少女地獄 -夢野久作に捧げる-

閑古路倫

第1話 トン子

 この話は、誰から聞いたものやら、何処かの三流雑誌で読んだのか?全く、覚えがないのであるが。心の底に澱の様に溜まって、私の中から消えてくれない。何か、悪さをするでも無く、只、じっとして私に悲しげな瞳を向けるばかりだ。私は顔を背け、その瞳を見ない様にするのだが、目を背けるその事にさえ罪悪感があった。然し、正面から向き合って仕舞えば、男として生まれた業を認めずに居られない。何処にも、いないだろう、その女の優しさを求めずには、いられなくなる。つまるところ、死にたくなるのだ。


 私の、知っている話とはこの様なものである。場所は、北関東の田舎町、海辺の町である。時は、昭和、太平洋戦争の傷跡が、田圃と畑を分断する小高い崖の、海に面した其処に、無数に穿たれた穴、それが一体何であるのかを、それの持つ意味を、大人に聞かなければ分からなく成った頃の話である。

 少年の名は、仮に、秀司としよう。その時、秀司は十歳、彼は”ザワザワ川“と呼ばれる農業用水路の近くの集落に、家族と住んでいた。集落は、太平洋と田圃の間に細長く続いていた。そして、小高い台地の端に沿う様に、単線の線路が引かれていた。秀司が子供の頃は線路の西側に人家はほとんど無く、

畑と、”ザワザワ川“の流れに沿って谷となっている田圃しか無かった。秀司の住む集落には”ザワザワ川“の他に、二本の農業用水路が流れ、それぞれの間は谷と谷の間を埋める様に土が盛られその上を線路が通り、川は盛り土に穿たれたトンネルを流れていた。田圃は其々の川沿いに有る窪地にだけ有り、それ以外の台地は芋の畑であった。

 さて、その日曜日の朝、秀司は、幼馴染の明夫と保に呼ばれ海岸へと急いだ。”ザワザワ川“は途中で地中に潜りその上を海岸沿いの道路が走り、下に潜った”ザワザワ川“は切り立った崖に開けられた排水口から海へと流れた。海岸は、灰色の砂浜であった。そこに、制服を着た五、六人の警察官がおり、崖沿いの道には三台のパトカーが停車していた。警官達の中心には、ソフビの人形の様なものがあった。「どうやら、あれ、赤ん坊の死体らしい」保が言った。海岸の警官達は、俺たちに気付くと二人が道路に上がって来て。「君たち、捜査の邪魔になるから離れてくれ!」と言った。秀司達はソフビの人形の様な赤ん坊の死体を、遠目に見たことで満足して、家へと帰った。その時、トン子がそこに居たのを何故か秀司は忘れなかった。トン子の家は、秀司の家から10軒の家を挟んだ海寄りにあった。一寸小高い丘の上に、並ぶ様に建っていた長屋の内の一軒だった。トン子の父親はヤクザ者で、滅多に顔を見る事もなく、トン子は年老いた祖父母と三人で暮らしていた。

 トン子は、秀司より一歳年嵩さだった。彼女はヤクザの娘と言うことで、いや、彼女の祖父母も含めた家族全体が集落の中で浮いたものとなっていた。実際にどの様なトラブルが有ったのか定かでは無いが、彼女を含めた家族が、周りからは腫れ物を触る様に扱はれていたことは間違い無かった。

 あの、日曜日の事件から五年が過ぎた。秀司は、中学3年生に成っていた。彼は、生来の生真面目に加えて、神経質なほどの潔癖さで、良い加減に済ますことが許せない学生になっていた。成績は周囲の期待を集める程に優秀であった。所謂、近所で評判の良くできる子だった。

 一方、トン子は極々普通の見た目、いや、正確には服装が派手では無いと言うことで有り。その、容姿については当に、鄙には稀なと云うほどに優れていた。それが、美しい故にか、又は、彼女の家に出入りする父親関係の男達の故かは、知るところでは無いが陰で実しやかに言われていたのは「虫も殺さぬ様な顔をして、男を選ばず取っ替え引っ替えしている」と言うものだった。秀司とトン子は道端ですれ違うときに挨拶ぐらいはする程度の仲で有り、お互いに好きとか嫌い以前に、互いの先行きに決して交差する事は無い相手だろうと考えていた。

 それが、秀司の身の上に起きたのは中学卒業式の翌日だった。彼は、絶対の自信を持って臨んだ、県下有数の進学高校の入試選考に漏れてしまったのだ。合格者番号の掲示板に彼の受験番号は無かった。その日の、晩餐は悲惨の一言で有り、腫れ物の様に扱われる自分が酷く惨めで居た堪れなかった。彼は、誰にも告げず一人家を出た。海岸沿いに歩いて10分、薄く灯りのついた漁港に辿り着いた。月明かりに照らされた、船泊りの先端に人影を見た。ふっと、その儚げな佇まいに同情を覚えて、近づいて行った。人影に色がついた。「トン子ちゃん?」 「えっ、秀司くん?」 「あぁ、そうだよ。僕だよ、如何したの、こんな所で」 「秀司くんこそ、如何したのよ、私、結構こんな時間にここに来るんだ」「死にたくなるとね、ふっふっふ....あっ、今日、公立高校の合格発表?」 「うん、落ちた、べ、別に死にたくなった、わけじゃ無いよ」 「滑り止め、常陸学園?」

 「そう、受かってる、お金掛かっちゃうけど」 「そうね、次に失敗しなけりゃ取り戻せるね、たった三年だもの」彼女の笑顔は唯々、美しく、優しかった。ふっと、甘えて良い気がした。「ごめん、俺、自信が欲しいんだ!させてくれない」 「あぁ....そうゆう....こと、ね、減るもんじゃ無いものね...良いよ、私で良ければ」「でも、ゴム有る?」

 「ちょっと、待ってて、持ってくる」秀司は、全速で駆け出した。秀司は家に戻ると自分の机の引き出しに隠してあった”ゴム製品“をポケットに押し込み、懐中電灯を抱えて、家人に気づかれない様にまた、家を出た。駆けながら港と家を往復する自身の滑稽を笑った。港に着いて誰もいない事を想像して、また、笑った。

 彼女は先程と同じ場所にいた。「来たんだ、もう来ないかと思って、馬鹿みたいにここに居る私が、可笑しくて!」満面の笑顔で、彼女は自分を迎えてくれた。二人で、訳も分からず笑い合って、肩を押し合った。

 「折角だから、しよっか?」 「折角、持ってきたから、しよう」秀司は、トン子に手を引かれて、漁港近くの網小屋に入った。

 「ごめんね、初めてじゃ無くて」 「ごめん、初めてで」二人は笑い合ったまま、重なった。

 秀司は随分と大人になった後も、この夜を思い出す事があった。最高に可笑しくて、気持ちが良くなって、幸せだった夜。二人の心が求め合い、寄り添え合えた奇跡の夜。

 二人は事を終えて、何事も無く別れた。「「またね!」」明るく言い合ったけど、また、が二度とないことは分かり合っていた。


 季節は、駆け足で過ぎて行く。その年に限っては、その通りだった。入梅の時期、この小さな集落に、事件は起きた。

 早朝、まだ日も明けぬ頃に、漁に出ようとして、船の舫を解こうとした漁師が船泊まりの先端に揃えて置かれた女物の靴を見つけた。その靴はトン子の物で間違いは無く。二日と待たずして、トン子は土左衛門と成り果てた姿を海に浮かべた。トン子は妊娠していた。彼女は、赤ん坊だけを旅立たせることができずに、一緒に逝ってしまった。

 秀司は、たった一度だけ、トン子の為だけに、トン子の事だけ思って泣いた。


 私が、知っているのはこれだけです。本当にあった事なのか?それすら私には分からない。でも、私の心の底に、見たこともない、懐かしい面影の少女が、上目遣いに見上げてくるのです。見つめ合ってしまうと、死にたくなるのです。

       < 了 >

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