薔薇の棺

色街アゲハ

薔薇の棺

 棺に溢れんばかりに納められた薔薇が真紅の光を辺りに投げ掛けていた。


 横たえられた彼女の白い頬にその光が射すと、ほんの短い眠りから今にも目を覚ましそうな生気が其処にある様に思えて、周りから時折洩れ聞こえる嗚咽の声が聞こえなければ、葬儀である事を忘れてしまいそうな、それは長閑で呆けた様な午後の一時であったのだった。


 高く高く広がる青い空の中を雲が音も無くゆっくりと横切り、地面に大きな影を落とすと、それに遅れて地上に降りて来た穏やかな風が薔薇と彼女の長く伸びた髪を軽く撫でる様に揺らし、何故だろう、その風が彼女を遠い手の届かない所へと運んで行ってしまう様に思えて、軽く、胸を刺す様な痛みを覚えるのだった。


 聖句が紡がれる度にその場に留まり積み上がって行く様に思える中、それに合わせる様に何時しか風は止み、空気が少しずつその重みを増して行く様に感じられた。


 やがて棺は閉じられ、深く掘られた地中に納められると、その上に少しずつ土が被せられて行く。それをぼんやりと眺めながら、何故そんな事をするのだろう、どうして彼女を自分から隠そうとするのだろう、引き離そうとするのかと、理屈では分かっていても、どうしても湧き起こって来るそんな感情から逃れられないでいた。


 こんなにも穏やかで静かな午後の一時に、どうして彼女は自分を残して遠くに行って仕舞おうとするのか。参列した人々が皆一様に空を見上げる。それが嫌だった。それは、もう彼女はここに居なくて、まるで見上げる空の遠い遠い、自分はおろか、他の誰にも手の届かない、そんな処に行って仕舞ったかの様に、そんな風に皆が振る舞うのが。


 だと云うのに、自分もつられる様に見上げてしまう。甘く柔らかな陽の光が空一杯に行き渡り、何時しかそれが大気に満ちて、この世界中を包み込んでいる様に思えて、それが何時か彼女が自分に投げ掛けてくれた、あの穏やかで温かな笑顔の様に思えて、その時になって、漸く初めて自分は涙を流すのだった。



 (遠く死の海に捉われた船の上に数多広がる星々が三度その巡りを終えると、地上では瞬く間に歳月は流れた。)



 

 時は流れ、それと共に彼女の記憶も徐々に薄くなり、感じる懐かしさも悲しみも朧げな物となり、時の移り変わりと共に変わって行く、変わらざるを得ない自分に一抹の寂しさを覚えつつも、穏やかな諦念と共にそれを受け入れている自分に、これもまた半ばあの時覚えた物と同じ、自分の置いて行かれる感覚だと気付いた。


 全ては過ぎ去り、忘れられて行く。この自分であってもそれは変わらず、こうして窓から眺める空の中を流れる雲とそれは等しく、形を変え、薄れ、そして最後には空の中へと消えて行く。止める事もままならず。


 あまりに儚く、ひと時の間現われたと思えば、次の瞬間にはもう姿を変えている。何も残らず、ただ移ろうだけの物ならば、それは夢と何が違うと云うのか。目に映る物も、耳に聞こえる物も、肌で感じる物も、それら全ては始めから存在しないのと同じ。それなら目を閉じ、耳を塞ぎ全ての物に背を向けて、ひっそりと此の世から消えてしまおうと、そんな考えに捉われるのも無理からぬ事ではないだろうか。


 窓から目を逸らし、これを最後に全てから、と振り向きざまに視界の端に映る物に気付いて思わず足を止めた。


 窓枠の内に嵌まる硝子の表面に映るのは、あの時に見た鮮やかな色の一輪の薔薇。煤けた窓枠とその内に見える曇天の空。その中に在って目にも鮮やかな薔薇。目にした途端に、忽ちの内にこの身の内に入り込み、その中で大きく花開いて。それは世界その物が花開いたかの様な。


 分かってはいる。振り向けば何の事は無い、卓上に生けられた薔薇の花が窓に映っただけの事。あの時から欠かさず絶やさず身の回りに置き続けた薔薇の花。せめてあの時の忘れ形見と、常に手元に置き続けた。


 それでもこの身に覚えた感覚に、幾許かの真実が含まれている様に思えてならない。


 消えたのではない、薄れたのではない、きっとそれは委ねられ託されたのだ、と思う。老いて徐々に衰えていくこの身にしてからが、それを少しずつ世界に受け渡しているのだと。さながら昨日消えた器の中の水が、明日には雨となって降り注ぐの様に。あの時彼女と共に地中に消えた薔薇の花が、今もこうして変わらぬ色合いで咲き誇る様に。あの時覚えた哀しみも戸惑いも、全てそっくり消える事無く委ねられ、陰鬱な灰色の雲より降り注ぐ涙の雨に濡れた地面から再び花開いた薔薇の姿に注がれる、あの時と変わらぬ暖かな微笑み。その微笑みを向けられたであろう傍らの、あの頃の己と同じ、幼子の心の内に満開の花となって咲き誇るのだろう、と。


 今こうしている間にも、それ等の情景は新たに生まれ、知らず世界の至る処で花開いているのだろう、と。そんな気がしてならないのだ。嘗て見たあの微笑みもこの身に覚えたあの暖かな想いも、恐らくはきっと誰かから託されたであろう物。



 外に出よう。そして、嘗て見たあの微笑みと、幼子であった嘗ての自分に会いに行こう。きっと其処には咲いているであろう、目にも鮮やかに、地を埋め尽くさんばかりに咲き誇っているであろう薔薇の花と共に。






                             終

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