第23話
最後に、9月15日の話をしよう。
午前6時前、宿直室の簡易ベッドで睡眠をとっていた一ノ瀬医師は、ピッチの呼び出し音に起こされた。
「一ノ瀬先生」
それは夜勤の女性看護師の声だった。慌てた声だった。
「どうしました?」
「312号室の手島数太さんが」
「数太君がどうかしましたか?」
「……」
「どうしましたか?」
「首に……、首つ、つ、つ……。縊死しています。首に、シーツを……」
「えっ。すぐ行きます」
看護師は数太の部屋の前に立っていた。
部屋のドアーは開け放たれていた。
一ノ瀬医師は部屋を覗いた。
数太は裂いたシーツを紐にして、窓の鉄格子に括りつけ、それに首を掛け縊首(いしゅ)していた。残酷な童話の中の、嘘のような光景だった。
一ノ瀬医師は、数太の前に膝を折った。背後から看護師が言った。
「こんなに低い位置で首を吊るなんて、信じられません」
「腰が浮いて頸動脈を圧迫すれば可能です」
一ノ瀬医師は数太の顔を覗き込んだ。
穏やかな顔だった。
「笑っているようだ」
「はぁ?」
「何でもありません」
それから一ノ瀬医師は床を見て顎を引いた。
「この線路は、数太君が昨晩描いたのですか?」
一ノ瀬医師は看護師に尋ねた。
床には、壁から1メートル幅で、部屋の右から左へ何も描かれていない空間があった。ところがその空間に、何本もの枕木と2本のレールが、チョークで丁寧に描かれていたのだ。看護婦は怪訝な表情をして、
「さぁ、よく分かりません」と答えた。
「まあ、数太君以外、描く者はいないから……、数太君でしょう」
「床の空白は線路を描こうと思っていたのですね。壁は線路から見上げた景色でしょうか?」
「さぁ……」
ふたりは室内を見渡した。
そして一ノ瀬は、気を取り直しように声を明瞭にして、
「それより、そうです。急いで、事務所に連絡して下さい」と言って立ち上がった。
立ち上がって『おやっ』と、数太の襟足を見た。
そこには治療と経過観察をしている例の傷があった。
その日、その傷は妙に目についた。
ミミズ腫れのように浮き上がっていた。
「昨日まで、この傷は、こんなに酷くなかったはずだが……」
一ノ瀬は独り言を言って、鉄格子の方に回り込み傷に顔を近づけた。
それは文字のように見えた。
目を細めた。
イタリック体で『MAI』と読めた。
何かのしるしのようだった。
文字には、小さな花が絡まっているように見えた。
9月15日、数太の父親は早起きしていた。大阪本社への日帰り出張で、午前7時半の新幹線に乗る予定になっていた。父親はすっかり身支度を終え、テーブルで6時のテレビのニュースを見ながらコーヒーを飲んでいた。母親はシンクに向かって洗い物をしていた。ニュースが天気予報になった。父親は、メールの確認でスマホを手にした。
「あれ、かあさん、数太からラインが来とるでっぇ」
「本当(ほんま)?」
「ほん。来とる」
母親は手の水気を拭いて自分のスマホを開いた。
「本当(ほんま)じゃあ」
「部屋の絵の写真じゃあ。絵が出来たんじゃあゃ。数太、絵のウサギに寄りかかって、目をつぶとるなぁ」と父親はスマホを少し遠ざけ目を細めた。
「ほん。目をつぶって嬉しそうに、笑(わろ)うとる。……。でも、おとうさん、数太は、こんな絵を描いとりましたかぁ。町の風景を描いとりませんでしたかぁ?」
ラインに届いた画像では、鉄格子の嵌った窓の下に、横長のソファーとそこにチェックのベストを着たウサギが足を投げ出して座っている様子が描いてあった。数太はそのウサギの足に寄りかかって目を閉じていたのだ。
「これは、あの部屋じゃあねぇところで、描いたもんじゃあねぇかぁ。数太はウサギに膝枕しとるようじゃなあ」
「本当(ほんま)じゃあ」と母親は頬を緩めた。
「上の方には吊り輪が描いてあるでぇ。こりゃあ、電車の中の絵じゃなぁ」
「本当(ほんま)じゃあ。窓を車窓に見なしとんじゃなぁ」
鉄格子の窓の横にも、窓が左右に描いてあり、窓から見える景色は鉄橋のようだった。
「数太は、手に何を持っとんじゃあ?」と父親は数太の手元をピンチアウトした。
母親も手元を拡大し、
「花じゃあ。黄色コスモスじゃなぁ、こりゃあ」と言った。そして、
「ありゃ?」と続けた。
「おとうさん、写真の隅っこになんかしるしがあるでぇ」
「おぉおん?」
「糸で綴ったようなサインじゃあ」
「ほん……」
「刺繍じゃあなあ……。『M』『A』『I』。マイっと読むんじゃあねぇじゃろうかぁ、おとうさん」
「おぉん」
「おとうさん、この写真、変じゃあと思わんかぁ?」
「どこがぁ?」
「何で、鉄格子の窓の外も、チョークの絵なんじゃ……?」
その時、父親のスマホに電話の着信があった。
「病院からの電話じゃあ。もしもし……」
しるし 疋田ブン @01093354
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