師走の天秤

小林一咲

君の点数

 師走は、誰もが忙しい。年の瀬に向けて、街は駆け足で過ぎ去っていく。人々の足音がせわしく響き、追い立てられるように過ぎていく12月。


 そんな時期、安田やすだ 慎吾しんごは一人、会社の応接室で渡された封筒を見つめていた。中身は──ボーナス。

 正確には「寸志」と言い換えるべき、雀の涙ほどの額。


 慎吾は大手広告代理店の営業部に勤めて十年目、いわゆる中堅社員だ。妻と小学生の娘を抱え、家のローン、教育費、老後の資金と、背負うものは増え続けるのに、昇進試験は何度受けても通らない。会社は冷たく数字しか見ない。「実績」がない者に光は当たらない。


「これが……俺の一年分の評価、か」


 皮肉だった。必死にクライアントに頭を下げ、残業を積み重ね、睡眠を削って企画書を書いた。その努力はどこに行ったのか。慎吾の心は乾いた笑いと共に、澱のような虚しさに沈んでいった。


 ---


 その夜、慎吾は帰宅途中の駅で、一人の男に出会った。古びたスーツにくたびれた靴、目の下には深い隈が刻まれている。

「安田君……だよな?」


 驚いた。男はかつての上司、武田課長だった。三年前、成果が出せずに左遷され、その後、会社を去った人物だ。


「武田課長……久しぶりです」

「ああ、久しぶりだな」


 武田は駅のベンチに座り、缶コーヒーを片手に笑った。その顔はやけに穏やかだった。


「どうしたんです、課長。今は何を?」


「……ちょっとした自営業だよ。まあ、潰れかけだけどな」

「……そう、ですか」


 気まずい沈黙。だが、武田はポツリと言った。


「安田君、お前も苦労してるんだろ。顔に書いてある」

「……」


「でもな、金なんて所詮、数字だ。あれは誰かが決める『点数』だろ?  でもお前は……自分に点数をつけることを忘れてないか」


「自分に……?」


「お前はお前の一年を、どう評価するんだ?」


 その言葉は、不思議と慎吾の胸に突き刺さった。


 ---


 年末、慎吾はある決意をした。

 ボーナスの半分を使い、妻と娘を連れて温泉旅行へ出かけた。行き先は、何の変哲もない地方の宿。しかし、娘がはしゃぐ笑顔、妻が窓から見える雪景色に「あぁ、最高」と呟いた瞬間、慎吾はふと気付く。


 ──これが、俺の一年の「点数」だ。


 会社が何を言おうと、ボーナスがどうであろうと、自分で価値を見つけ、自分で幸せの重さを測ればいい。


 師走は相変わらず忙しい。けれど、慎吾の心には一つの天秤が揺れていた。

 


 それは、金では測れない「小さな幸せ」と「少しの皮肉」の間に揺れる、静かな天秤だった。


(了)

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