていた。今度は二人一緒に。


 境内には桜が咲き誇り、その花びらが二人の周りを舞っていた。


「随分と変わったわね」


 澪が二人を出迎えた。その表情には、深い慈愛が満ちていた。


「ええ、でも変わらないものもあります」


 優花はそう答えて、蓮の手を握った。


 夕暮れ時、二人は以前と同じように庭で月を待った。


「覚えていますか? あの夜のこと」


 蓮が優花に寄り添いながら尋ねた。


「ええ、もちろん。あの月の下で、私は初めて自分の心に正直になれたの」


 月が昇り始めると、他の修行者たちも集まってきた。新しい顔もあれば、なつかしい顔もある。皆でお茶を飲みながら、それぞれの物語を語り合った。


「先生」


 突然の声に振り返ると、さくらが立っていた。彼女も今日は特別に呼ばれていたのだ。


「ありがとうございました。先生の姿を見て、私も自分の道を見つけられました」


 さくらの横には、彼女の新しいパートナーがいた。二人は穏やかな笑顔を浮かべている。


 夜が更けていく中、優花は静かに考えていた。生きることの意味は、決して一つの答えに収束するものではない。それは、愛する人と共に歩みながら、日々新しい形を見つけていくもの。


 大学での研究も、新しい方向に向かっていた。存在と愛の哲学――それは、頭で理解するものではなく、心で感じ取るものだった。


「先生、もうすぐ日の出ですよ」


 蓮の声に、優花は我に返った。空が少しずつ明るくなり始めている。


「新しい朝ね」


「ええ、私たちの新しい一日の始まり」


 二人は寄り添いながら、夜明けを待った。月が沈み、太陽が昇る。その瞬間、優花は確信した。生きることの意味は、このように誰かと共に在ることの中にある。それは決して完璧な答えではないかもしれない。でも、それこそが人生という旅の本質なのだと。


「行きましょうか」


 蓮が立ち上がり、優花に手を差し伸べた。


「ええ」


 優花はその手を取り、共に歩き始めた。新しい一日が、二人を待っていた。


(了)

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