羽毛田藩秘話
悠井すみれ
第1話
奥州某所の山中にて。
若い侍が抜刀している。
彼に対峙するのは賊や浪人などではなく、見るからに手練れの武士が三人。彼らも抜き身の刀を手に、獲物を追い詰めた狼の目つきでじりじりと包囲を狭めている。若侍の精悍な顔は、ただではやられぬ、という気迫に満ちているが、何分多勢に無勢であろう。
(これで奴も最後だ。清々するわ!)
そしてもうひとり、殺気のせめぎ合いを物陰から見て、心中吐き捨てる者がいた。
この者の名は、
邦信が密かに見守る中、刀が切り結ばれ、火花が激しく散る。三方から迫る刃を躱し損ねて、火花を血で彩った若侍は──邦信の異母兄、
(何が太郎だ! 庶子の癖に!)
邦信は、決して兄などと認めてはいなかったが。
そもそも、兄弟が直に顔を合わせたのは邦信が家を継いでからだ。邦信の生母は先代の正室、ゆえに彼は国元から遠い江戸藩邸で生まれ育った。いっぽう、重太郎は参勤交代で国元に帰った先代が、奥女中に生ませた子だから江戸を知らない。
幼い頃の邦信は、一年も戻らぬ父は、顔も知らない異母兄とやらに会いに行くのだ、と信じていた。その寂しさ悔しさは忘れられぬ。長じてからは、万が一にも家督を狙われたら
何しろ、国元で亡くなった父を看取ったのは重太郎なのだ。弟が不甲斐ない時はお前が──という類の遺言されてないと誰が知ろう。否、重太郎はそのように言い出す機会を窺っているのでは? 邦信は、確かに当主として相応しからぬ秘密を抱えている。父はまさか、それを漏らしてはいないだろうか?
積もり積もった怨みと後顧の憂いを絶つために、邦信は決意したのだ。重太郎は死ななければならぬ。そうでなければ、とても枕を高くして眠れない。
神経質に掌で
鋼が噛み合い、血飛沫が上がり、四足の草履が踏みしめる土が赤黒い沼と化す。だが、重太郎はまだ斃れない。息を切らせ、顔面を蒼白にしながらもまだ剣を握っている。
(おのれしぶとい奴、め……?)
と、邦信の目が、大きく見開かれる。もとより重太郎の一挙手一投足を凝視していたのだが、ある一点に焦点が結ばれていく。
(まさか。まさか)
うわごとのように心中で呟きながら、ふらり、邦信は隠れ場所から姿を現していた。殿、と。背後から従者の慌てた声が響く。いっぽうで、予期せぬ観客の登場に、重太郎と刺客たちは、敵味方の区別なく戸惑いの視線を交わしている。
最も早く我に返ったのは、弟の姿を認めた重太郎だった。もとより限界が近づいていたのだろう、緩んだ指から刀が零れ落ち、からん、という音と共にがっくりと膝をついてうなだれる。
「……そうか。そういう──そこまで私を、憎まれて」
「……
気力が折れたのか、首を差し出すような格好の重太郎に、邦信は初めて兄と呼び掛けた。何と言えば良いのか──迷った末に、端的に告げる。
「
深山に静かなどよめきが走った。
迫真の切り合いで、邦信以外には誰も気づいていなかったのだ。重太郎の頭の両側の
「父上も、ご
自ら恥部を明かす
「薄毛は、羽毛田家に巣食う
付鬢を握りしめた邦信は、よろよろと兄の方へ足を進めた。
重太郎の顔色も、異母弟と似たようなものだった。何度直そうとしても落ちる付鬢。その度に深まる羞恥と動揺。赤面しては青褪めて、震えて。居たたまれなさに消え入りたくなる。だが──その想いを分かち合える肉親が、目の前にいる。人知れぬ苦悩を抱えて、日々怯えて過ごす者が。
「幸之助殿! よくぞ今まで耐えて来られた……!」
「あ、義兄上。何とお詫びをすれば良いか──」
泣きながら抱き合う兄弟を見て、刺客として送られた者たちも邦信の従者たちも、いつしかもらい泣きしていた。武士らしからぬ男泣きの合唱は、山の獣や鳥を驚かせ、森を揺るがせた。
羽毛田藩史は、重太郎に支えられた邦信は善政を敷いた、とだけ記し、母の違う二人が深い信頼関係で結ばれた理由については沈黙している。あの山中での一幕は、その場にいた者たちが深く胸に秘して語ることがなかったからである。
羽毛田藩秘話 悠井すみれ @Veilchen
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