第二十九話 悪夢と現実

 朝食が終わった後は部屋で自由な時間を過ごした。休日といっても、父親である真章は仕事、彰は部活、母親である智美は空いているが二人だけで出かけることはないし、やることがない。


 環夜は寝台に寝転がった。壁に掛かる日捲りを見ると、七月七日の日曜日。明日からまた、学校が始まる。環夜は中等学校三年生なので、来年は高等学校に進むか就職するかのどちらかになるだろう。あと、七ヶ月で卒業とはいえ、休むことはできない。いい高等学校に行くにしても、給料の高い職場に就職するにしても、学力は必要だ。


 学校に行くのは正直面倒くさい。大抵の人はそうだろうと環夜は勝手に決めつけている。そして、学校に行くのが義務なことも分かっている。だから明日からも環夜は学校に行くだろう。


 結局その後も、環夜は自室で暇を潰した。小説を読んだり、勉強をしたり。途中、昼ごはんを食べに居間に降りたが、それ以外は部屋で引き籠もっていた。悪夢の中で戦争に巻き込まれていたことを思い出すと、天と地ほど差がある穏やかな時間だった。

 窓の外が暗くなり、彰が部活から帰ってくるまで部屋にいた環夜は、智美の呼ぶ声がしたので、一階に降りた。


『環夜っ、ご飯よ』


 いつの間にか夕飯の時間になってしまった。時間の流れは恐ろしいほど早い。

 夕飯の献立はおろし大根ののった焼き鮭に、だし巻き玉子、玄米、牛蒡の味噌汁だ。今度はよく智美が作る料理だったが、環夜はなぜか違和感を覚える。でも、それが何かはわからない。

 夕食時も家族全員揃うことはなかった。真章はまだ仕事中なのだろう。

 食事中は誰も喋らず静かだった。環夜は空気の重さに耐えきれなくなって、ご飯を残したまま部屋に戻った。


 ――おかしい。楽しかったはずなのに。幸せだったはずなのに。何かが変だ。昨日までは、こんなに気まずい雰囲気じゃなかったはずなのに。どうして。



 次の日も、朝食時に家族全員が揃うことはなかった。環夜は寝間着のまま静かな食卓で、智美の用意した朝食を黙々と口に入れては噛み砕き飲み込む。作業のように無心で食べる。


 彰は環夜が居間に降りてきた時にはすでに学校に出かけた後だった。部活の朝練だろうが、それにしても早い。

 結果、居間にいるのは環夜と智美の二人。会話もないまま、気まずい朝食というわけだ。

 環夜は最後に一口残った麵麭に果実を砂糖で煮たものを塗ると口に放り込んで手を合わせた。


「ごちそうさまでした」


 そう言って、食器を片付けると部屋に戻った。その間、智美とは一言しか交わしていない。環夜のごちそうさまに、お粗末様でしたと智美が言っただけだ。

 環夜は家族と会話が減ってしまったことを悲しく思った。やっと、悪夢から覚めて幸せな日常に帰ってきたはずが、まるで悪夢の中に戻ってしまったようだった。


 何にせよ、今日は月曜日。平日だ。学校に行かないといけない。

 環夜は部屋に戻った後、服棚を開けて中から制服を取り出した。寝巻きを脱ぎ、着替える。綿でてきた前開きの服に厚手の黒袴。襟締も忘れずにつける。鏡の前で位置を直すと、寝癖で更に酷くなった癖毛を極力直して、靴下を履く。

 最後に学生鞄の中身を見て、忘れ物がないことを確認すると、玄関で靴を履いた。


「行ってきます」


 環夜はそう言うと、智美の返事を待つ前に外に出た。人工の太陽が環夜を照らす。


 ――太陽。そういえば、悪夢の中で屋上から落ちる時も太陽が見えたっけ。


 環夜は眩しくて目を細めた。涙で視界が滲む。太陽を直視はよくない。

 通学路を歩いていく環夜。その横を通学用共同車が通り過ぎる。

 学校の門をくぐり自分の教室まで来ると、環夜は扉の前で足を止めた。数歩下がり、教室の扉上にある組表示を見て環夜は困惑した。


「三年…四組?あれ…僕は一組のはず。っていうか…僕は二年生で…」


 環夜は教室の前で独り言を呟く。理解不能だった。二年生のはずが、無意識に三年生の教室まで来ていたからだ。十五歳の環夜は春で進級して三年生になった。同時に成人もしているはず。


 ――悪夢の中では、上層地域に行ったから三年になってない。でも、あれは悪夢なんだ。


 環夜は嫌な予感を必死で振り払う。そんなことはない、違うと心の中で唱える。此処こそが現実なのだと。あれは悪夢でしかないのだと。

 生徒手帳を見て、三年生であることを確認すると、環夜は息を吐いて教室に入ろうとした。

 そんな環夜の肩に誰かの手が乗せられる。環夜は驚き、慌てて振り返った。


「彰っ?」


 振り返った環夜の瞳に映ったのは、栗色の髪を掻き上げている青年の姿だった。


 ――彰じゃない。そうだ、彰は部活中で此処にいるわけないんだ。悪夢じゃないんだから、彰に怯える必要もないはず。なのに、どうしてこんなに彰が怖いんだろう。朝のあの時から、彰に触れられるのが、心配されるのが怖い。後ろを振り返ったら、悪夢の時みたいに彰がいるんじゃないかって。


 栗色の髪を掻き毟る青年は困惑する環夜を見て、嫌らしい笑みを浮かべた。


『亜奏、お前って妹と顔似てないよな』


 環夜は首を傾げた。突然、この男は何を言い出すのだと困惑する。ただでさえ、混乱しているというのに。

 でも、その言葉には聞き覚えがあった。というか、悪夢でも、現実でも聞いたことのある言葉。環夜を馬鹿にする、あいつの言葉。


横路よこじ…何のようだよ」


 横路はかつて同級生だったと記憶している。確か、停学した挙句の果て留年したとか。今は環夜よりも一つ下の彰と同じ学年だという。環夜とは初等学校で同じ組になったことが一度あった。その時にも同じことを言われたはずだが。一体また、何のようだろう。


 横路は黙ったまま、何も言わない。教室の扉を塞ぐようにして横路が目の前に立ったので、環夜は踵を返して歩き出した。後ろの扉から中に入るしかない。朝礼まではあと五分ほどしかない。早く席につかなくては。

 だが、横路は環夜の手を掴み引き留めた。環夜は振り解こうと藻掻くが、全く意味をなさない。


「似てないって自覚があって…真実を知って逃げたくせに…彰に頼って…結局また逃げるのかお前」

「は、ぁ?なん…意味が分かんないんだけど」


 環夜は仕方がなく横路に向き合う。横路は先程のように嫌らしい笑みは浮かべておらず、寧ろ真面目な表情で環夜を見つめていた。環夜はその視線に気圧される。


 ――この目、どこかで見たことがある。ああ、そうだ。悪夢の中に出てきた、反政府軍の獅貴さんがこんな感じに真剣な目だった。それに、こんなこと横路は言わない。獅貴さんなら普通に言いそうだ。ここはやっぱり、そうなのか。


 環夜は横路の言葉と、その表情を見て、此処が現実でないことを完全に理解していた。だが、だからといって納得はできない。

 環夜は横路の手を無理やり引き離した。その際、横路の爪が引っ掛かり痛みを感じたが、気にしない。後方の扉から教室内に入り、窓際の席に腰を下ろす。


「彰を残して死ぬのか亜奏。早く戻ってこい」


 横路は教室の外から悲しそうな表情で環夜に言う。


 ――あれは、横路じゃない。あんなの、横路じゃない。あいつは、会うたびに僕のことを馬鹿にしていた。こんな事絶対に言わない。獅貴さんなら言うかもしれないけど、あれは悪夢であって現実でないんだ。そうじゃないと、納得できない。これが夢なんて信じたくない。


 横路はすぐに何処かに行ってしまった。環夜はなるべく考えないようにしながら朝礼が始まるのを、ただひたすら待った。


 

 担任は八時四十五分になると朝礼を始めた。いつもよりも若干遅い。朝礼の間もずっと、環夜は横路の言葉を思い出しては、忘れようとしたが、結局それしか考えられなくなってしまった。

 始まる時間が少し遅かったからか、朝礼はいつもより短く終わった。と言っても、時間は押しているので終わる時間はあまり変わらない。


 一限は世界史の授業だった。環夜は学生鞄から電子教科書と紙の筆記帳を取り出した。下層地域でも電子機器は出回っているが紙媒体も健在だ。上層地域ではすべてが電子媒体だと言われている。やはり、下層地域は遅れているのか。


 ――そういえば、母さんの手紙も紙だったっけ。母さんは紙媒体が好きなのかな。いや違った、これは悪夢の中の母さんだ。僕の母さんは早日 智美だろ。


 環夜は自分の考えを自分で否定する。どうにかして、今を現実だと思いたい。上層地域で過ごしたことは全て悪夢だったのだと思い込みたいのだ。

 教室前方では、世界史の教師が黒板に映し出された映像を指さしながら何やら説明している。授業に集中しなければ。授業に集中すれば、きっと悪夢のことなんて忘れられる。


『えー、今から二百年前…第四次世界対戦の終戦後、日本皇国は、米大国アメリカを統率国とした連合国家の植民地となった。国民は自由を奪われ、最低限の生活しか保障されず、人口が半分ほどに減り、日本人という種族が世界から消える寸前まで追い詰められた。知っていることだろうが、連合国家も事の発端であるにも関わらず日本皇国を放置した。…その窮地を救ったのが、貴族様なのだ』


 半分頭に入ってこないが、この話は有名だ。日本皇国民なら誰だって当たり前に知っているようなことだ。当たり前過ぎて誰も話題には出さないが。


 ――貴族は僕達の祖先を救ってくれた人たちなんだ。僕の同志アリゾネもその血筋。いや、違う。僕に貴族の知り合いなんかいないはず。だって、あれは夢なんだから。


『第四次世界対戦の影響で、地上には毒の空気が漂い、国は現在も地上への出入りを固く禁じている』


 教師は話しながら、一枚の写真を映し出した。空の写真。青空の。至って普通の空に見えるが、これが一体何なのだろうか。


『皆、よく見ろ。これが本当の空だ。人工の映像ではない、本当の空の写真だ。これは今から三百年以上前に地上で写真家が撮った写真だ』


 ――本当の、空?アリゾネの言っていた、本当の。

 もう誤魔化せなかった。ここは夢で、悪夢と思っている方が現実。幸せに亀裂が入ったようだった。きっと、この幸せは長く続かない。わかっている。

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