ブレインフレーバー

滝沢安眠

魔法の飴

「社会は甘くないぞ、この野郎っ!」


高校の教師からそう怒鳴られて以来、海野カオルの生涯を賭けた目標は不変のものとなった。


社会が甘くないとすれば、それは一体何味なのだろうか。


塩味か、醤油味か、それともレモンのように刺激的な酸味か。


どこか方向性を間違えた海野の優秀な頭脳は高校、大学と回転を続け、やがて脳が弾き出した計算結果にもとづいて会社を設立することとなった。


「ブレインフレーバー株式会社」。


従業員数一名。


東京北部の閑静なオフィス街の一室で、海野カオルはメガネの手入れをしていた。


付着した些細なホコリをメガネクリーナーで丁寧に拭き取り、丸く薄い縁のメガネを鼻へとかける。


ガラスを通してみえる目の前の事務机には、それぞれが透明なパックで包まれた、二つの飴玉が置かれていた。


「苦節十年、いや五年くらいだったか……細かい年月はともかく、ついに完成させたんだな、俺は。」


そう呟き、二つの飴の中でも一際目立つ毒々しいピンク色の方を指でつまみ上げ、感慨深げに観察する。


これは、「甘くない社会」が存在するのなら「甘い社会」も実現できる、という海野の主張のもと、ある海外の研究機関の協力のもとに開発された飴玉だった。


ブレインフレーバー。


そう名付けられたこの飴には電極が仕込まれており、舌の裏に放り込むと、唾液に反応してすぐに複雑な電気信号を発する。


その電気信号を脳が受け取った結果、視覚情報が自動的に書き換えられ、なんと、目の前の状況を脳が都合よく解釈するようになってくれる。


クレーマーの暴言は優しげな指摘に、厳しい上司は思いやりにあふれた管理職に早変わり。


もちろん実際に彼らの性格が変化したわけではなく、耳から受け取った暴言を、脳が勝手にストレスフリーなものへと変換しているだけ。


しかし、ブレインフレーバーは、それを服用してさえいれば、誰もが「自分に甘い社会」を味わって生活することができるようになるという画期的な商品だった。


「内部の電極は極小なうえに、時間が経過すると唾液で溶ける特殊製……子供も食べやすいよう味はイチゴ味、完璧な商品じゃないか。」


海野は手元の紙を近くへ手繰り寄せ、開発の成功に興奮を抑えきれないといった調子でゆらゆらと身体を揺らす。


長身色白、端正な顔立ち、頭脳明晰、外見は爽やかなビジネスマン。


内面がどこか間の抜けた性格なのが玉に瑕だが、その見た目と垢抜けた雰囲気は、確実にブレインフレーバーの営業において好影響を及ぼしていた。


全国流通はもうすぐ。


右手の紙に印字された、流通予定の店舗とそれに伴う利益率をみて、どくん、と揺れた心臓が全身に血液を送り込む。


落ち着こうとしても落ち着かず、うろうろと狭苦しいオフィスの床を歩き回り、やがて感情の昂りが頂点に達した海野は。


机に手を伸ばし、あんぐりと口を大きく開け、自らの舌の裏にブレインフレーバーをぽいと放り込んだ。


「んぐっ、ん……ふう。開発者自らが最終チェックをしなくてはな、販売されてからなにかあってはたまらん。」


誰もいない小さなオフィスで、やたらと大きな声でひとりごち、早速なにか効果が出たかと周囲を見渡す。


窓際のブラインド、眼前のパソコン、ホチキス、ほこりを被った観葉植物と、そのどれも特に変わった様子はない。


既に分かっていたことだったが、ブレインフレーバーの真価は人と相対したときにのみ発揮されるのが基本。


その効果を存分に体感するには、なるべく苛烈な言葉を投げかけられたり、ひどくぞんざいな扱いを身をもって受ける必要がある。


しばし逡巡した海野が実地調査へ向かったのは、近所で有名な暴言サラリーマンのもとだった。


そのサラリーマンは駅前の繁華街の近くをいつも徘徊しており、気に入らない人間と見るやいなやすぐさま大声で下品な罵声を浴びせかける。


オフィスの窓から、通行人を怒鳴っている男を日々観察していた海野は、今や彼の怒りのツボを完全に把握しきっていた。


「えーと、確かここに……おっ、いたぞいたぞ。あのおっさんにいきなり急接近してやれば、自ずとブレインフレーバーの出番がやってくるはずだ。」


建物の物陰から、繁華街の入口の方向をじっと伺う。


そこには案の定、シャツを余計な脂肪でパンパンに膨れ上がらせた中年男が、飲食店の周辺をうろうろと歩き回る姿があった。


街を行き交う人々が、明らかに様子のおかしい男を緩やかに避けて歩くのに対し。


元より男と接触するのが目的の海野は、男を目掛けて建物の傍から一直線に歩みを進めていく。


男の脂ぎった顔面の解像度があがるにつれ、距離も近づき、やがて海野と中年サラリーマンの視線が空中でぶつかり合う。


「あの。」


手を伸ばせば届くような距離まで海野が到達すると、目の前の男が柔軟剤のように優しげな声色でそう呟いた。


「少し近すぎますよ、気をつけてくださいね。私はあまり人と関わりたくないもので……。」


男は穏やかな口調で諭すようにそう言い、両手をこちら側へ向け、ジェスチャーで少し離れるように促してくる。


それを見た一方の海野はというと、目の前の光景の感動に打ち震え、その大きな眼にはうっすらと涙すら湛えていた。


「(すっ、素晴らしい……いま私は確実に暴言を吐かれているはずなのに、目の前の男からそんな雰囲気は微塵も感じん。むしろ好印象すら抱いてしまう……っ。)」


男をちらりと見ると、遠目から見ていたときとは打って変わって、まるで休日に道行く子供を見守る老人のような温かさと柔和さを強く感じる。


男そのものにはもう用済みとばかりに踵を返した海野だったが、それでもなお、その視界に映る景色はどこか輝いて見えた。


これがブレインフレーバーによって都合よく視界が書き換えられているのか、はたまた実験の成功によって心が満たされているからかはわからないが、とにかく。


「社会、甘いな……。」


道行く人々の全てが自分に優しい。


高校生のときに説教を受けた、記憶の中のあの教師の顔すらもいまは菩薩のごとき微笑みにみえてくる。


上機嫌の海野がオフィスに悠々と帰社し、ブレインフレーバーが全国発売されたのはその翌日のことだった。


「いま話題のブレインフレーバー、という商品ですが……坂神さん、これについていかがでしょうか?」


「いやあ画期的ですよねえ、舐めるだけで周囲が自分に都合よく感じるんでしょう?誰にとっても願ったり叶ったりの社会まっしぐらじゃあないですか。」


テレビに映る初老のコメンテーターが、画面に映し出されたピンクの飴玉を見ながらしたり顔で感想を述べる。


周りに迷惑をかけることもなく、ただ自分が快適に日々を過ごせるというブレインフレーバーのコンセプトは、この鬱屈とした社会で一大ブームを巻き起こした。


ブレインフレーバーはSNSのインフルエンサーを通じてねずみ算式に拡散され、学校や会社でイジメを受けている人々による買い占め騒動にまで発展した。


戦時下のヒロポンのような、中世でのコカの葉のような。


一時は現代の麻薬とさえ形容されたブレインフレーバーは順調に売れ行きを伸ばし、精神的負荷のかかるプレゼン前や、満員電車に乗り込む直前に服用する人々もよく見かける光景となった。


よもや日本の世界幸福度ランキングだけが急上昇するのではないかと騒がれている頃、それに伴ってやはり世間で増えたのは、フレーバーの新作の開発を望む声だった。


一大ブームから半年後、ブレインフレーバー株式会社。


従業員数二十名、丸の内のオフィス街に居を構えるブレインフレーバー社は多忙を極めており、事務所には今日もさまざまな書類が舞い込んできていた。


「ふむ、やはり別のフレーバーを待ち望む消費者が多いようだな……。塩味はマニア向けだったようだし、次は大衆向けの味を作るとするか。」


海野は忙しなく人が動き回る事務所内で、顧客のひとりから送られてきた要望書を流し読みしていた。


この半年の大盛況のうち、ブレインフレーバー社はイチゴ味に続いて塩味の飴玉を打ち出したが、そちらはゲテミノ扱いを受けて大した利益をあげなかった。


塩味の効果はイチゴ味とは真逆のもので、脳が周りの環境を自分にとってより厳しく解釈するというもの。


いわゆる「甘くない社会」を感じるためのものだったが、既に甘くない社会を味わっている人々にとっての需要は皆無といってよく、せいぜい動画投稿者のネタのダシに使われるのが関の山だった。


よって、次はオーソドックスなフレーバーをと、広告代理店からは散々に釘を刺されている。


「醤油味、ピーチ味、ニンニク味、ゴーヤ味ねえ……どれも表現が難しすぎる。なにか的確な味付けは……おっ。」


いくつもの要望書とレジュメの中から、海野の目に付いたのは、「レモン味」だった。


レモンのように刺激的で、爽やかな体験と後味のある社会。


塩味よりは集客力もありそうだし、なにより「甘酸っぱい恋」や「刺激的な日々」など酸味と関連した表現や体感も多い。


海野が立ち上がり、開発室から山ほどの飴玉を抱えて出てきたのは、それからおよそ三ヶ月ほど後のことだった。


透明な包装紙に包まれた、弾けるような黄色の飴玉。


舌の裏に入れると目の覚めるような酸味のするこのフレーバーは、毎日をより刺激的に感じられるという代物だった。


「原理はイチゴ味と同じだが、電気信号の種類は全く別物に変えてある。レモン味の信号を受け取った脳は、なんと、自ら『刺激的』な状況を生み出すように身体を操作するんだ。」


例えば、気になる女の子にうっかりぶつかってしまったり、階段から転げ落ちそうになったりと、刺激的な状況を体験できるように脳が行動を誘発する。


身体が無意識のうちに、劇的な体験ができそうな選択肢を選んだり、ゲームで挑戦的な戦い方をするようになったりと、人によって『刺激』の捉え方はさまざま。


しかし、これはあくまで脳の信号によるものだから、身体や周囲を害するような行動は潜在意識下で抑えられる、と海野は社員に向けて語る。


「明日はいよいよ発売日だ、みんな気合い入れてがんばってくれ!」


レモン味は翌日中につつがなく全国へと出荷された。


日本中で大ヒットしたブレインフレーバーの新作となれば話題にあがる回数も自然と多くなり、販売店にはレモン味を求める消費者が次々に殺到。


動画投稿サイトにはブレインフレーバーを用いた検証動画がいくつもアップされ、イチゴ味よりさらに享楽的なレモン味は、爆発的な売上を記録した。


しかし。


当初はまたも同じ規模のムーブメントを巻き起こすと思われていたブレインフレーバーも、マスコミやSNSの中で、徐々にレモン味の存在を懐疑する声が増え始めた。


刺激というのは裏を返せば危険性でもあり、それを頻発させる商品など言語道断である、と。


「なんか危ないじゃないですか、生活に刺激を増やすだなんて。高校生の娘がいるんですけど、それで火遊びだとか犯罪に手を出されたらたまらないなぁって……。」


「そうよねえ。刺激の定義って人によるし、イチゴ味と違ってなんだか過激な方向になっちゃいそうねえ。」


テレビの取材で主婦ふたりがそう答えたのを皮切りに、こぞってブレインフレーバーを特集していたテレビ会社や新聞紙も、次第に批判の方向へと向かっていった。


一方の海野たちはというと、メディアの煽りをそのまま受ける形となってしまい、事務所に舞い込む苦情や取引先への対応に苦心せざるをえなくなっていた。


これでは通常業務も立ち行かない。


「ブレインフレーバー、レモン味……電車の運転士や、タクシー運転手が仕事中に服用した場合、『刺激』によって事故を起こす可能性があると専門家は指摘しています。」


「これはねえ、個人的には販売を中止した方がいいと思いますよ。イチゴ味のうちはよかったけどねえ、刺激をどういうふうに捉えるかは人によって違うんだから。」


眼前のモニターに映し出された黄色の飴玉を、コメンテーターが渋い顔をしながら見つめる。


いくら潜在意識が危険を防ぐといっても、それがどれだけ信用に足ると思うかは個人の価値観によるもの。


学生の子供を持つ親や、保守派団体の働きにより、レモン味はまず学校などでの使用が禁止される運びとなり、市場からは返品が相次いだ。


やがてはインターネット上で憶測も含んだ悪評が広まり、根も葉もない噂が信ぴょう性を持つようになってくると。


海野は報道各社の前でブレインフレーバーの原理や効果について詳細な説明を行い、同時にレモン味への今後の対応を発表することを決めた。


「……ブレインフレーバーは根本的に、人間や周囲に危害を加えるようなものではありません。しかし今の日本で、レモン味はあまりに挑戦的すぎたように思います。今後は発売を中止いたしますので……。」


海野の語り口は終始冷静そのものだった。


危険性や安全性に関するデータを短期間でよく集め、マスコミにも、その先にいる視聴者にもなるべく伝わりやすいよう、よく言葉を吟味して説明した。


そして海野の釈明会見は全国波で放送され、それによって不確かな情報の拡散は多少収まることとなった____が、やはり一度始まったブレインフレーバーそのものへの疑問視はとまらなかった。


最終的にはイチゴ味もが販売中止へと追い込まれ、企業としてのブレインフレーバー社はほとんど死刑宣告をされることとなった。


一説にはブレインフレーバーの社会的影響力を抑えようとする団体による圧力があったと言われているが、真偽のほどは定かではない。


釈明会見から一週間後。


東京丸の内のオフィス街、人のほとんどいなくなった事務所の中で、海野は目の前に置かれた三個の飴玉を眺めていた。


並べられた三つのうちの真ん中、桃色のイチゴ味の包装を破り、指でつまみあげる。


空中へ高くかかげられた飴玉は、あんぐりと開けられた口の中へと真っ逆さまに落下していき、舌の裏にすっぽりと収まった。


とろけるような甘さと、若干の酸味。


特に変わらないオフィスの中。


「社会って甘くないなあ……。」


海野カオルはちいさく呟いた。

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