第19話
数太はその日の昼前、父親に連れられて岡山駅前の『メンタルクリニック』に行った。結局、内科の小川医院ではなかった。父親は会社を休んだ。母親も付き添った。
医者は数太の眼球を観察し、脈拍と血圧を測り、採血を行い、心電図を取った。そして数太に様々な質問を試みた。数太は返答の言葉を必死に探った。精神科の医師は、自分を整理するには、絶好の相手だと思った。
(事実を話せばいいんだ。この目で見た事実を)
話す言葉は見つかっていた。ところが口が動かなかった。
(あれは、本当に口にしていい事なのだろうか?)
まだ吹っ切れていなかった。だから口が動かなかった。喉を絞る努力もした。やはり口は動かなかった。
(動かない方がいいのかもしれない。どうせ信じてくれないだろう。それに、もし口が動いてあのことを言葉にしたら、今いるこのクリニックが、代田橋の部屋になってしまいそうだ)
それほど数太は怖がった。本当はこのまま言葉にしないで、全て無かった事にしたかった。
「では数太君、今日が何月何日か分かりますか?」
数太は医師の顔を見た。医師は笑っていた。
「先生。オレ」
やっと口が動いた。医師の笑顔の皺が一層優しくなった。
「先生、オレ、幽霊を見た」
医師の顔が曇った。しかしすぐ笑顔に戻った。笑顔に戻って医師は2度頷いた。数太は看護師に連れられて診察室を出た。医師は両親に質問した。
「数太君はああ言う、意味不明なことを、何度か口にされましたか?」
「はぁ。笹の葉にウサギが乗っているとか、今朝も言っておりましたが……。夢の話をしとるものと思っとりまして」
「大声を出して、暴れたと言うのですね?」
「私たちの前では、暴れたりしておらんのんですが、あの子の友達がそう言(ゆ)うとりまして」と母親が答えた。医師はパソコンのキーボードを叩いた。
「部屋をロープとテープで塞いでいたのですね? あと、首に傷も付けていた」
「傷は、見て頂いた通り、何かで引っかいたものがありまして……。」
「そして、睡眠遊行ですね?」
父親は眉を迫らせて頷いた。
「東京の部屋をロープやテープで塞いでいらっしゃったのは、睡眠遊行を恐れての配慮かもしれませんね」
医師はパソコンに向かって言った。
「ああ、なるほど」
「スマートフォンを異様に怖がる……?」
医師は顎だけ父親に向け、念を押すように尋ねた。
「でっ、先生、どんな具合なのでしょうか?」父親は喉仏をゴクリと動かした。
「症状から申し上げますと、多分、心的外傷後ストレス障害でしょうなぁ」
「ストレス?」
「はい。数太君は、何か強烈な出来事に出会ったのでしょうね。それがストレスになりまして」
「どんな出来事でしょうか?」
「それを、時間を掛けて聞き出して、数太君をストレスから解放させることが、治療のポイントになります。数太君は、ストレスからくる失声症に罹っていらっしゃる可能性もあるようです。ですから、何がストレスの要因になったか、今は聞き出すことが困難です」
「治りますでしょうか?」
「治ります」
父親の顔から緊張が脱げた。
「今、数太君は、極度の不安と緊張を感じておられる筈です。状況によっては、自分と言う感覚もないのかもしれません。徘徊をしたと言うのは、その表れです。今後、フラッシュバックのように、ストレス時の感情や感覚を思い出し、記憶の一部がすぽっと消失し、今自分がどこで何をしているのか分からなくなる現象が発生するかもしれません。幻覚を見られる可能性も充分にあります」
「どれぐらいで回復しますでしょうか?」
「いろいろな治療法を試みます。先ほど申し上げた、会話を重ねストレスの要因を取り除く手法や、一定の眼球運動を促し、脳を整理してもらう治療などです。ただ、ご理解いただけると思いますが、これは数太君のコンディションと相談しながら進める治療です。ですから、具体的な時間の約束は難しいのです。早ければ、3か月。状況によったら、3年」
「3年!」
「一応それぐらいのスパンで、考えられておられた方がよろしいかと」
夫婦は顔を見合わせ、大きく溜息した。
「まずは、投薬療法から初めていきます。抗うつ薬と自律神経失調症薬をお出しします。また食欲減退や、不眠などに襲われる可能性がありますので、食欲増進剤や、導眠剤も処方いたします」
両親は、一つ一つの薬の名前に目を白黒させた。
「一番重要なことは、ご家族の方のご理解とご協力になります。数太君の言動に対して、極度に逆らうと言った反応はなさらないで下さい。また、曖昧な作り笑顔などで物事を誤魔化したりもなさらないで下さい。いいモノはいい、悪いモノは悪いと、根気良く丁寧に説明していって下さい。最後に、数太君が恐れているスマホにつきましては、ご家族のみなさんのそれも含めて、数太君の目に入らないようにして下さい」
「先生」と母親が訴えるように言った。
「そのスマートフォンの中味に何かあって、数太は変になったんじゃあないでしょか?」
「可能性は充分にあります。メールやラインのやり取りで、精神に異常をきたした事例は、精神学会の専門誌にも、多数報告されております」
母親は、膝の上のバッグの取っ手をグッと握った。何か言おうとしたのだ。
父親が数太のスマートフォンを医師の机の上に置いた。
「今、流行りのイジメがあったとか……」父親の語尾は濁っていた。
「お父さん、スマホの内容に直接切り込んでいくのは、非常に危険です。また、わたしたちがスマホの中の情報から、数太君のストレス要因を推測して、誤った治療を進めることも危険です。ご理解いただけますか?」
母親の指先から力が抜けた。
「数太君のスマホがこれですか?」と医師はスマートフォンを手にした。
「中は見られました?」
「暗証番号が分からんもので……」
「そうですか」
医師は、パソコンのキーボードをたたき始めた。
「一旦は、このスマホと切り離して治療を進めましょう。メンタルの治療には、焦りは禁物です。慎重に、かつデリケートに進めさせて下さい。このスマホは、数太君の目に入らない場所で、保管しておいて下さい」
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