第20話
数太の量(りょう)次(じ)は、母親が何度注意しても食事中にスマホを弄(いじ)る事をやめなかった。数太を『メンタルクリニック』に連れて行ったその日、父親は量次を自分の部屋に呼んだ。夕飯前だった。
「もう、分かっとるじゃろうけど、数太はココの病気になっとるんじゃ」と、頭ではなく心臓の辺りを押さえて父親は切り出した。量次は神妙な顔で頷いた。
「何でかぁ知らんけど、スマートフォンを見ると数太は怖がるんじゃ。じゃけん、量次。お兄ちゃんの前ではスマートフォンは弄ったりせんようにしてくれえなぁ」
数太のスマホは、『メンタルクリニック』の帰りに、車のダッシュボードの奥に隠した。
「ほん、分かった」
「あと、お兄ちゃんのことは、人には言わんようにせえなぁ」
「言わん」
「その内、治ると医者も言うとったけん、安心しとけ。とにかく変な噂されたら、大事(おおごと)じゃけんな。親戚にも言(ゆ)うたらいけんで」
「ご飯が出来たでぇ」台所から母親の声がした。
「ええかぁ量次、もうご飯を食べながらスマートフォンを見たらいけんでぇ」
量次は大きく頷いた。
夕飯のテーブルの上は賑やかだった。父親は5品以上のオカズが並ばないと不機嫌であった。テーブルは隙間がなく食器で埋まっていた。口数も少なく、食事は淡々と進んでいた。数太はさっきから、襟足に例の軽い痛みを感じていた。グラスを手にして水をゴクリと飲んでみた。その拍子にグラスの金彩の輪が、カラリと外れてテーブルに落ちた。落ちた金彩は車輪のようにコロコロと転がった。転がる金彩をジッと見つめていたら、いつの間にか小さなウサギがそれを追いかけていた。ウサギはチェックのベストを着ていた。数太は、
(あっ、笹の葉っぱに乗っていたウサギだ)と思った。
(ウサギ、ちょっとだけ大きくなっている)
ウサギの口を見たら、やっぱり黄色い花を咥えていた。金彩の輪は、【キリッン、キリッン】と音を立てて、テーブルの上の、食器の間を転がっていた。転がった道筋には、茶碗や皿や小鉢の模様がハラリと剥がれ、そこに薄い立体の景色を作っていた。ヒラヒラと花や鳥が揺れ、丸や三角や菱形の幾何学模様がダンスをした。転がる金彩とそれを追いかけるウサギは、皿の下や小鉢の陰に、隠れたり現れたりした。数太はそれを、目の玉をクルクルさせながら追いかけた。
母親は水もお茶もコーヒーも、お気に入りのマグカップで飲んでいた。それはエルメスのマグカップで、裾にぐるりと草むらが描かれていた。その草むらもハラリと剥がれた。金彩とウサギがその草むらに紛れ込んだ。
数太は(あれ? どこに行った)と思いながら、草を掻き分けた。【キリッン、キリッン】と金属の音がした。音がしているところで、ウサギと金彩は追いかけっこをしているのだろうと思った。数太は音がする方を掻き分けた。その時、脛が痛いと思った。脛を見たらズボンに血が滲んでいた。蛸唐草模様の靄が、数太の目の前を一陣の風のように過ぎ去った。
(いつ、こんな傷が出来たのだろうか? ひょっとしたら、草むらに落ちた時だろうか? しかし、いつ草むらに落ちたのだろうか?)
数太はズボンの裾を捲り上げた。思った以上にひどい傷だった。
【キリッン、キリッン】とまた音がした。
草を掻き分けた。
掻き分ける先を、ヒラヒラと青海波模様の靄が漂っていた。
その靄の後を、丸や菱形の幾何学模様が渦巻きながら従った。
草むらの中にちょっとした窪地があった。
その窪地を忍び足で覗いてみた。
花を咥えたウサギが金彩の輪を弄んでいた。
数太は身を乗り出した。
紙のような草はカサコソと音を立てた。
ウサギは数太の方を見つめた。
ウサギと数太の間に麻の葉模様の靄が流れた。
ウサギは金彩の輪を腕に通して、それをクルクル回した。
ウサギは金彩を腕から抜くと、それを放り投げた。
投げられた金彩は【キリッン、キリッン】と転がった。
それをウサギが追った。
数太はそのウサギを追った。
脛に温かいものを感じた。感じたが、夢中だったので脛を顧みなかった。
やがて草むらを抜けた。
少し離れた場所にウサギがいた。
金彩の輪を両手に持って、赤い目で数太を待っていた。
ウサギの背後に色とりどりの幾何学模様がひしめき合っていた。
ウサギの口から黄色い花が落ちた。
落ちた花を見たとき数太は、(しまった。ウサギを追いかけてはいけなかったのだ)と気付いた。
ウサギは手にした金彩を数太に向けて投げた。
金彩は数太の頭上に差し掛かり、今にも数太の身体に嵌(はま)りそうだった。
そこを、数太は後ろから肩を掴まれた。
数太は姿勢を崩した。
金彩は地面に落ちて、【キリッン、キリッン】と音をたてて、あらぬ方に転がって消えた。
数太の父親は、スマートフォンの着信音に起こされた。土曜日の午前6時前だった。スマートフォンを手探りしながら、そう言えば昨日も早朝に起こされたのだと思い出した。昨日は数太に振り回された一日だった。身も心も疲れ切っていた。ゆっくり休みたい朝だった。スマートフォンには、03から始まる電話番後が表示されていた。
「はい、手島です」機嫌の悪い声が出た。
「手島数太さんのお父さんですか?」
顔から血の気が引いた。静かに起き上がり、寝室を出た。
そして歩きながら答えた。
「はい、数太の父親ですが」
母親は台所で朝食の支度をしていた。数太の部屋は玄関の横だった。量次はまだ寝ていた。
「わたしは、東京の代田橋駅前交番の者です」
「あっ、はい」
父親は数太の部屋のドアーを見た。睡眠遊行を懸念してドアーノブの横の桟にネジを挿し入れ、そのネジとドアーノブとを紐でグルグル巻きにしていた。数太の部屋には防災用の簡易トイレまで用意したのだ。ドアーに開いた気配はなかった。
「数太君は、わたくしどもでお預かりしております」
「数太が、東京にいると言うんですか? 人違いではないですか?」
父親はドアーに耳を寄せ部屋の中の様子を伺った。静かだった。
「数太君の財布に学生証が入っておりまして、それを頼りに、電話させていただいております」
「数太は、岡山におりますが……」
父親はスマートフォンを耳から落ちないように肩で押さえて、ドアーノブの紐を解いた。
「財布の中に、岡山発の深夜バスのチケットがありましたので、昨晩、岡山を出られたのではないかと思います」
父親は数太の部屋のドアーを開けた。ベッドに部屋着が脱ぎ捨てられていた。布団を捲(めく)った。数太はいなかった。ベッドの横の窓が開いてカーテンが揺れていた。
「実は数太君、下腿(かたい)に怪我をされておりまして、笹塚中央病院でお預かりしている次第で……」
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