第22話

 岡山の東山の麓にある『岡山慶心会医療センター』は、西日本屈指の規模と設備を有した精神科病院だった。3つ並んだ病棟の1番北側にあったC棟には、32の閉鎖隔離室があった。C棟は3階建てで、その最上階には、自傷他害の可能性のある、錯乱状態の患者が収容されていた。

 数太が、重度の精神疾患を患っていると判断されて、『岡山慶心会医療センター』C棟312号室に入院したのは、8月4日だった。   

入院するまでの家族の辛苦は、筆舌に耐え難いものだった。数太は昼夜を問わず喚き声を上げ暴れた。その発作は、トイレや風呂場でも起きた。若いだけに暴れ出すと1人では押さえきれなかった。数太が足に怪我を負っていた事と、量次が夏休みであった事は幸いだった。ただ量次の受験勉強は滞った。数太に大量の睡眠導入剤を飲ませるようになった。数太は終日、ベッドで寝て過ごした。それでも突然起き出して、暴れる事がしばしばだった。とうとう数太をベッドに縛り付ける事態となった。身動き取れない数太の呻き声は、近所の人の噂に上がった。

8月になって父親は、『岡山慶心会医療センター』の隔離室を下見した。そして愕然とした。部屋は白い壁にセメントの床だった。簡易洗面台とトイレが付いていた。低いベッドが据えられていた。窓は強化ガラスで、鉄格子が嵌められていた。出入口の扉は外側から施錠され、内側にドアーノブはなかった。扉には鉄格子が嵌められた覗き窓が付いていた。部屋は陽当たりが良かった。それだけが救いだった。

 下見に行った翌日、『岡山慶心会医療センター』の看護師とスタッフがマンションを訪れた。そして睡眠薬で眠る数太に全身麻酔の注射をした。数太はタンカーに乗せられ、『岡山慶心会医療センター』の車で、C棟312号室へ運ばれた。車には父親が同乗した。

病室に運ばれると、両手首足首と腰を、平べったい紐でベッドにくくりつけられた。精神保健指定医は父親にこう説明した。

「人権を無視しているような拘束をしますが、私どもがしっかりサポートして参ります。残酷に見えるようですが、状況が落ち着くまでやむを得ない処置とご理解下さい。面会につきましては、病院から連絡させていただくまで、ご遠慮ください。これは、数太君のため、ご家族のためでもあるのです」

 そして面会が許されたのが、9月7日であった。数太の両親はまずA棟の総合案内で面会用紙を記入した。案内所のスタッフは、C棟へ面会の許可が出ているか確認の電話を入れた。確認が出来ると、面会証を両親に渡した。C棟の入口にはインターフォンがあった。父親が氏名を告げた。3階のナースステーションに来るようにと指示された。ナースステーションのカウンター前に、白衣の男性医師が立っていた。数太の治療には、3人の医師がチームを組んであたった。立っていたのはそのチームで1番若い医師だった。

「一ノ瀬(いちのせ)と申します」

医師は笑顔で自己紹介をした。そして、

「数太君は、だいぶん落ち着いていらっしゃいますよ」と言った。

「ありがとうございます」

父親が頭を下げた。

母親が「これつまらないものですが」と、天満屋デパートの紙包みを素早く医師に渡した。

「こんなことは」と一ノ瀬は困惑の表情を作った。

「いえ、こんなことしか……」と母親は言って、無理やり紙包みを握らせた。

一ノ瀬は軽く頭を下げてから、紙包みをナースステーションのスタッフに預けた。

3人は病室に向かって暗い廊下を歩いた。廊下には奇声や悲鳴、そして何かを叩く音が、重なり折り返すように響いていた。両親は眉を曇らせた。

一ノ瀬は、両親の顔の陰りを受け流して、

「入院当初の数太君は、幻視や幻聴にそうとう追い詰められていらっしゃいました」と、一言一言区切りを付けるように、ハッキリとした口調で言った。そして続けて、

「僕の知る限り、数太君ほど、見えざるものとの戦いに苦悩された患者さんはいらっしゃいません」と言葉を継いだ。そして、両掌をグウ・パァー・グウ・パァーと2・3回繰り返して、左右交互に前に進む自分の靴先を見た。靴先を見ながら、数太の入院当初のことを思い出した。

数太の病状については、入院前に報告はなされていた。狂暴な行動をとると聞かされていたので、迷うことなく拘束する方針をとった。ところが数太は、他の重度の精神疾患者に見られるような反応を示さなかった。当然、自由がとれない状況に対しては、抗議してきた。しかし、自分がどこにいるのか、そして何が行われているのか、客観的に理解できると、安心した気配さえ見せ始めた。チームの医師達3人は、尚も経過観察を行った。数太は、気持ちの、いや心の、いや違う頭の、何か懸命に整理をしているように感じられた。つまりそれは、病状改善経過のひとつに見え、拘束は改善への障害になると判断された。油断禁物であったが、最古参の精神医のアドバイスが一ノ瀬医師らの判断を後押しした。精神医学には、経験こそが補って余りあるものだった。解かれた数太は、日がな一日、鉄格子先の景色を見て過ごしていた。

ところで、数太の入院当初の話をもう少し詳しくするとこうなのだ。

数太は、全身麻酔による23時間の長い眠りから目覚めた。目覚めた場所は、『岡山慶心会医療センター』C棟312号室だった。起き上がろうとしたが、身動きが取れなかった。また縛られているのかと思った。周りを見渡した。初めて見る部屋だった。鉄格子の窓から差し込む褪せた朱色の光が、壁とコンクリートの床を錆色に染めていた。ドアーノブの付いていない緑色のスチールの扉は頑丈そうに見えた。とうとう入院させられたのかと思った。あんなに暴れたのだから仕方ないと思った。これだけ縛られていたら暴れようもないな、と少しホッとした。それに、ここだと危険な睡眠遊行も出来ないと、肩の力が抜けた。下半身が濡れていた。オムツをあてがわれていた。(さすがに、これだけは、かんべん……)と思った。

入院して3日目になった。あの女は現れなかった。数太は、それに一番救われていた。いい睡眠がとれていた。気力が戻ってくるようだった。そしてまずオムツが外され、トイレ、食事、入浴時には、拘束が解かれるようになった。あの女のことを話すべきか悩んでいた。自分は本当に精神を病んで、あんな幻覚を見たのではないかと、自問自答してみた。しかし、どう考えても幻覚と決めるには無理があった。

「もう大丈夫だから、ベッドに縛り付けるの、やめにしませんか?」

朝の洗顔を終えてベッドに横になったとき、数太は紐を手にした屈強な男性の看護師に言った。

看護師の眼に、疑いの色が走った。

「あの女は、もう出てこないから、大丈夫です」

「あの女?」と看護師は右の眉を上げた。

数太はしまったと思った。

看護師は、黙々と数太をベッドに固定し始めた。

言うんじゃなかったと後悔した。

縛られながら、毎日14時からあるカウンセリングのことを思った。担当の医療チームに、10ほど年上の一ノ瀬と言う医師がいた。一ノ瀬には、好感が持てていた。何でも相談できる兄貴のような感じがしていた。あの女の話を一ノ瀬医師にはしようと思っていた。

さて、その一ノ瀬医師は両親を病室へ案内しながら、こんなことも思い出した。それは、数太が豹変したあの日のことである。

あの日とは、数太の父親が手続きのために来院した日のことだ。

入院5日目の8月9日に、数太は拘束から解放されることになった。その日の14時のカウンセリングで一ノ瀬医師は、

「状況を診させてもらって、もう拘束の必要はないなって、判断したんだ。辛かったね。よく頑張ったよ」と、言葉をひとつひとつ丁寧に区切りながら、明瞭な声で説明した。

数太は、鉄格子から見下ろせる外の景色を見るふりをして、滲み出た涙を誤魔化した。

「今日は、数太君の前に現れたと言う女性の話を、もっと詳しく教えてもらおうと思っているんだ」

数太は外を見ながら、背後に座っている一ノ瀬に分かるように頷いた。

「たまたま、駅のホームで出会った女性だったって言っていたけど、そのへんの状況を、もっと教えてもらえるかなぁ?」

一ノ瀬がノートパソコンのキーボードを打つ音を、数太は背中で聞いていた。その時、

「あれ?」と数太は小さな声を出した。そして鉄格子を握り、C棟の真ん前にある駐車場を注視した。駐車場は空(す)いていた。一番端に駐車した車から父親が出て来た。

「とおさん……」と数太は呟いた。そして、

「父が、来てます」と、一ノ瀬の方を振り向いた。

一ノ瀬はパソコンのシステム時刻を見た。14時半に数太の父親が、手続きで事務所に来ることになっていた。ちょっと早いなと思いながら、数太の様子を観察した。肉親を目にして、入院させたことを罵るか、家に戻りたいと動揺するか、いずれにしてもその反応を観察しようと思った。疾患の種類を判断するには、いい機会だと感覚を尖らせた。

「とおさんには、迷惑かけた」と数太は溜息をつくように言った。

一ノ瀬は、過度の境界性パーソナル障害の疑いありとパソコンに打ち込んだ。

「あっ……」

鉄格子を握った数太が、身を乗り出した。そしてまた、「あっ」と言った。

「どうしました?」

「マイがいます」

「マイ?」

数太は頷いた。

「あの女です。あの駅のホームで出会った女が、とうさんの車の助手席に座っています」

一ノ瀬が数太の横に立った。そして「どの車?」と尋ねた。

「あの、端っこの車です」

数太は駐車場を指さした。

数太には、助手席のマイの顎が少し動くのが見えた。それは、このC棟を見上げるような動きに思えた。マイの髪は長い。そのため、この3312号室を本当に見上げたのかどうかは、ハッキリしなかった。しかし、マイはこの窓に立つ自分を確かに見た、と数太は思った。数太は窓から跳ね退き、ベッドの隅っこに肩をすくめて座った。

一ノ瀬は、駐車場の隅っこにポツンと停めてある車を見た。助手席に目を凝らした。誰もいなかった。一ノ瀬が振り返えると、数太は唇を土気色にして震えていた。

興奮が治まらない数太に、強い鎮静剤が打たれた。

数太は深い眠りについた。夢を見た。夢で新宿伊勢丹の交差点に立っていた。

バイト先の居酒屋の藍染めの前掛をつけていた。

(ヤバい。こんなところで怠けていたら、店長にドヤされる)と焦った。

そこへ突然、エレキギターとドラムスをバックに錆びた絶叫が、ネオンだけで縁取られた夢のビル街に轟いた。

音のする方を見ると、大きな光るモノが近づいていた。

(何だろう?)と瞳孔を絞った。

アドトラックのようだった。巨大な看板は、女の写真のようだった。写真の女は、レースのボンネットを被り、ソフトチュールの折り返しのある白い靴下に、黒いエナメルの靴を履き、紺色のロングカーディガンにグレーのタイトスカートを合わせて足をくの字に曲げて横座りしていた。服装と、被り物や履物とは、ちぐはぐな組み合わせだと思った。それに、チェックのベストを着たウサギのぬいぐるみを抱いていた。ウサギは黄色い花を咥えていた。顔は、長い髪に隠れていたが、どこかで見たような感じがした。どこかで……、と言えば、流れていた音楽もどこかで聞いたように思った。この錆びついた絶叫、(これは、リョウさんの声だ)と思った。

アドトラックが数太の横に来た。数太は見上げた。写真の女が少し顔を伏せた。数太は顔を覗き込んだ。顔はますます髪に隠れた。次にぬいぐるみを見た。そしてぬいぐるみを抱く手も見えた。右手首は銀のラメ糸で腕とつながっていた。女はハッとして、その縫い目を左手で隠そうとした。その拍子に、抱いていたぬいぐるみが手元から落ち、数太の足元に転がった。

転がったぬいぐるみは、数太の足首を掴んだ。

目の前の看板そのものが数太の方に傾いた。傾いて、30度ほどの角度を作った。看板の脇に狭い三角形の隙間ができた。よく見るとアドトラックの直方体の看板は、車のダッシュボードの形をしていた。つまり、巨大なダッシュボードが、少し開いたように見えていた。

 ぬいぐるみが数太の足を引っ張った。数太は転んだ。転んだまま数太は、ぬいぐるみにズルズルとダッシュボードの中に引きずり込まれた。

ダッシュボードの中は靄って空気が重かった。息が出来ないだろうと思ったが、出来た。暗くはなかった。ただ靄っていたので、視界は悪かった。

10歩ほど先と思われる場所から、リョウの歌が聞こえていた。そこで10歩ほど歩いた。ちょっとした空間が靄の中に見えた。四角く区切られたスタジオのようだった。壁はセメントで、四隅の柱と梁はスチールだった。そこでバンドが演奏していた。この靄のようなものは、スモークだろうかと思った。

(なら、ここはライブハウスかなぁ?)

数太は目の前の靄を払った。

ドラムマーがいて、2人のギターリストがいて、キーボードがいて……、

(おや? みんなウサギじゃねぇかよぉ。それもみんな、黄色い花を咥えて、演奏しているよ)と、数太は驚いた。

(リョウさんは、どこだろう?)

リョウの錆びた声は、ずっと鼓膜の横で歌っているように聞こえていた。しかしどこにもリョウはいなかった。

曲が、【ジャン!】と最後のフレーズで区切られて終わった。

静かになった。

拍手をしなければ、と思った。

手を叩いた。

一人の拍手は寂しかった。

手を叩くのをやめた。

静かになった。

っと、にわかに【メキメキメキ】と軋む音がした。

壁のセメントに赤褐色のシミが走り、【ポロポロ】とシミが剥がれ落ちた。

柱や梁が錆びつき、腐食した部分が【ボロボロ】と崩れた。

空間が呼吸をし始めたように思った。

『数太。オ前、アンナ病院二居タノカヨォ。チャント、知ラセロヨナ』

それはリョウの声だった。錆びた声が、冷たく濡れていた。

「りょうさん。どこに居るんスッか? 隠れてないで、出て来て下さいよ」

『ココダヨ』

ステージの横に、脚の折れたピアノがグシャッとつぶれてあった。

『ココダヨ、ココ』

声は、そのピアノの方からした。だからそこを見た。

数太は「すーぅ」、っと息を飲んで、「リョウさん」と叫んだ。

つぶれたピアノの下に、大量の血を頭から流したリョウが倒れていた。

そのリョウは笑っていた。

血と唾液の混ざりあったものを、口から吐き出しながら、

『オ前二、オンナ、紹介スル約束ダッタヨナァ』と言って、顎で何かを指した。

指したところは数太のすぐ後ろだった。

数太は身構えた。

後ろに何かがいると思った。

ゆっくり振り向いた。

スモークのような、靄がじんわり引き始めた。

数太は自分がどこに立っているのかハッキリした。

そこは線路の上だった。

線路の上に、足をくの字に曲げて、人形が横座りしていた。

人形ではない。あの女、マイだ。

ダッシュボードの中の空気は重かった。

重かったが、マイの周りだけ、薄く浮いた感じがした。

マイは右手首の銀のラメ糸をキラキラさせながら、髪をかき上げた。

それは、カチカチとコマ送りするような動きだった。

髪の向こうに、数太を見つめる目があった。

目は固まった喜びの色をしていた。

それは人間の目ではなかった。

生がないモノの目。それだけに強くハッキリとしていた。

マイは笑おうとした。とっ、

右の黒目が下瞼の中に落ち、右目が白目になった。

マイは慌てて、右目の下瞼を指で押した。

右の黒目が押し上がって来た。

マイは、恥ずかしそうに笑った。

『ヤット、見ツケタ。心配シテイタノ。モウ、離サナイ』

重い空気の中で聞くあの冷たく濡れた声は、潰されたように響いた。とっ、

その時、足元に振動が起きた。

何かが近づいてくる音がした。

それは電車が近づく音だった。

ヒステリックな警笛が聞こえた。

数太は逃げようとした。

すると背中を羽交い絞めされ、両足を掴まれた。

振り払おうとしたが、凄い力で数太は身動きがとれなかった。

(ひき殺されれる)と思った。

身体をねじった。

(ダメだ)

両脇から肩を掴んでいるものが目に入った。獣の手だった。白い毛むくじゃらの手。その手の主を振り向いて見た。ウサギだった。顔の白い毛を血で汚し、黄色い花を咥えていた。足を掴んでいるのも、血まみれのウサギだった。

【キィーン!】と軋むブレーキの音が、頭蓋骨を痺れさせた。

靄の中からぬっと赤に青のラインの電車が現れた。

「うわぁー」

数太の意識が白濁していった。

身体も白濁していくように感じた。

瞼をカッと見開くと、薄緑色の看護服を着た男数人の顔が見えた。どの顔も、汗を滲ませ、眼光が異様に強かった。数太は、その数人の看護師に押さえつけられていた。両手足と腰が平べったい紐でベッドに固定された。一ノ瀬医師が注射器の針を数太の腕に突き刺した。数太は白濁した意識の中で、注射液が体内に流し込まれるのを見ていた。

 数太の両親は、一ノ瀬医師の歩調に合わせて歩いていた。『岡山慶心会医療センター』の廊下は、その3人の靴音を一糸乱れず反響させていた。唐突に、マリンバの音が響いた。母親はギグッとして立ち止まった。スマホの着信音だった。父親が母親に振り向いて、小さく首を振った。

「もしもし、はい……、はい、そうです。はい、はい、分かりました。それで進めてください。では、よろしく」

一ノ瀬が短い電話を切った。

「失礼しました」

一ノ瀬は祖真帆をポケットに仕舞った。

再び3人は歩き始めた。

「先生、そう言えば、スマートフォンは大丈夫だったでしょうか?」と父親は尋ねた。

「ハァ? 何がですか?」

「いや、数太はスマートフォンを、でぇれえ、恐(きょう)とがっとりましたんで……。前に相談した駅前の先生も、スマートフォンは数太の目の届かない場所にしまっておいた方がええ言われまして……」

1週間前、母親は『岡山慶心会医療センター』からの電話を受け取った。電話は一ノ瀬ではない他の医師からだった。数太のスマホを病院に持って来て欲しいと、その医師は言った。

「スマホを恐れていたことは、存じています。ただ、数太君の症状を診る限り、スマホが精神疾患誘発の直接の原因とは思われません。数太君には強迫性障害の傾向があります。その強迫性障害は、後天的経験によるものではないのです」

「ウチの家系には、そんなもんおりませんが……」

「お父さん、そう言う単純な問題でもないのです」

父親は黙って頷いた。

「スマホが、何らかの関連性を持っている可能性は考えられます。しかし数太君自らが、スマホを手元にしておきたいと、強く希望されたのです。そこに恐怖の要因があるわけないじゃないですか。むしろ数太君の希望を尊重することは、精神医学上有利なものです。私たちは精神疾患の回復過程を3段階に分けております。急性期、消耗期、回復期と、この3つです。現在の数太君は、急性期を克服されつつあります。数太君が身近に持っていたものを、ひとつひとつ自分の世界に戻していくことは、意欲障害を取り除くきっかけになります。ましてやスマホなどは、極めて日常に密着したツゥールです。」

「スマホを見て、暴れたりはしませんでしたか……?」と母親が小さな声で言った。

一ノ瀬は母親を振り向いて、

「大丈夫です、お母さん。いつも手元で大事にしていますよ」と明るい笑顔で答えた。そして、ハッキリとした口調にやや抑揚をつけてこう続けた。

「現在の数太君は、お父さんお母さんが想像されているような状態ではありません。確かに、極度の興奮状態に陥っていたときもありました。数太君は、自分自身の中で生じる妄想に恐怖を感じていたのですよ。」

「ひょっとして、幽霊とかで騒ぎましたか?」

父親は渋面を張った。

「マイのことですね」

「マイ?」

一ノ瀬医師は頷いて、

「はい、先ほどから申し上げています数太君の妄想には、数太君自身がマイと名付けていました。多分マイは数太君にとって、何らかの人格を持った、空想上の存在だと思われます。最初、数太君はマイを恐れ、拒絶しました。手足を束縛された状態での拒絶は、数太君には厳しいものだったと想像されます。しかし数太君は克服しました。マイとの妥協点が形成されたのかもしれません。今では、マイを恋人のように優しく……、いやそれは数太君の思考過程における一種の幻影ですから、私たちは推測するしかないのですが、恋人のように接しています。と言うことがつまり、急性期から消耗期に移行される途中になったと言うことなのです。一歩快方に向かったと言うわけです。ただ、治療の根本は、たとえ妄想の恋人であったとしても、マイから数太君を完全に解放してさしあげることだと思っています。つまり、マイの妄想を抱かないように導くことです。それには、我々と数太君とのコミュニケーションが、もっと深い段階になる必要があります。その段階になるには、もう少し時間がかかります」と言った。

「わかりました。先生、何とか数太を掬ってやってください」と父親は上唇を噛んだ。

「最善を尽くします。あれが数太君のお部屋です」と、一ノ瀬は廊下の奥を指さした。その部屋はC棟3階のどん詰まりだった。312号室と書かれた白い樹脂の札が、緑色のスチールの扉に貼ってあった。札の下にのぞき窓が付いていた。一ノ瀬は、その窓から数太を観察した日々を思い出した。

数太は極度の興奮状態に陥り再び拘束された。『岡山慶心会医療センター』のスタッフは、拘束された数太の錯乱に驚いた。この錯乱状態を家族の人たちは耐えていたのかと顔を見合わせた。数太の絶叫がC棟全体に連鎖した。あちこちで叫び声が起こり、床を踏む音、壁を叩く音がひきつけたように反響した。スタッフは右往左往しパニックになった。

312号室の簡易洗面所の鏡の向こうには、隠しカメラが設置されていた。数太は24時間監視されていた。ところが、モニターの映りが極めて悪くなる時間があった。それは午後9時からの日もあれば、午前2時からの日もあった。ただ必ず数太が312号室で絶叫を上げる時間と重なっていた。乱れた画面のモニターに目を凝らして向かえば、そこに間違いなくベッドに固定された数太は確認できた。数太には、睡眠導入剤や鎮静剤、全身麻酔などが、許容のギリギリまで投与されていた。

「これ以上何が出来ると言うのだ。また例のアレが始まったのだ」と、スタッフはやや投げやりになっていた。

一ノ瀬医師は、持って生まれた几帳面さと担当を任された責任感から、映りの悪いモニターに苛立っていた。一ノ瀬は絶叫が始まるたびに、312号室ののぞき窓を押した。ベッドに拘束された数太は、「ギャー」と絶叫を繰り返し錯乱していた。「やめてくれ。やめてくれ」と拳を固く握りしめ、汗をびっしりかいて手足をもがいた。もがいても、拘束されているので身動きは取れていなかった。腕や脹(ふくら)脛(はぎ)には、血管が浮き出た。眼は固く閉じられていた。200ニュートンの力にもびくともしない拘束の紐が、少し緩んだ。一ノ瀬はのぞき窓から、『頑張れ耐えろ! 頑張れ耐えろ! 妄想に立ち向かうんだ』と数太を心で励ましていた。

 数太には、瞼の向こうに黄色い光のチラチラが見えていた。

警告サイレンの音も聞こえていた。

『カワイイ、カワイイ』と、あの冷たく濡れた声がした。

(マイが、ここにも来た)と愕然とした。

『カワイイ、カワイイ』その日の声は妙に生(なま)温(ぬる)く感じた。

身体が、例えば鉛でできた布団のようなモノに押さえられているようになった。

『カワイイ、カワイイ』

声が耳元で聞こえた。

数太はゾッとした。

(マジかぁ……。今日は、オレの真上に居る)

それを信じたくはなかった。

身動き取れないながらも、押さえつけているモノを払おうと、「わぁーあ、わぁーあ」と喉をひるがえして身体をゆすった。

押さえつけているモノは貼りついたように動かなかった。

全身の毛穴が縮んだ。

目を開けるのが怖かった。

「わぁーあ、わぁーあ」

『コンナ所カラジャア、駅ノホーム二、ドウヤッテモ、連レテ行ケナイジャア、ナイ』

声は顔の真上から聞こえた。

息を止めた。

空気を吸いたくなかった。

『連レテ行ケレナイ』

怖さに耐えきれず目を開いてしまった。

マイの顔が鼻先を接するような間近にあった。

目と目が合った。

『カワイイ、カワイイ』

マイは笑った。

笑って、右の黒目が下瞼に隠れた。

マイは慌てて下瞼に隠れた黒目を、指で押し上げた。

『カワイイ、カワイイ』

マイは数太の首を抱き頬ズリしてきた。

「ウワァーーー!」

『カワイイ、カワイイ』

粘着テープで頬を撫ぜられたように感じた。

「ウォーーー!」

数太の背骨がささくれた。

『コンナ所カラジャア、駅ノホーム二、ドウヤッテモ、行ケナイ。行ケナイ。連レテ行ケレナイ』

マイがまた、数太の目を捉えた。

『ドウヤッテモ、連レテ行ケナイ』

首を抱いていた手が、数太の頭を押さえつけた。

そして数太の目をじっと見つめて、唇を数太の唇に近づけてきた。

数太は顔を動かすことが出来なかった。

女の右の黒目が下瞼へ、左の黒目が上瞼へ隠れた。

ナメクジのようなモノが、数太の唇をこじ開けた。

「ウワァーーー!」

 のぞき窓から室内を観察していた一ノ瀬医師は、これ以上の錯乱状態を危険だと判断した。

スチールの扉を押しながら、看護師に鎮静剤を持ってくるように電話した。

「数太君、落ち着いて、落ち着いて」

一ノ瀬が数太の腕に注射針を刺した。

数太は上半身を上下させながら荒い呼吸を繰り返していた。

心臓の鼓動が眼球の奥を圧迫した。

「落ち着いて、落ち着いて」

一ノ瀬の声は、伸び縮みするように聞こえた。

 拘束されて10日が過ぎた。

数太は、トイレ、食事、入浴時以外には拘束され、拘束されるとオムツが当てられた。つまり入院当初の生活に戻っていたのだ。数太の日常感覚に変化があった。口の中に大きなゴムのスーパーボールを咥えていて、常にそれを奥歯で噛んでいるようだった。312号室の壁や天井、また鉄格子の向こうに見える景色が、凹面鏡や凸面鏡に映したように見えた。人の声や物音が、ツーンと、ちょうど両手で耳を押さえているときのように聞こえた。

 24時間の監視をするため、夜になっても照明は消されなかった。室内の温度は21℃に設定されていた。その日も鎮静剤が打たれ、薄い上掛けが一枚、数太の首まで引き上げられた。数太はスッと眠りに引き込まれ、引き込まれながら、マイは昨晩現れたのか、いや現れたのは一昨日だ、いやいや毎夜現れているのだから改めて考えるほうがおかしい、などと考え……、本当に意識が消えていった。

意識が消えてどれぐらいの時間が経ったか分からなかった。閉じた瞼の向こうに黄色い光がチラチラし、警告サイレンがボッと聞こえた。

マイが今日も来たのだと、恐怖と開き直りの境目を揺れながら思った。

『カワいい、カワいい』と、まず声がした。

冷たく濡れたあの声が、少し乾いて感じた。

『こンナ所からジャア、駅のホーム二、ドウやってモ、連レて行ケナイの』

薄い上掛けの上を、例の鉛の布団のようなものがズリ上がって来た。

数太は金縛りにかかった身体を捩(よじ)って抵抗したが、焦るだけだった。

そしてまさに今、自分の顔の真上にマイの顔があるのだと思った。

(マイには鼓動がない)

そんな事も思った。

息を吸って呼吸を止めた。

瞼を固く結んでやり過ごそうとした。

『カワいい』

数太は首を振った。

(早くいなくなってくれ。早くいなくなってくれ。早くいなくなってくれ)

マイが数太の身体に自分の身体を密着させて上下した。

「うゎぁ」と数太は呻いた。

声にして、しまったと悔いた。

『かワいい』

マイは、身体を滑らせ腰の辺りに下がった。

それは鉛の布団のようなものが下に滑ったので分かった。

もう、真上には顔はないと思ったが目を開けなかった。

腰の辺り、正確には股間がモゾモゾした。

不思議な感覚が数太を貫いた。

さすがに目を閉じていられなかった。

薄目を開けて、そっと足元を覗いた。

まさか。

ぎょっと、した。

マイが男の証(あかし)を舌で甞めていた。

見開いた数太の目と、マイの目が合った。

マイは、少し首を傾けニッコリ笑った。

笑ったとき、右の黒目が下瞼に隠れた。

マイは慌てて指で下瞼から黒目を押し出した。

「ウワァーーー!」

背骨がギュッと絞られた。

数太の絶叫はC棟から漏れた。

ちょうど、エントランスの外灯の下で立ち話をしていた一ノ瀬は、C棟を見上げた。

「失礼」と一ノ瀬は話を中断してエレベーターに走った。そして前ボタンをかけながら312号室に入った。

数太は半開きの白目をむいて、大きく開いた口をアワアワ震わせ浅く短い呼吸を繰り返していた。

『数太君、大丈夫カ?』

一ノ瀬は数太の腕に注射針を刺しながら言った。

数太の薄く開いた目に黒目が戻った。

一ノ瀬の声が、壊れた糸電話で話されるように聞こえた。

一ノ瀬の口の動きを一生懸命に探った。

見上げる光景に、ジージーと電子ノイズのようなものが走った。

すべてが遠のいていく感じがした。

自分ひとりが取り残されたような心細さに耐えられなかった。

何かに縋りたいと思った。

 それから一週間が経った。毎夜、強い鎮静剤が投与されていた。数太は夜を怖がった。

「先生」と数太はブランジャーロッドに押し出される注射液を見ながら言った。

「一緒に、この部屋で寝てくれませんか?」

一ノ瀬は、隈で黒ずみ落ちくぼんだ数太の目を見た。そして注射針を抜いて保護パットを貼ってから、

『ココに、居てアゲたいノダよ。けドね、他ノ患者さンノ事もアルカら、そうハ、イカないンダ。分かっテクレるよネ』と立ち上がった。

数太は眉間を縮め、唇を血の気がなくなるほど真一文字にした。薄らぐ意識の中で、ドアーノブのない扉を閉めようとする一ノ瀬にもう一度、

「せんせい、ここに居てくれま……」と、そこまで言葉にできた。が、そこまでだった。そして沼のような眠気に引き込まれていった。引き込まれた先で【パチリ】と音がして目が覚めた。そこは天井の高い部屋だった。見覚えのある部屋だと思った。【ジー】と言う音がしていた。音のする方を見た。扇風機のタイマーの音だった。

(さっきの音は、扇風機のタイマーが切れた音かぁ)

拘束されていなかった。

数太は半身を起こした。

目を横にすると閉まった襖があった。

襖の絵は松原だった。

(あれ、ここ、ばあちゃんの家だ)

そう思った瞬間に、襖は左右に【パン】と言う音を立てて開いた。

開いた先にも襖があった。

その襖も【パン】と言う音を立てて開いた。

その先にも襖があった。

【パン】、【パン】、【パン】。5枚の襖が開いた先に、蚊帳を吊った部屋があった。

蚊帳は首を振る扇風機の風に揺れていた。

蚊帳の中に、背をこちらに向けて座っている老婆がいた。

「数太、一人でよう寝れんけん、ここに来たんか」

「ばあちゃん!」

「弱虫じゃなあ数太は……」

祖母は背を向けたまま肩を揺らして笑った。

「オレ、ばあちゃん、幽霊を見たんじゃ」

「幽霊を?」

「ほん。幽霊を見たんじゃ」

「アホか、数太。気のせいじゃ」

「気のせいじゃあねぇでぇ。オレ、見たんじゃ。変な写真を撮ったけん、憑りつかれたんじゃろうか……」

「なにボケたことを言(ゆ)うとるんじゃ。早う、寝え」

「ばあちゃん、怖ぇえんじゃ」

祖母は振り返ろうと頭を少し動かしたが、振り返らず、

「数太。お前、ココが変になったと違うか?」と頭を人差し指で示した。

「違うんじゃ。本当(ほんま)に幽霊は居(お)るんじゃ。玲奈も見たんじゃ」

「玲奈? おお、あの女子(おなご)のことか。お前も分かっとたんじゃろう……。幽霊が出たちゅうイチャモンを付けて、お前から逃げたかったんじゃ」

「……」

「数太。女子には用心せなぁ~いけんなぁ。……。早う、あっち行って寝え。なんもかんも、気の持ちようじゃあけん」

そう祖母が言い終わった途端に、【パタ】、【パタ】、【パタ】、【パタ】、【パタ】と5枚の襖が閉まった。

数太は「気のせいじゃ、気のせいじゃ」とつぶやいて、布団に横になった。

「気のせいじゃ、気のせいじゃ」と天井に目をやった。

天井は杉板貼りだった。

その木目が動いたような気がした。

「気のせいじゃ、気のせいじゃ」と目を閉じた。

閉じた瞼の向こうに黄色い光がチラチラし、警告サイレンがボッと聞こえた。

数太は強く強く瞼を固めた。

すると「かわいい。かわいい」と声がしてきた。

「気のせいじゃ、気のせいじゃ」

数太は繰り返した。

「ここからだと、連れ出せない。代田橋のホームに連れて行けない」

身体が重くなったように感じた。

上にマイが乗っていると思った。

(絶対に目を開けんでぇ)

歯を食いしばった。

「数太君、寂しい。いつも一緒にいたい。わたしを、車のダッシュボードから出して、ここにずっと置いて。数太君」

その声は冷たくもなく濡れてもなく、乾いたものでもなかった。

ただただ異様に生々しいと思った。

(絶対に目を開けんでぇ!)

急に下半身にくすぐったさを感じた。

「数太君、寂しい。いつも一緒にいたい」

脳味噌を腐らせるような痙攣が走った。

「車のダッシュボードから出して、ここにずっと置いて……」

(早う、おらんようになってくれ。早うぉ)

股間が冷たいジェルで包まれたように感じた。

(絶対に目を開けんでぇ!)

数太は不気味で不気味で、そして不安で、悲鳴を上げそうだった。

下の方から【クチャ、クチャ】と音がした。

もう耐えられなかった。

目を開けてしまった。

足元、正確には太ももの上に、半身を立てたマイが見えた。

紺のロングカーディガンは右肩から外れていた。

グレーのタイトスカートは腰に幾重もの皺を作って寄っていた。

長い髪が顔を隠していた。

隠していたが、ちらちらあの白目が見えた。

マイの身体は揺れていた。

揺れるたびに、股間が締め上げられた。

思わず声が出た。

「ウワァーーー!」

マイの動きが止まった。

髪から透見できる右目の下瞼から黒目が上がった。

「大丈夫、数太君。今日は安全だから」

マイは口を動かさずにそう言うと、皺の寄っていたスカートを手繰り上げて見せた。

そこは赤黒い血で汚れていた。

「ウォー、ばあちゃん! 気のせいじゃあねぇ!」

マイの背後に見える天井の木目がウネウネと動き出した。

マイがその木目の動きの中に溶け始めた。

マイの顔と言わずすべての輪郭が、木目と見分けがつかなくなった。

身体が硬直するような衝撃が数太を貫いた。

「ウワァ……」

木目の動きが緩くなり、再び像を結び始めた。

その像は次第にハッキリしてきた。

それは心配そうに数太を見下ろす一ノ瀬の顔であった。

『心電図ハ?』

『少シ落チ着イテきマした』

『数太君。僕ガ分カルカ?』

その声は深海で通信しているように聞こえた。

『スウタ君! テ島(じま)クン!』

一ノ瀬や看護師が、通信の悪いストリーミングの動画のようにガクガク動いて見えた。

脳に薄い膜がかかったようになり、数太はまた目を閉じた。

 その夜をピークにして、数太は落ち着きを取り戻した。落ち着いてきたと言うより、思考を止めているようにも見えた。一ノ瀬達の担当医チームは急性期を脱した症状だと判断した。食欲や睡眠に大きな改善が見られた。そこで投薬治療は一時中止することにした。やがて暴れる兆候が全く見られなくなった。担当医チームは、数太の疾患名を狂暴化と沈静化を定期的に繰り返す一種の統合失調症ではないかと診断を出した。そのミーティングではまた、数太の特異な事例が紹介された。数太は沈静化するにしたがい夢精を繰り返していた。数太はオムツをあてがわれていたので、一ノ瀬に毎日スタッフから報告されていたのだ。

 一ノ瀬は数太の父親に笑顔で言った。

「数太君を、もう束縛などはしておりません。数太君は穏やかに療養なっています。ところでお父さん、数太さんの部屋をご覧になると驚かれると思いますよ」

「はぁ?」

「まあ、どうぞ、百聞は一見に如かずです」

数太の部屋の前に3人は立った。一ノ瀬医師が覗き窓から室内を伺った。その伺った顔を笑顔にして、両親に振り向いた。一ノ瀬医師は暗証番号を押してドアーのロック外した。ドアーを開くと、

『数太君。今日ハお父さントお母サんガ、いらッしャっテイまスよ」と声を掛けた。

両親は硬い表情で部屋の中を見た。見て目を疑った。壁と床いっぱいに、絵が描かれていたのだ。数太は水色の作務衣のような患者衣を着て、鉄格子の嵌った窓の下の壁に向かい座っていた。両親は医師に続いて部屋に入った。数太は振り向かなかった。一心不乱に絵を描いていたのだ。数太が手にしていたのはチョークだった。両親は部屋の中を見回した。絵本の中に入ったようだった。

鉄格子の嵌った窓は、床から120センチの高さの位置にあったが、その窓の下枠のラインを天辺にして、左右の壁に石のブロックが積み重なった塀のような絵が描かれていた。積み重なったブロックの上に、パン屋、花屋、ブティック、ヘアーサロンの看板を掲げた、カラフルで可愛らしい家が並んで見えていた。それはブロック塀から見える街のようだった。青空も、水色のチョークで丁寧に描かれていた。花が咲く木立も見えた。木の幹には顔があった。そして木は歌を唄っているのか、口から音符を吹き出していた。音符と言えば、梢に並ぶ鳥の嘴からも飛び出していた。6色のチョークだけでよくここまでリアルな景色が描けたものだと、両親は感心した。感心したが、

「こんなに部屋にいたずら書きをして、すいません」と詫びた。

「いえいえ、お気になさらないで下さい。チョークですから、ご退室時に簡便なクリーニングをすれば問題はありませんから」

「もし、ご費用が掛かるようでしたら、言って下さい」

「はい。その時は遠慮なく相談させていただきます。しかし、消すのは勿体ない気がします。ここまで上手に描かれると……」

「数太は、子供の頃から絵を描くことが好きでして、ここでお世話になるまで、東京の服飾の専門学校に通っとりまして」

「ええ、伺っています。デザイナー志望だったとか」

「はい」

「私ども精神科の医師が行う治療方法のひとつに、絵画療法と言うものがあります。数太君は、私たちが絵画療法を提案する前に、ご自身から絵が描きたいと申し出られました。通常は、画用紙とかクレヨンとか用意させていただくのですが、数太君は、このコンクリートの床にチョークで絵を描きたいと言われ……。ハハァ。結局、壁にも絵は進出された訳です」

両親は申し訳なさそうに頭を下げた。

『数太君。今日モこノ道に、絵ハ描カなイの?』

一ノ瀬医師は、数太が座り込んだ床を指さして尋ねた。数太は黙って頷いた。床にもベッドの下まで草や花や石がぎっしり描かれていた。ただ壁のすぐ下に小道のような1メートル幅の空白があった。

「数太君は、この1メートルの空間には手をつけないのです」

両親は、部屋の右から左に走るコンクリートの床を見た。部屋全体がチョーク絵で溢れかえっていたので、その何も描かれていない空間は目立った。道のように見えた。

『数太君。マイさン、今日ハ来タノ?』

数太はそれには反応しなかった。ただ、黙々と壁に花の絵を描いていた。

母親は数太の横に膝をついた。

『数太、元気シとるカ?』

数太はチョークを動かす手を止めて母親を見た。そして静かに笑った。母親は感じた。状態は確かに安定していた。しかし、その目は以前のものではなかった。数太はもう、手に届かないところに行ってしまったのではないか。母親は悲しく思った。

『数(スォウ)太(たァ)』母親は数太の手を握った。数太は母親の手をじっと見た。

「先生」と数太の後に立っていた父親が言った。

「数太の襟足の傷が大きゅうなっとりませんか。ここに入院した時は、ここまで大きゅうなかったと思うのですが」

一ノ瀬医師は数太の襟足を見た。

「もっと小さな傷でしたか?」

「はい。点々とした傷で、こんな引っ掻き傷のような線はなかったと思うとります」

「そうですか。室内には、突起物は一切ないので、傷がひどくなる要因は考えられないのですが……」と言って一ノ瀬医師は数太の首を覗き込んだ。

「治療しながら経過観察をします」

「はぁ」と父親は頷いた。頷いて数太の横に屈み込んだ。それは母親の反対側だった。数太は父親を見た。そして笑った。

『数(スゥゥ)太(タァ)、絵ガ出来上ガッタラ、トウサンとカアサンにラインで送ッテクレェナぁ』

父親も分かった。数太の目が、父親の自分ではなく、どこか遠くを見つめていると……。

そしてその両黒目は中心から微妙にズレ、互いに逆の外側に少しだけひろがっていると感じた。

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