【短編小説】四枚目のチャーシュー(約6,200字)
藍埜佑(あいのたすく)
【短編小説】四枚目のチャーシュー(約6,200字)
# チャーシューの向こう側
## 第1章:涼子とチャーシュー
季節は冬の終わり、夜の足音が忍び寄る頃だった。出版社「創文堂」の編集部で、葉月涼子は溜め息をついた。デスクの上には却下された企画書が山積みになっている。料理本担当として3年目、同期の中では最も実績が少ない編集者という現実が、重たい鉛のように彼女の肩に乗っかっていた。
「葉月さん、企画会議の資料、できました?」
先輩の声に、涼子は慌てて画面を切り替えた。
「あ、はい! 今、最後の確認をしているところです」
嘘だった。まだ半分も書けていない。
時計を見ると午後9時を回っている。今夜も終電になりそうだ。
結局、資料は深夜までかかって何とか完成させた。駅を出ると、冷たい風が頬を刺す。疲れた体には、温かいものが欲しかった。
「龍の巣」の暖簾が、風に揺れているのが見えた。
涼子の行きつけのラーメン店である。豚骨と魚介のダブルスープは、疲れた体を優しく包み込んでくれる。店主の高城さんは無口だが腕の確かな職人で、彼の作るラーメンには誠実さが染み込んでいた。
暖簾をくぐると、馴染みの香りが鼻腔をくすぐる。
「いらっしゃいませ!」
カウンター席に座り、いつもの特製ラーメンを注文する。
「お待たせしました」
高城さんが丁寧に置いたラーメンから、湯気が立ち上る。トロリとした豚骨スープに魚介の風味が溶け込み、完璧な麺の茹で加減。そして、とろけるような柔らかさの大判チャーシュー。
涼子は箸を持ち上げ、まずはスープを一口。温かさが体の芯まで染み渡る。
「ふぅ……」
まるで魔法のように、仕事の疲れが溶けていく。しかし、その安らぎは長くは続かなかった。
ふと隣の席に目をやると、見慣れない男性客のラーメンには、チャーシューが5枚。涼子のは4枚だ。普段なら気にも留めないような些細な違いが、今日に限っては妙に引っかかる。
「あの、すみません」
声をかけると、高城さんが振り向いた。
「はい?」
「隣のお客様のラーメン、チャーシューが5枚のようですが……私のは4枚なんですけど」
高城さんは一瞬驚いたような表情を見せ、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。
「ああ、申し訳ありません。今日はお誕生日の方への特別サービスでして」
隣の男性が申し訳なさそうに笑う。
「すみません。今日、誕生日なもので」
「あ、そうだったんですね。おめでとうございます」
涼子は精一杯の笑顔を作って言ったが、何とも言えない気持ちが胸の中でモヤモヤと広がっていく。
家に帰る道すがら、涼子は考え込んでいた。たかがチャーシュー1枚の違い。でも、なぜかその「差」が気になって仕方がない。
マンションの部屋に戻り、暗い部屋で携帯をいじっていると、同期の SNS が目に入った。新企画が通った報告と、華やかな打ち上げの写真。「いいね」の数は、すでに3桁を超えている。
涼子は深いため息をついた。この半年で企画を7本ボツにされ、新刊の担当も回ってこない。同期は次々と実績を重ねているというのに。
「私も、頑張ってるのに……」
呟いた言葉が、暗い部屋に吸い込まれていった。
## 第2章:龍の巣の人々
それから数日が過ぎた。涼子は「龍の巣」に足を運ぶのを躊躇っていた。あの夜の自分の態度が恥ずかしく、高城さんの顔を見る勇気が出なかったのだ。
しかし、疲れた帰り道に立ち寄る場所を失ったことで、心の中に大きな空洞ができてしまったように感じる。結局、一週間後、涼子は再び「龍の巣」の暖簾をくぐっていた。
「お久しぶりです」
高城さんは、いつもと変わらない穏やかな表情で迎えてくれた。
カウンターに座ると、隣には年配の女性が一人で黙々とラーメンを食べていた。エレガントなスーツ姿で、きりりとした印象だ。
「いつもの特製で」
涼子が注文を告げると、女性が顔を上げた。
「あら、あなたも編集者?」
女性の視線は、涼子が抱えていた企画書の束に向けられていた。
「え、はい……創文堂で料理本を担当しています」
「まあ、私も昔は創文堂にいたのよ。今は独立して食のコンサルタントをしているけど」
女性は名刺を差し出した。
「風間みどりです」
涼子は驚いた。風間みどり――料理本業界では知らない人はいない、伝説的な編集者だ。
「葉、葉月涼子と申します! 風間さんの『食の記憶』シリーズ、私の原点なんです!」
風間は嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう。でも、その本を作ったのは確か……20年前かしら」
「はい。大学生の時に読んで、この仕事に憧れたんです」
高城さんがラーメンを運んできた。涼子は箸を手に取りながら、風間との会話を続けた。
「最近は……あまり上手くいってなくて」
思わず本音が漏れる。
「そう。でも、それは誰にでもあることよ」
風間は静かに言った。
「私だって、駆け出しの頃は散々だった。企画は通らない、原稿は集まらない。でもね」
風間はふと、カウンター越しの高城さんを見た。
「この店の高城さん、私が独立する時に最初の本を出してくれた方なの」
「え?」
「そう。私が作った『路麺紀行』という本の取材で、まだ修行中だった高城さんにお会いして。その後、独立した時に『一杯の記憶』という本を一緒に作らせていただいたの」
高城さんは黙々と仕事を続けながらも、かすかに頷いていた。
「本当ですか!? 『一杯の記憶』、私も持ってます。でも、まさかこの店の……」
「高城さんは、その時から変わらないわ。誠実に、丁寧に、自分の仕事と向き合っている」
風間は、目の前のラーメンを見つめた。
「この一杯に込められた想いは、20年経った今も、少しも色あせていない」
涼子は自分のラーメンを見た。確かにそこには、毎日積み重ねられてきた職人の誠実さが、湯気とともに立ち上っていた。
「焦らなくていいのよ」
風間は優しく言った。
「大切なのは、目の前のことに誠実に向き合うこと。それは、編集の仕事でも、ラーメン作りでも、同じことだと思うの」
涼子は黙ってうなずいた。胸の奥に、温かいものが広がっていく。
その夜から、涼子は「龍の巣」に通う理由が、また一つ増えた。
## 第3章:揺れる心
風間との出会いから2週間が経った頃、涼子の仕事に小さな変化が訪れた。
「葉月さん、ちょっといいかな」
編集長の声に、涼子は緊張して立ち上がった。しかし、編集長の表情は穏やかだった。
「実は、新しい企画を任せたいんだ。地方の小さなラーメン店を特集する『路麺の旅人』っていうムック本なんだけど」
涼子の目が輝いた。
「本当ですか!?」
「ああ。ただし……」
編集長は少し言葉を選ぶように間を置いた。
「正直、難しい企画になると思う。予算も限られているし、大手書店での展開も厳しいかもしれない。それでも、やってみるか?」
涼子は迷わず答えた。
「はい! 必ず成功させます!」
その日の夜、涼子は久しぶりに晴れやかな気持ちで「龍の巣」を訪れた。
カウンターに座ると、隣には見覚えのある男性がいた。先日、誕生日のチャーシュー特典があった客だ。
「あ、こんばんは」
男性も涼子のことを覚えていたようで、軽く会釈をした。
「佐伯といいます。またお会いできるとは」
「葉月です。あの……この前は失礼しました」
涼子は少し恥ずかしそうに謝った。
「いえいえ。僕こそ、特別扱いされて申し訳なかったです」
佐伯は優しく笑った。30代後半といったところだろうか。温和な雰囲気の中にも、どこか凛とした空気を漂わせる人だった。
「実は、私も今日は嬉しいことがあって」
涼子は新しい企画のことを話した。佐伯は興味深そうに聞いていた。
「それは面白そうですね。僕も実は、食の撮影が仕事なんです」
「え? フォトグラファーさんですか?」
「ええ。最近は料理の撮影も増えてきて」
話が弾んだ。佐伯は丁寧な言葉遣いの中に、確かな見識を持っている人だった。
「そうだ」
佐伯は名刺を取り出した。
「もし良ければ、お手伝いさせていただけませんか? ラーメンの撮影、得意なんです」
涼子は驚いた。本の撮影は別途カメラマンが手配されるはずだったが、もし佐伯さんに依頼できれば……。
「本当ですか!? でも、予算があまり……」
「それは構いません。面白い企画ですし」
佐伯は笑顔で言った。
「それに、このご縁も何かの巡り合わせかもしれません」
涼子は胸が熱くなるのを感じた。たった1枚のチャーシューから始まった出会いが、思いがけない展開を見せ始めている。
その時、店の入り口で小さな物音がした。振り向くと、学生らしき若い女性が、躊躇うように立っていた。
「いらっしゃい」
高城さんが声をかけると、女性は小さく頭を下げて入ってきた。痩せていて、疲れた様子が見て取れる。
女性は端の席に座り、メニューを見つめたまま動かない。やがて、小さな声で言った。
「あの、一番安いラーメンを……」
高城さんは一瞬考えるような表情を見せ、それからいつもの落ち着いた声で答えた。
「少々お待ちください」
涼子は、その光景を見つめていた。かつての自分を見ているような気がした。学生時代、お金がなくて、でも温かいものが食べたくて、小さな食堂に入った日々。
やがて高城さんが運んできたラーメンは、通常の特製ラーメンとほとんど変わらないボリュームだった。女性は驚いた様子で、
「あの、これは……」
「いいんですよ」
高城さんは静かに言った。
「お疲れのようでしたから」
女性の目に、涙が光った。
涼子は、自分の目も熱くなるのを感じた。チャーシューの枚数にこだわっていた自分が、少し恥ずかしく思えた。
その夜、涼子は佐伯と連絡先を交換し、企画の打ち合わせの約束をした。帰り道、寒い風が頬を撫でていったが、心はどこか温かかった。
## 第4章:新しい風
春の訪れを感じ始めた3月のある日、涼子は佐伯と初めての取材に向かっていた。場所は東京郊外の小さなラーメン店。
「もしかして、まだ緊張されてます?」
電車の中で、佐伯が優しく声をかけた。
「はい、少し……初めての取材なので」
「大丈夫ですよ。このプロジェクト、きっと面白いものになりますから」
佐伯の言葉に、涼子は少し勇気をもらった。
取材先の「麺処 わかば」は、住宅街の路地裏にある小さな店だった。店主の若林さんは40代前半の女性で、一人で切り盛りしている。
「実は、私も最初は出版社で働いていたんです」
若林さんは、取材の中でそっと明かした。
「でも、いつか自分の店を持ちたいと思って。35歳で全てを投げ打って、修行を始めたんです」
涼子は、若林さんの言葉一つ一つを丁寧にノートに書き留めた。
佐伯はカメラを構えながら、時折アドバイスをくれる。
「この角度から撮ると、スープの輝きが一番美しく見えるんです」
若林さんの店で出される塩ラーメンは、透明感のある黄金色のスープが特徴的だった。
「私ね」
取材を終えて店を後にする時、若林さんが言った。
「最初は不安で仕方なかったんです。こんな住宅街の片隅で、お客さんが来てくれるのかって」
若林さんは、店の小さな看板を見上げた。
「でも、一杯一杯に想いを込めて作り続けていたら、少しずつお客さんが増えていって。今では常連さんも付いてくれて」
涼子は、どこか「龍の巣」を思い出していた。
取材から戻る電車の中で、涼子は若林さんのインタビューを読み返していた。
「面白いですね」
佐伯が隣から覗き込んできた。
「何がですか?」
「葉月さんの質問の仕方です。相手の心の機微に触れるような」
涼子は少し照れた。
「いえ、まだまだ未熟で……」
「そんなことないですよ。葉月さんには、人の想いを受け止める優しさがある」
佐伯の言葉に、涼子は思わず目を伏せた。この2週間、企画の打ち合わせで何度か会っているうちに、佐伯のことを少しずつ知っていった。
写真への情熱、繊細な観察眼、そして何より、相手を大切に想う気持ち。
「あの」
佐伯が、少し声のトーンを変えた。
「明日、もし良ければ……」
その時、涼子のスマートフォンが鳴った。編集部からだった。
「すみません、ちょっと」
電話に出ると、編集長の声が聞こえた。
「葉月、悪いが企画を一時凍結することになった」
「え……?」
「上の判断でね。似たような企画が他社から出るらしくて」
涼子は言葉を失った。折角の機会、やっと掴めた希望が、突然奪われたような気がした。
「申し訳ない。別の企画を考えよう」
電話が切れた後、涼子は虚ろな目で窓の外を見つめていた。
「大丈夫ですか?」
佐伯の声に、涼子は我に返った。
「企画が……ダメになりました」
涼子は、精一杯の笑顔を作ろうとした。
「私の力不足ですね。いつもこんな風に……」
その時、佐伯が静かに、でもはっきりとした口調で言った。
「諦めるんですか?」
「え?」
「確かに会社の企画は凍結された。でも、葉月さんの『想い』まで凍結する必要はないはずです」
佐伯は真剣な眼差しで涼子を見つめた。
「今日の若林さんみたいに、自分の道を切り開いていく選択肢だってある。それに」
佐伯は少し照れたように笑った。
「僕も、できる限りのサポートをさせていただきたいと思っています」
涼子は、胸が熱くなるのを感じた。確かに、これまで会社の枠組みの中でしか考えていなかった。でも、本当に大切なのは――。
「ありがとうございます」
涼子は、久しぶりに清々しい気持ちになっていた。
その夜、涼子は「龍の巣」に向かった。いつもの特製ラーメンを前に、深い考えに沈んでいた。
「どうかしました?」
高城さんが、いつもの静かな声で尋ねた。
「あの、高城さん」
涼子は決意を込めて言った。
「私、独立しようと思うんです」
高城さんは、少し驚いたような表情を見せた。
「本を作りたいんです。小さなラーメン店の、想いのこもった一杯を伝える本を」
高城さんは、黙って涼子の言葉に耳を傾けていた。
## 第5章:私のラーメン
それから半年が経った。
涼子は、風間さんの紹介で小さな出版プロダクションに所属しながら、フリーの編集者として活動を始めていた。若林さんの店を皮切りに、路地裏の名店を訪ね歩く企画は、ウェブマガジンでの連載としてスタートを切った。
佐伯は、仕事の合間を縫って撮影を手伝ってくれた。二人の関係は、いつしか公私ともに特別な絆で結ばれるようになっていた。
今夜も「龍の巣」のカウンターに座っている。隣には佐伯の姿があった。
「いらっしゃいませ」
入り口で若い女性の声がした。半年前に来ていた学生だ。今は「龍の巣」でアルバイトをしている。
高城さんは相変わらず寡黙に、でも丁寧にラーメンを作り続けている。
「お待たせしました」
二人の前に、特製ラーメンが置かれた。
涼子は、目の前のラーメンを見つめた。チャーシューは4枚。隣の佐伯のも同じだ。
「ねぇ」
涼子は佐伯に向かって言った。
「私ね、最近わかったんです」
「何をですか?」
「幸せって、数えられるものじゃないってこと」
涼子は、湯気の向こうで微笑む佐伯を見た。
「大切なのは、目の前にある一杯に込められた想い。それを感じられる心を持っているかどうかなんだって」
佐伯は優しく頷いた。
「その通りですね」
二人で「いただきます」を告げる。
スープを一口啜ると、懐かしい味が広がった。でも、以前とは少し違う。より深く、より温かく感じられた。
涼子は気付いた。変わったのは味じゃない。自分の心が、少しずつ成長していたのだ。
店の外では、春の風が暖かく吹いていた。新しい季節の始まりを告げるように。
(了)
【短編小説】四枚目のチャーシュー(約6,200字) 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi
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