第21話

 数太たち家族は、マンション3階の角に住んでいた。数太の部屋の窓の下には、山茶花の植え込みがあった。呼んだタクシーを待つ両親は、その植え込みから数太の部屋の窓を見上げた。10メートルはないだろうが、高さはあった。数太が飛び落ちたと思われる植え込みに、窪んだところが出来ていた。

「あんた。数太の怪我は大ごとになっとらぁへんかなぁ?」母親の声は暗かった。

「行ってみんと分からん」

岡山から品川、品川から新宿、新宿で京王線に乗り換えて笹塚に着いたのは、12時前だった。笹塚中央病院は駅の近くにあった。

「どこで怪我されたのですかなぁ」

笹塚中央病院の医師は、眠る数太の顔を覗きながら言った。

「傷口の様子から察しますと、昨晩、怪我をなさったようですなあ。骨には、損傷はありません。まあ、そんなにご心配はされませんように。ええ、はい、まあ打撲はしていらっしゃいますよ。ご本人は痛かったと思います」

両親は、マンションの窓から飛び降りたとは話さなかった。

 笹塚中央病院に駆け付けてくれた警察官は、代田橋駅での状況をこう説明してくれた。

「息子さんは、すんでのところで、電車に接触するところだったのです。はあ、代田橋駅のホームでです。いや、たまたま早出の駅員が息子さんを、モニターに発見しましてね。フラついてホーム端に立っていらっしゃったので、酔っ払いだと勘違いしまして、線路に落ちたら危険だと駆けつけたんですよ。そこを丁度、特急が通過しましてね。危機一髪だったそうです。息子さんは、意識が朦朧としていて、あちこちに傷を負って、ズボンが血で汚れていましたでしょう。駅員は、ビックリしたようで、交番に連絡してきまして……」

 数太は、翌日に退院した。そしてその日の最終の新幹線で岡山の自宅に戻った。

「何で、東京に行ったんじゃあ?」と父親は優しく尋ねた。

数太は、右の膝から足首まで大袈裟に包帯を巻いていた。

「大事なもんでも、取りに戻ったんか?」

数太は自分の部屋のベッドに横たわって父親をじっと見つめた。

「とうさん。オレ、幽霊を見たことがある」

あれが本当の幽霊だったのか、数太にはまだ整理出来ていなかった。整理出来ていなかったし、ましてや憑りつかれているなどと、思いたくもなかった。気持ちのどこかで、父親に強く否定してもらいたかった。

「ほん、幽霊か。お前は小さい頃、幽霊を恐(きょう)とがっとったなぁ」

父親はベッドの脇に立てかけた松葉杖をずらし、上掛けを数太の首まで引き上げた。窓は開けられないように、そしてガラスを割らないように、ベニア板が打ち付けてあった。

「足は痛(いと)うねえか?」

数太は頷いた。

「そうか。何かあったら、いつでも父さんを呼べえなぁ。すぐ来ちゃるけんなぁ」

数太は3錠の睡眠導入剤を飲んでいた。1錠と処方されていたが、極度の興奮状態の場合、3錠まではと許されていた。数太は自分が情けなく、瞳に涙の膜を張っていた。ただここは代田橋の部屋ではなし、スマホも目に入らなかった。薬も効いてきた。

「よお、寝るんじゃでぇ」

父親はそう言って、部屋の照明を消した。

 父親が照明を消して数時間が過ぎた。

数太は耳障りな音に眠りが浅くなった。

音は警告サイレンのようだった。

暗い瞼に点滅があった。

瞼を開けようとした。瞼は重かった。眉間に力を込めた。力を込めたら、瞼がパッと開いた。部屋に【ガリガリ』と何かを剥がす音がしていた。

数太は横向きで寝ていた。目の先に本棚があった。本棚にはガラス戸が付いていた。そのガラス戸に、微かな光を受けて、数太の背後のべニア板が映っていた。それが窓を塞いだ板だった。【ガリガリ】と音がするのは、その板からだった。

数太は、また悪い夢でも見ているのかと身構えた。

身構えて正面のガラス戸に目を凝らした。

べニア板の角が破れていた。

そこから黄色い光が間欠的に射し込んでいた。

(とうさんは角が破れた板を張ったのか)と思った。

眠かったので黄色い光を不思議とも思わなかった。

べニア板のほうに寝返った。

寝返ったとき、目を疑った。

そして「うっ」と息を飲んだ。

真上の天井に、女が長い髪を数太の方に垂らして貼り付いていた。女は捉えどころのない白目で、べニア板の破れた箇所を見ていた。そしてあの千切れた右手をもどかしく動かしながら、爪を立ててべニア板を剥がしていた。無表情の中に切実があった、ように感じた。

「うわぁ!」数太はベッドから跳ね起きた。

女の右の黒目が下瞼から、左の黒目が上瞼からギョロリと覗いた。

女と目が合った。

数太はベッドから滑り落ちた。落ちた拍子に脛が疼いた。疼いた脛を抱えてその場にうずくまった。うずくまった視線の先に、本棚のガラス戸があった。

『ジャマナノ、ジャマ。コノ板ガ、ジャマナノ。手伝ッテ』

あの冷たく濡れた声が天井から聞こえた。

恥ずかしそうに、気弱そうに、懇願していた。

と、その時、女のべニアを搔きむしる右手首が、ポロリとベッドに落ちた。落ちたときに見えた手首の切断口は生臭く感じた。

「わぁー」

数太は本棚のガラスを松葉杖で打ち砕いた。

背後で何かが動いた。

【ペキペキ】とべニア板が剥がれる音がした。

数太は振り向いた。

千切れた右手首が、ベニア板を剥がしていた。

天井に貼り付いた女は、自分の手首の動きを見つめていた。

数太は「うぉー」と声を張り上げ、女に向かってに松葉杖を振り上げた。

女が悲しそうな顔をした。

数太の手が止まった。

女が笑った。

きれいな笑顔だと思った。

『カワイイ』天井から冷たく濡れた声がした。

【ベキッ】と、ベニア板が大きく縦に裂けた。板を掴んだままの手首は、板と一緒にベッドに落ちた。

板が剥がれたところに窓がのぞいた。

窓の向こうで黄色灯が回っていた。

警告サイレンの音も聞こえた。

落ちた手首が板の剥がれた部分に這い上がた。

這いあがってから、またべニア板を剥がし始めた。

手首に絡まった銀のラメ糸がゆらゆら揺れていた。

「わぁー」

数太は手首に向かって松葉杖を振り上げた。

すると天井に穴が開いた。

松葉杖を思い切り振り下ろした。

今度は窓ガラスが割れた。

部屋のドアーが開いた。

数太はドアーを振り向いた。

開いたドアーに向かって松葉杖を振り上げた。

「量次。お前、足を抑えろ。とうさんは、腕を抑える。ええか」

腕と足を抑えられた数太は肩で息をしながら、泣き崩れる母親を見つめていた。

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