第三十話 向き合い方

 それから終礼までの時間はあっという間だった。環夜はいつ現実に戻るかもしれないと怯えていた。


「ねぇ、兄さん。この偽りの夕暮れも、固く閉ざされた空も無くなったほうがいいと思わない?…写真じゃなくて…実際に青空を皆が見られるような国になって欲しいな」


 学校からの帰り道、彰は環夜の前を歩きながら空を見上げて言った。環夜はその言葉に聞き覚えがあった。


 ――アリゾネの言葉。僕は現実に帰りたがっているのか。嘘つきしかいない、僕の味方なんていない、あの現実へ。


 現実で環夜はもう信じられる人がいない。アリゾネにも会えない。


 ――死ねなかったんだ、僕は。でも、今さら戻ったところでどんな顔して会えばいいんだ。僕はもう、彰とも獅貴さんとも普通に顔を合わせられる気がしない。


 環夜は横にいる彰を見た。楽しそうに自分と並んで帰路につく彰を環夜は見たことがなかった。環夜にとって都合の良い夢。だけど、この夢もきっともうすぐ壊れて消えてしまうだろう。


「彰、僕がもし死んだら…悲しいかい?」


 環夜は横に並んで歩く彰に向かって訊ねる。答えは分かっていた。自分の夢だ。自分に都合のいい返事が返って来るに決まっている。


『私は、兄さんが死んだら悲しいよ。だから…そんなこと言わないで』


 環夜はその返事が嬉しくなかった。ずっと欲しかった言葉なはずなのに、あの時も彰に求めていた言葉なはずなのに、欠片も嬉しくない。大切に思われたかったはずなのに。


「そんなの…嘘だろ。僕を…本当は僕のことなんか…嫌いなくせに」


 環夜は呟く。嫌いでいて欲しいと願う。彰が自分のことを嫌いと言ってくれればどんなに楽だろうと思う。そうすれば、恨んで憎んで、彰に苛立ちをぶつければいいだけなのに。彰は環夜に大切だと、家族だという。守りたいと。夢の中でも現実でもそう言うのだ。


 ――そうだ。そうなんだ。彰は、現実の彰は、僕の望む家族像そのものだったんだ。僕を大切に思ってくれて、守りたいって言ってくれる。たとえ血が繋がらなくても。そんな彰だからこそ本当の家族でいて欲しかった。演技だなんて言わないで欲しかった。僕の彰像を壊さないで欲しかったんだ。だから、もうあれ以上何も聞きたくなくて、飛び降りたんだ。


 環夜は彰の顔を見つめる。環夜の言葉に傷付く彰の顔がそこにある。泣きそうな顔をして、環夜を見つめ返す顔が。

 でも、これは彰じゃない。この夢に出てくる彰は彰じゃない。環夜の作り出した理想の彰だ。智美も真章も環夜の知っている人たちとは違う。そんなこと分かっている。


 環夜は人工の太陽を見上げた。そして、それを掌で握り潰すように隠す。その瞬間、世界に亀裂が入って、硝子が割れるように建物が、人が崩れていった。環夜の体を崩れていく。夢が崩壊していく。

 環夜はひび割れた太陽を見つめながら、ゆっくりと目を瞑る。もう後戻りはできない。


 でも、先へ進みたい。幸せは、本当に幸せは自分で掴めばいい。彰なんて気にせずに、僕だけの幸せを掴むんだ。誰にも壊されない幸せを。自暴自棄になって、馬鹿みたいに行動することだけはやめよう。死んだって、何も変わらない。結局、一番悔しい思いをするのは自分なんだ。


 環夜は意識が途切れる寸前まで、楽しかった夢の思い出を振り返っていた。ほんの数時間の幸せの日々を。もう戻らない理想の日々を胸に抱いて。これから待ち受ける辛い事実に迎え撃つために。

 不安は消えない。でも向き合うしかない。たとえ、納得のいかない結果になったとしても。今の環夜にはそれしかできない。

 夢空間がなくなると同時に、環夜の意識は完全に途切れた。


――――――――――――――――――――――――


 暗い奈落の底から環夜の意識が覚醒していく。這い上がるようにして、眠りから覚める。

 環夜は重たい瞼を無理やり開いた。視界に映ったのは青色の天井だった。一瞬、空かと思ったが、そこは医務室らしき場所で、環夜の寝ている横に、複数の寝台がおいてある。寝起きな所為か、動きの悪い首を無理やり回して辺りを見渡す。


 環夜以外、人はいないようだった。部屋の中には寝台と何かよくわからない医療器具、そして入口らしい扉が一つあるだけ。壁に掛かる時計は四時四十二分を指していた。


 ――反政府軍の病棟か?それとも、まだ夢の中だろうか。


 環夜は起き上がろうと体に力を入れたが、瞬間的にものすごい痛みが肩に走って呻いた。右肩がものすごく痛い。痛みのない左手で優しく触れてみると、病衣の下に包帯か何かを巻いて固定してある。屋上から落ちたときにした怪我だろうか。


 環夜がどうにかして起き上がれないかと奮闘していること数分、病室の扉が突然、勢いよく開いた。中に入ってきたのは冬陽だ。

 環夜は冬陽を呼ぼうと口を開いた。だが、何故か声が出ない。喉に湿り気がなくて声を出そうとすると痛みを感じる。いや、それ以前に何を話したらいいかも思いつかない。

 しかし声を出すまでもなく、冬陽は環夜が目覚めていることに気がついた。驚いたような、嬉しそうな、そして怒ったような表情で環夜に近づいてくる。


「目を…覚ましたか」


 その言葉で環夜はようやく現実味が湧いてきた。此処はまだ反政府軍で、環夜は戦争に巻き込まれているということを。


「し…き、さん」


 なんとか絞り出した声は嗄れていた。環夜は激しく咳き込む。苦しい。

 冬陽は環夜が横たわる寝台の上半分を上げた。上半身が起き上がったので、寝台に座るような形になる。環夜は冬陽から水を受け取り、一気に飲み干した。すぐに咽て咳き込むが、喉は潤った。


「獅貴、さん…僕は、屋上から飛び降りたんですよね…」


 あの状況から助かる可能性はほとんどなかった。なのに、自分は生きている。夢を見ている時点で死んでるとは思っていなかったが、もっと酷い怪我をしている可能性を考えていた。だと言うのに、この程度の怪我はおかしい。

 冬陽はそんな環夜を見て何故か頭を撫でた。


「早日がお前を呼んでる声がしたと思って窓開けて上みたら、お前が落ちてきて…俺が身体強化された人間じゃなければお前の体を掴むことも、支えることもできず、お前はそのまま落ちていたと思うぞ。本当に…無事でよかったよ。もう馬鹿なことはするな。俺も黙っていたのは悪かった。まさか、あんな行動に走るとは思わなかったんだよ」


 冬陽は環夜の手を握った。そして大きく溜息をつく。

 環夜は納得した。なぜ、自分が死ななかったのか。身体強化が何かは分からなかったが、冬陽が環夜の命の恩人だということもわかる。


「獅貴さん、ありがとう…ございました」


 環夜は夢の中での横路を思い出す。あれは、冬陽だったのではないかと思う。屋上から落ちた環夜を助けて、ずっと声をかけ続けてくれていたのではと。


『似てないって自覚があって…真実を知って逃げたくせに…彰に頼って…結局また逃げるのかお前』

『彰を残して死ぬのか亜奏。早く戻ってこい』


 あれはきっと冬陽の言葉だ。冬陽が環夜に向けて放った言葉なんだ。それを夢の中で横路が代弁して言った。そう言うことだろう。


「いいんだ…お前はもう俺の後輩だ。心配するのは当たり前だよ。本当に…お前が眠っていた三日間はとても長く感じた。だから…」

「本当に、大切なんですか…僕のことを可愛い後輩だって…ならもっと早く…教えてくれればよかったじゃないですか。彰と…隠していないで…話してくれればよかったのに」


 環夜は冬陽の言葉を遮って言う。彰と共に環夜を騙していた冬陽。しかも、彰は冬陽に言われて事実を話したと言っていた。だったら、なぜ冬陽の口から話してくれなかったのか。


 ――僕を可愛がってくれてるなら、僕を大切に思ってくれるなら話して欲しかったのに。


 冬陽は黙り込んだ。それが環夜をさらに不安にさせる。冬陽も彰と同じで、自分のことを騙していて、今になって都合よく心配してるだけかもしれないと。


「冷たい態度をとって悪かった。もう少しお前を気遣ってやるべきだった。お前の態度に苛立っていたんだ。だからって大人げなかったと反省している。…でも、やっぱり俺からは話せない。ただ、俺も早日が話す時、立ち会おうと思う。一応、当事者だからな。…俺は先輩として、きちんとやるべきことは果たす。今、俺から言えることはそれだけだ。だから一つだけ言っておく、お前は俺のようになるな。やるべきことは果たせ。きちんと他人の気持ちを考えろよ」


 冬陽は寝台に座る環夜に、地面に膝をつきながら視線を合わせて言った。その長い言葉には、環夜の求めていたものは直接的にはなかったが、それでも冬陽が自分のことを思ってくれていたことを知れて嬉しく感じた。


「獅貴さんの気持ちはわかりました…それであの、彰は?」


 環夜は夢から覚めて一番気になっていたことを聞いた。飛び降りていた時、彰の悲鳴がしたというのに、それにしては環夜が目覚めても様子を見に来たりはしていない。知らないという可能性もあるが、環夜としては想像していた状態と違って驚いていた。


 ――てっきり、付きっきりで看病してくれていると思っていた。勝手に期待していた。彰を怒っておいて、結構自分勝手だよな僕も。


「早日は部屋で謹慎させてある。お前が落ちたことにより、だいぶ動揺していてな。今度はあいつが飛び降りるんじゃいかって心配されていたから…お前が全快したら、早日と俺、そしてお前の三人で話をしよう。今は休め、いいな?」


 冬陽は病室の時計を見て、若干早口で言った。忙しい中来てくれたのだろう。

 環夜が頷くと、冬陽は環夜の寝台をもとに戻してから早足で病室を出ていった。


 環夜は寝台の上で力を抜く。体中が痛い。倦怠感もある。確かにまだ全開とは言えない。

 ひとまず休むしかない。それが今の環夜にできることだ。先のことを考えると、不安しかなかったが、それも仕方がない。生きていれば、いつかきっと報われる日も来る。幸せになれる日が来る。

 そう環夜は信じて目を瞑った。そして、眠りに落ちていった。

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いつまでも青空の下で待っている 灰湯 @haiyu190320

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