第1話 風待草の御伽噺はこぼれた

『和穂、知っているか? この国に昔、神様がいた事を』


 神様?


『神様は、この国の守り神だったんだ。神様は、人間の穢れた感情の具現……「穢」を祓い去る、という役割を持っていた』


 穢? 飛鷹、穢ってなに? 穢はどうして、消えなきゃいけないの?


『……穢はな、人を殺していたんだ。人を殺すのが生き甲斐な奴らなんだ。だから、神様はそんな穢から、我々を助け出してくれていた』


 じゃあなんで、神様は私たちを助けてはくれないの?


『それは……神様がもう、この世にはいないからだ。神様は、とある十人の人間に力を分け与えて、この世からいなくなってしまった。今は、力を分け与えられた人間達が、神様の役割をしている』


 人が、神様なの?


『あぁ。名を代理人。己を犠牲にし作った異能力と、神様の器で、人々を助けてくれる。その代理人が、この国を……出雲を、何千年も守って、助けてくれているんだ』


 じゃあいつか、代理人様が私のことも、飛鷹のことも、深淵のことも……⬛︎⬛︎のことも、研究所みんなのこと、助けてくれるのかな?


『……』


 ――……飛鷹?


『……あぁ、きっと。きっと、助けに来てくれる』


 嗚呼、夢だ。夢を、見ている。

 いつの夢かは分からない。けれど、ここにはいない兄がいるということは、きっと、過去の記憶だ。


 ――兄さん。

 ――ごめんなさい。

 ――助けてなんて、もらえないこと、わかっていたのに。

 ――兄さんは優しいから、そんなこと、私には言わなかったんだね。

 ――助けてもらえるって、私がそう思っていたから、待っている間に、兄さんは、飛鷹は――


『す、ま……ない……』


 最後の声は、飛鷹あなたを壊すのに十分すぎるほど、嗄れて消えてしまった。



「――和穂かずほ


 かたん、コトン。

 列車が揺れる耳障りの良い音と共に、意識が浮上した。


 朝日が差し込む窓辺。そこから見えるうさぎの跳ねる海。外に広がる朱夏の季節が、列車にあるもの全てを照らしていた。

 もちろんそれは、和穂と名を呼ばれた少女も例外ではなかった。


 少女はゆっくりと、確かめるように目を開ける。すると、右の手首に巻かれた白い包帯と、その上からかけられたのような腕輪が目に入った。隣の座席には少女を守るように、一本の白い刀が立てかけてある。


 いまここに、一人の少女が、目を覚ました。


 歳は14、15歳あたりだろう。開いた瞳には夕暮れ時、雲と陽の光が入り交じる淡い空のような宵葵を灯している。少女のようなあどけなさを残しながらも、それを覆い隠す冷たく美しい顔立ち。腰まで伸びたうねりのない純白な氷映の髪は、枝木に降り積もった雪が落ちる瞬間を切り取ったように、動く度に揺れている。指先からつま先までもが氷柱のような鋭い体躯は、どこか孤独を感じさせながらも、洗練された女騎士のように筋が通り美しかった。


 少女だけを見れば、氷肌玉骨という言葉を人として表現できただろう。けれど、その言葉をブラッシュアップするように、少女の衣裳は冷たい氷と暖かい花の如く、全くの対照だった。少女の冷たい身体を隠すような、ふんわりとした柔らかい黒橡のシャツ。形は一般的にフィッシュテールと呼ばれるものだ。魚の尾びれのように下に向かって幅が広がっていき、前後で丈の長さが異なっている。そこから花びらのように黒く短い裳が綻ぶ。氷柱のような太ももまで伸ばされた漆黒のメリヤスは、純白を象徴とする少女とは相対象的でとても映えていた。険しい道を歩むためにきつく結び、履き慣らした足首までの長靴ブーツは、氷の上を歩む度に、かつり、かつりと、かたく静かに鳴ることだろう。その姿はまるで、氷の上に咲き誇る黒ゆりの花のよう。しかしそれは、寒さの中に少女がいるわけでは無い。寒さこそが少女であり、花は寒さと共存するために生まれてきた存在、と言った方が正解に近いのかもしれない。


 何人すら寄せ付けない雰囲気を醸し出す少女――和穂は、まだ眠気の残る瞳を開こうと、ゆっくり瞬きを繰り返した。


「和穂、いい加減に起きてください」

「ん……」


 水のように透き通った低い声で、和穂はやっと目を開けた。言い方に棘がありながらも、先程と何一つ変わらぬ温度の、感情の起伏を感じさせぬ声に、和穂は目の前の人物に目を向ける。


 和穂の淡宵葵に入り込んだのは、青年の形をした片翼の鴉だった。歳は少なくとも和穂より5つは上に見える。男性にしては長い墨色の髪を後頭部の低い位置で一本に束ねて、窓辺で頬杖をついて、気だるげな青藍の瞳で窓の外側を眺めている。その姿は、目を奪われるほどの月の色人の如く。全体的に夜を連想させる青年の隣には、二本の黒い刀が立て掛けられていた。


 空疎な雰囲気を持ち合わせた青年は、顔立ちとは食い違い、知的な格好をしていた。白いワイシャツに黒いスラックス、濃藍の手袋、紺青のネクタイ。いわゆるスーツを着こなし、第一ボタンまでもきっちりと留めている。傍から見れば好青年という印象が植え付けられるだろう。青年は相も変わらず和穂を見向きもせず、窓から見える陽の光に輝く静淵の海を見つめている。朝影に照らされている横顔は、ガラス細工のように美しかった。

 そんな青年の名は――


「なんだ……蓮翔さんか」


 寂しい冬の夜に吹く風のような声。ため息混じりに和穂は呟く。


「はい、蓮翔さんです。あなたの案内役の仁紫蓮翔にしれんかです。そろそろ烽州、雪火に着きますから、荷物をまとめておいてください。ゴミはこっちのビニール袋に。……って、ちょっと、二度寝しようとしないで」


 欠伸をしながら話を聞き流していた和穂に、たしなめるような口調で告げて肩を軽く叩いた。


「ふぁ……せっかく、懐かしい夢見てたのに……」

「奇遇ですね。俺も先程、夏夜の夢を見ていましたよ。その夢が一段落したので、あなたを起こしたんです」

「……目的地まであと何分?」

「さぁ。30分ってところですかね」


 ――まだ寝れたじゃん。


 目を細めて蓮翔を睨む。

 つまり、蓮翔の都合で起こされたというわけだ。相変わらず、目の前の男は己が中心で動いているらしい。


「怪我の具合は?」


 なんていう和穂の考えとは裏腹に、蓮翔は気遣いの言葉をかけた。


「……半年前に比べれば、だいぶマシ」

「それは良かった。死ぬんじゃないかって、一応心配していましたから」

「……死なれたら困るから?」

「はい」


 前言撤回。どうやら、根本は自分の目的のためだったらしい。

 呆れ気味に和穂は蓮翔から目を逸らした。そんな和穂を気にせず蓮翔は続ける。


「そういえば、情報が入りましたよ。霖州で密葬衆幹部、橘美鶴たちばなみつるの目撃情報があった、と」

「どこからの情報?」

「この前祓った穢の生命線を神眼でちょちょっと見て、それを辿りました。ちょうど今涼州の雪火に向かっている途中ですから、回り込んで涼州から霖州に入りましょうか」


 蓮翔が携帯端末に映し出された記事を見つめながら告げる。土地勘も知識もない和穂に代わり、蓮翔がこの旅のあらゆることを取り仕切っていた。

 だから、蓮翔の決定には和穂も有無を言わず従っている。それでも、知識のない和穂は蓮翔の発言を疑問に思うことが多々あるのだ。例えば――


 ――……生命線って、なんだっけ?

 いや、それよりも、聞き捨てならない言葉が聞こえたような――


「…………え? なんでわざわざ涼州に? 霖州に行くなら、緑州とかからでもよかったんじゃないの?」

「あれ? 説明しませんでしたか? 霖州の入口がある緑州と涼州には、代理人の本拠地、『鴉』があるから、迂闊に近づけないって」


 蓮翔の言葉に和穂はそうだった、と相槌をうった。


 目が覚めたことによりゆっくりと思い出されていく、この国の成り立ち。この国、『出雲』は、北から北夕ほくせき東緑とうろく央霖おうりん西涼せいりょう南烽なんほうの計五つの州から連なって構成されている。州はそれぞれ行き方や入り方が異なり、東西南北の州は行き方さえ把握すれば誰でも出入り可能なのだが、特定の州――央霖だけは、国の『原初の人間』、今現在では貴族と呼ばれている方々が住んでいるため、自由に出入りすることが出来ないのだとか。


 曰く、央霖に入るには、二つの方法があるらしい。


 央霖は、州の周りを全て特殊な結界で全て囲んでいる。理由は央霖に住んでいる人々が出雲の貴族階級の方々のみだからだ。出雲には五つの州が存在しているが、その中で央霖に入れるのは西涼と東緑のみ。西涼は多額の金――と言っても年齢層で異なり、数千円から数万程度――を払い、厳重な荷物検査を通れば誰でも入れる。ただし、逆方向にある東緑ならば金を払わず、『鴉の代理人』による直接の身体検査を済ませれば、通行許可が降りて央霖に入ることができる。後暗いことの無い一般人ならば当然東緑から入り、後暗いところがある和穂達は当然、西涼から入らなければいけない……のだが。


 では、何故そこまでして、厳重に、幾重に増して守りを固めているのか。この国の民達は当然のようにこう答える。


 この国には、穢れた生き物が住み着いているからだ、と。


 この国――出雲には、人の負の感情で生成された、人間の成れの果て、『ケガレ』という異形が存在する。

 古の時代から存在するこの穢は、人に害をなし、人を喰らい人を殺め、その快感という、我々にとってはとてつもなく不快な感情によって己の力を高める、人間の敵。声も形も分かりやしない。黒い靄が姿を覆い、夜に隠れるその姿は、闇そのものと言っても過言ではないほど、恐ろしい存在だった。


 そんな穢から出雲の民を守るため、立ち上がった十人の人間がいた。後にその人間は、『神の代理人』と名付けられることになる。穢という異形を祓い去るため、彼らは『自己犠牲』によって創られた『方程式』という力を使い、今現在も穢を討伐している。

 その代理人が所属している組織を、出雲の民は総じて『鴉』と呼んでいる。名前の由来は、全員が全員、黒装束を纏い、出雲の各地を飛び回っているからだ。


「特に涼州へは夕州から行けませんから、結局烽州に回らなければいけないんです」

「ふーん……『鴉の代理人』って、避けなきゃいけないくらい怖いの?」

「そりゃあ、向こうは組織でこっちは個人ですからね。鴉には特殊なネットワークも存在しますし、極力敵に回したくは無いです。面倒くさいんで」


 というかそれが本心です、と言わんばかりに蓮翔は目を伏せる。


 対する和穂は蓮翔から目を逸らし、つまらなそうに立て掛けてある白い刀を見つめた。


 ――一人の子供すら助けられないんだから、怖いわけないか。


 蓮翔は代理人の強さも怖さも実感して知っているだろうから、そう答えたのだろう。

 けれど、代理人を知らない和穂としては、たかが数年訓練した人間が蟻のように沢山いるだけ、という認識だった。集団行動しか出来ない気色悪さすら感じる、個人だけを見れば足元にも及ばぬ無力な生き物の集まり。


 もちろん、この和穂の考えを蓮翔も理解していた。それでも、胸を張ってそれだけでは無い、と蓮翔は告げる。『鴉の代理人』は、何千年にも渡り、出雲唯一の武力部隊という地位を保ってきた『組織』だ。統率は執れているし、なにより所属している全員が『特殊な力』を獲得している。一言で強いと断言できなくとも、厄介と表せるだけで十分な敵だ、と言いきれた。


「それに。鴉に見つかったら、あなたは間違いなく尋問されますよ。俺、そこまで助けてやる義理はないんで、見つかったら終わりですね」

「……それって」


――ひたり。


「私が、密葬衆の実験体だから?」

「えぇ」


 氷の窓に触れたかのように、冷たさが全身を駆け巡った。

 和穂は無意識に、真っ白い右手首にはめられた腕輪に触れた。身体はだんだんと冷たくなっていくのに、頭は対照的に熱がこもっていき、ぐらぐらと揺れていく。苦虫を噛み潰したような苦しさが広がり、下唇を強く噛み締めた。


 嗚呼きっと、目の前の男にとって自分は敵なのだと、再認識した。


 初代の代理人が現れてから何千年も経った今、穢が消滅するどころか、その勢力を増して活発化している大元の原因は、『密葬衆』という反代理人組織にあった。

 構成員のほとんどは、『穢憑影』と呼ばれる、理性のある穢だった。時には人を殺し、時には子供を攫い研究に使い、穢を使役して、人々を闇へと葬り去っていく。


 全ては、人を殺したという快楽に溺れるためだけに。


『鴉の代理人』と『密葬衆の穢憑影』は、何千年にも渡り戦いを続けている。最も新しい記憶は半年前の争いであり、戦場は央霖。被害者の数は代理人も含め数千人という、莫大な規模の争いだった。言うならば出雲全土をかけた戦い、国取り合戦が適切な言葉だろう。代理人はおろか、当然ながら出雲の民も争いに巻き込まれ、血の絶えぬ日々が続く。代理人も人間も貴族も、大人も子供も関係なく、無差別に密葬衆は人々の命を奪い取る。


 密葬衆の罪深さはそれだけでは無い。密葬衆は『代理人』の起源を調べるために、人間の限界、極限状態まで子供を追い詰め、代理人に成るのか穢に成るのかを実験していた。親を殺し、幼い子供を攫っては、私利私欲のための実験に扱き使う。代理人に向ける執念の深さにはいっそ賞賛すらも抱ける、非道なんて言葉では生ぬるい所業を延々と繰り返している組織、それが密葬衆だ。

 その犠牲者の一人が、和穂だった。


 ――嫌なこと思い出させやがって。


 思い出したくもない。頭に過ることすら憂鬱な過去だ。思い出そうと思えば昨日のことのように鮮明に蘇ってきてしまう、言葉では言い表せない苦痛に満ちた記憶。


 ――まあ、、か。


 そうは言っても、和穂が実験に身体を使用されていたのは今から二年も前の話になる。だからか、何故そんなことを言ってくるんだ、と咎めたくなるような気持ちは更々なかった。が、このまましてやられるか、とまるで意趣返しのように、和穂はとある禁句を口にする。


「よく言うよ。蓮翔さんだって鴉の代理人だった癖に」

「――……!」


 和穂と蓮翔の間に戦慄が走る。

 ただ、それも一瞬のこと。

 折れたのは蓮翔だった。


「今それをいいますか……」

「どっちが先に突っかかってきたんだっけ?」

「……確かに、初めにあなたに突っかかったのは俺ですけど……」


 蓮翔はやっと、自分自身が和穂の地雷を踏み抜いたことに気がついた。バツが悪そうに眉を寄せて、目線を逸らした。

 人に向ける良心は蓮翔にも存在している。もちろんその場合、少なからずの罪悪感も心の片隅にくらいはある。蓮翔は別に、和穂を追い詰めたくて意地悪をした訳ではなかった。今現在の立場と状況を理解して欲しかっただけなのだ。だが、思っていたよりも和穂は蓮翔の言葉を深刻に受け止めてしまった。


 言葉は難しい。相手を気遣おうと発した言葉でも、触れ方を間違えれば刃になってしまう。そのせいで和穂を気遣うどころか、逆に蓮翔の方が追い詰められることになってしまった。これではお互いを傷つけあっているだけだ。誰も得をしていない。だからこそ、蓮翔は和穂と対立をせず、すぐさま折れたのだ。これ以上、傷つけ合わないために。


「はぁ……いいんですよ、そのことは。俺は……夏夜を取り戻す為ならば、仲間すらも裏切れますから」


 皮肉にも和穂とお揃いのような、思い出しては死の淵に立たされる苦い記憶を瞳に写しながら、蓮翔はため息混じりに告げる。


 一方和穂は、蓮翔の返答に表情こそ変えないものの、軽蔑混じりの驚嘆の声を上げた。


「うわ……いつかそうやって、私のことも裏切るんだろうな……」

「ほんっとあなた、俺に対しての信用が皆無ですよね」

「その婚約者さんが本当にいたのか蓮翔さんの妄想なのか、それがはっきりするまでは信用なんてない」

「妄想って。酷い人ですね。まあ、俺はあなたのこと、信用していなくても信頼はしていますよ」

「尋問にかけられても助けない、って言ったくせに?」

「それはそれ、これはこれ。だってあなた、ご自身の身の上話を一つもしないじゃないですか」

「いや、それは蓮翔さんも同じだし」

「俺はしていますよ。言ったじゃないですか。密葬衆に婚約者の夏夜が誘拐されたので、その人を助けるために鴉を裏切った、って」


 ――それだって、本当のことかどうか、分からないよ。


 蓮翔と和穂は、実に歪な関係を保っていた。


 簡単に言ってしまえば利害の一致、複雑に言えば、元は敵組織に所属していた者同士であり裏切り者。共通点といえば密葬衆を恨んでいることくらいで、あとはほとんど全てと言っていいほど、真逆の世界で生きてきた。


 何故、こんなちぐはぐ者同士が共に歩みを進めているのか。本人達すらよくわかっていない。


「あなたは、自分が密葬衆の実験体で、実験が嫌になって逃げ出してきた、とだけ俺に言うんですもん。同行してる目的も、『方程式』の『制約』すらも教えてくれないなんて、あんまりですよ」

「『犠牲』にしたものは教えたでしょ。それに、出会った当初に話させてくれなかったの、蓮翔さんじゃなかったっけ?」

「あの時は切羽詰まった状況だったじゃないですかー」


 年不相応に身体を揺さぶりながら、蓮翔は和穂に笑いかけた。


「少しでいいから教えてくださいよ。理解はお互いを信頼する第一歩ですよ」


 胡散臭さの一つもない、心からの気持ちを乗せた笑顔が、返って心を逆撫でした。


 西暦2022年。1月21日。これが、和穂と蓮翔が出会った日だ。現在は7月30日。二人が出会ってから、約半年の年月が過ぎ去った。

 半年。1年の半分。最短181日、最長184日。文字に並べてみると長いのか短いのか分からない。過ごしてみると長くて、ふと立ち止まって記憶を探ると短く感じる、なんともいえない不思議な日数。

 その期間で和穂と蓮翔は態度こそは打ち解けたとて、互いの素性すらも曖昧のまま過ごしてきた。

 この二人の間に、信頼という偽りのない文字はあれど、信用という確かな繋がりはない。


 だからこそ、二人の思考は交差する。


 蓮翔は、半年という長い年月が経ったのだから、いい加減心を開きましょうよ、という誘惑。

 和穂は、たったの半年しか経っていないのだから、教えるわけがないだろうという拒絶。

 蓮翔も和穂も、互いの考えくらいは理解していた。理解しているからこそこの結論に至っている。いい加減折れろよ、という負けず嫌い同士の衝突。あるいは、お互いの心の認識のズレか。

 なんにしたって、和穂の答えは一つと決まっていた。


「やだ」

「ケチ」

「ケチでいい」


 たとえばここで和穂が逆上して刃を向けたって、蓮翔はなんのダメージも受けないだろう。それくらい、この関係に過去の話は必要ない。言ったとしても変わりは無い。せいぜい情の一つや二つが増えて、切り離さなければならない時に切り離せなくなるだけだ。ならばいっそ話さない方がマシまである。

 蓮翔もそれをわかっている。なのに、和穂が拒絶するまでこの無駄なやり取りを繰り返すのだ。


「もう色々とめんどくさいですね。このまま二人で密葬衆に突っ込んじゃいます?」

「蓮翔さんと心中とか、死んでも御免なんだけど」

「えー? 一緒に死んでくださいよー」

「絶対にやだ。蓮翔さんのせいで死んだら末代まで呪ってやる」

「あっははっ! それって、俺と夏夜が結婚できるってことですか? ありがとうございますー、恋のキューピットになってくださって」

「は……ぁ? ポジティブシンキングすぎない?」

「だってそういう――」


 その時、蓮翔の耳がぴくりと動いた。ふっ、と列車の天井を仰ぎ、何かを確信したかのように目を伏せると、和穂に向き直る。

 須臾、和穂の淡宵葵の瞳と蓮翔の青藍の瞳が混ざりあい、空夜が生まれた。


「――来ます」


 なにが、など馬鹿なことは、問わなくとも分かりきっている。夜を灯した蓮翔の瞳が夕日のような和穂の瞳を穿いていた。


 この時、蓮翔と和穂は今日初めて、互いの目を認識した。


「了解――」


 と、和穂が刀を手中に戻した刹那。

 蓮翔が、目の前から消えた。


『警告! 警告! 穢が接近中、穢が接近中! 乗客の皆様は頭を下げて衝撃に備えて下さい! 繰り返します――』

「――方程式」


 途端、凄まじい音と共に窓ガラスが割れた。和穂と蓮翔が座っていた場所から数個後方の座席だ。次に聞こえてきたのは風の切れる音だった。割れた窓ガラスからびゅうびゅうと車内で渦巻き、人々から悲鳴が上がる。ガラスの破片が当たり鮮血を吹き出した乗客の悲痛な叫び、子供が母を呼ぶ泣き声、他車両へ逃げ出そうと駆け出すも上手くはいかない人の怒声。車内が音の混沌と化す中で、鮮明に聞こえてきたのは、深海のような声と、もう一つ――


「けひっ?」


 やけに近くで聞こえてくる、耳障りで禍々しい、憎悪にまみれた声。

 人の形をした、人の心を持たない、異形――穢だった。


 ――いや違う。これは……――


 穢では、無かった。穢ならば原型を留めず、まるで黒い靄のように姿がはっきりとしないのだ。対して目の前にいる異形は、和穂や蓮翔、他の乗客と変わらない『人の形』をして『人のように』笑い、尚且つ走行中の列車を襲えば混乱を招けると思考できる頭を持っている、ということは答えは一つ――理性のある穢、穢憑影だ。


 穢憑影が一度和穂を見て笑った。視線に気がつき刀を構えた和穂よりも先に、穢憑影は小さな窓を蹴り破って乗客に狙いを定め、勢いよく跳躍した。


「解」


 のも、ほんの一瞬。

 和穂の真横を夜風が駆け抜けた。

 だが、和穂はそれを認識することは不可能だった。認識出来たのは、人の形をした鴉――基蓮翔が、列車の壁に人の形をした汚れを刀で押さえている、その現状だけ。蓮翔の黒い二本の刀は、神に祈りを捧げる刻の十字架に交差され、ぴったりと、穢憑影の首にはめ込まれていた。

 そして、蓮翔の透き通った声が響き渡った。


瓢霆ノ交ひょうていのまじわり

「っ――!!」


 ドガァァァン――!!!!


 凄まじい閃光と爆風。それと共に響く固い破壊音と壮大な爆発音が重なり、列車が左右に大きく揺れ、悲鳴が飛び交う。今の衝撃で進行していた列車は強制的に停止し、同時に蓮翔が放った攻撃により列車の壁は破壊されていた。煙が立ち込めぱらぱらと瓦礫が崩れる中、蓮翔は一人、列車の床に瓦礫と共に転げ落ちた穢憑影の『腕』を見ながら、冷静に思考する。


 ――……祓いきれなかったか。


 まあ、腕一本は飛ばした。初手の攻撃としては上々だろう。


 ――にしてもこの気配……屋根の方に逃げましたね。


 穢憑影の神気が蓮翔の頭上に移動する。神眼を開かずともわかるほど禍々しい神気。

 短く息を吐き出しながら力んでいた身体を緩めた。

 猛暑だと言うのに、爆破が間近で起きたというのに、暑さは感じなかった。むしろ寒気すらも感じているほどだ。

 蓮翔は事態把握の為に刀を薙ぎ、爆破の際に生じた煙を吹き飛ばした。

 同時に煙から抜け出した和穂は、物理的にも開けた視界と蓮翔の所在を確かめ、刀の鍔に手を置いた。終わったかのように何もせず、ため息混じりに蓮翔を睨む。


「蓮翔さん、正気? 一歩ズレたら乗客に方程式が当たってたんだけど」

「人間に式の攻撃が当たっても、気絶程度で済みますよ。それよりも穢憑影とこの車体です」


 蓮翔が刀を納刀しながら和穂に告げた。


 次の瞬間、和穂が声を出す間もなく、壊れた人形が無理やり動いたような音と共に、車体が階段を踏み外したように揺れた。ずるり、ずるり、ずるずるりと、地に引っ張られる感覚が足に響いて、蓮翔と穢によって壊された壁から見える景色が徐々にずれていく。最初は防音壁共とその先の海しか見えていなかった情景が、今やもう満天の青空が見え始めた。通常ならば見とれてしまう程の青空に、いっそ恐怖すらも感じてしまう。ゆっくりと、でも確実に、車体は下へ下へと吸い込まれていた。


 状況を把握した乗客から悲痛な声が上がる。アナウンスが再度流れ、待機命令が下された。

 それでも、命の手網を握られたこの状況下で、冷静を保てている者は少ない。


「これ、今の衝撃で?」

「えぇ、車体が脱線して落ちかけています」


 例外。毎時命の手網を握られ、危険慣れしている者を除いて。


「蓮翔さんがやったんでしょうが」

「いでっ。あははー……修理費引かれるだろうなー……」


 ゴスっ、と音をたてながら、蓮翔の脇腹に拳を突きつける和穂。

 当の蓮翔はと言うと、遠い目をしながら珍しく無抵抗に拳を受け止めていた。


 脱線させたことにより出てくる時間のズレ、それによる被害を受ける乗客数の計算、負傷者への治療費負担、修理費諸々など……億単位の金額が請求される未来は目に見えている。

 ――……俺、終わったかも……。

 穢憑影によって車体が揺れたのは紛れもない事実だが、穢憑影が脱線させたのかと問われればそうでは無い。きっと脱線の要因には蓮翔の爆破が原因となっているはずだ。穢憑影から乗客を守るためだったとはいえ、その行動でさらに危険に晒すなど本末転倒も良いところだろう。


 ――なんて、考えている暇があったら、早くあの穢憑影を祓わないと。


 これ以上、被害を広げてはならない。乗客のためにも時間のためにも命のためにも……お金のためにも。

 次なる行動に移るため、素早く和穂に向き直った。


「とりあえず。和穂、俺はあの穢憑影を祓うのであなたは――」


 それは、言い切る前だった。


「脱線した車体をどうにかしてこい、でしょ。やってくるけど、あんまり衝撃を車体に与えないで。蓮翔さんの攻撃力だと先に車体が壊れる」


 まるで冬の吐息のように、平然と和穂は告げた。

 普通ならば無理だと逃げ出してしまう要求に、自信のなさを一欠片も感じさせぬ深沈たる態度。不可能に近い、今回に関しては断られても仕方がないと、タカをくくっていた蓮翔は――


 自然と、笑みがこぼれていた。


「さすが、頼もしいですね。お願いしますよ」


 互いに一度だけ頷くと、蓮翔は打ち破った列車の壁から屋根へとかるがる駆け上がって行った。それを見届け、和穂も脱線を止めるために列車の中央へとかけ出す。


 ――蓮翔さん、ほんと人がいいよな。信じてやまない感じ。

 ――なのに、なんであんなに自己中なんだろ……お坊ちゃん、だっけ? あれなのかな。


 昔漫画で見た知識を思い出しながら走り続ける。

 その最中、天井からバコンッ、と音が鳴り響いた。蓮翔が穢憑影に攻撃を仕掛けたのだろう。相変わらず仕事は早いが、後先考えずに進むその姿勢はどうにかして欲しい、とため息を吐いた。


 脱線の衝撃により壊れた自動ドアから外に出る。蓮翔と同じように、軽々と列車のまるびを帯びた屋根に飛び乗った。飛び乗った拍子に顔に掛かった白髪を耳にかけ直して、顔をあげる。


 顔を上げた和穂は――そこで、息を呑むことになった。


「――……」


 列車の上に広がっていたのは、全てを忘れてしまうほどの佳景だった。

 一陣の、風が吹いた。ほのかな潮の香りが漂う暖かい南風だ。風の吹いた方向には、青く光る水平線がどこまでも広がっていて、真っ青な空との境目が分からないほど澄んでいる。海と反対側、和穂の後方には長々と連なる若葉の山脈。息を吸うのが幸せで心地よくて、永遠にこの景色を見ていたいと思えるほど、和穂は出雲という極楽浄土に心を奪われていた。


 ――もし、ここで列車が逆さまになって、地面に落ちてしまったら……どうなるんだろう。


 ああ。それは、想像に容易かった。

 この列車は高架線上を走行している。つまり、地から十数メートルも離れた地点で活動しているのだ。もし、このまま避難が間に合わず、列車が高架線から落下して、真っ逆さまに地へと引きずり込まれようものならば……ああ、きっとそれは、目を逸らすこともできぬほど、悲惨で残虐で残酷な、地獄が出来上がるだろう。

 真っ青な空が真っ赤に染まり、緑の大地が真っ赤に染まり、人々の悲鳴すら、真っ赤に染まってじきに聞こえなくなる。


 近くにいて、何も出来ずに、誰一人と救えなかった和穂の体躯も、真っ白な髪も、真っ赤に染まることだろう。


 そんな惨状を、和穂は何度も何度も、目に焼き付けて育ってきた。見たくもなかった、見慣れたくもなかった景色を思い浮かべて、そしてより一層、強く思うのだ。


「……こんなに綺麗な景色が壊されるのは……嫌だな」


 無理です、できません、助けてください、代わりになってください、突きつけないでください――……本当は、こうやって叫びたかった。ずっと。今までも、これからも。何度でも。

 それでも、できなかったのは、約束呪 いと、神からもらったきっかけがあったからだ。


 神は、きっかけを創るのが得意だ。


 たとえ、普通誰がやりたいんだよこんなこと、なんて思ってしまう事柄でも、簡単にきっかけを創って、その中に流し込むことが出来る。神様とはなんて壮大で、器用で優しくて、それでいて残酷なのだろうか。

 それでも、その残酷なきっかけによって、人々は生かされている。

 誰かが、知識を配る職に就くように。誰かが命を育ててくれるように。誰かが米を耕してくれるように。誰かが国を統治してくれるように。―――誰もが、毎日の生活の中、命を懸けて、生きているように。


 きっかけ。それは、呪いとも、約束ともとれる言葉。

 人生を縛り付けて、逃がすまいと手足を引っ張り合い、時には足枷になり、時には背中を押す風になり、時には命を繋ぎ止める生命線となる。

 そして、そのきっかけを手放す時。人はまた、一段と弱くなり、その弱さを乗り越えた時、人はまた、強くなれる。

 そう、たとえば――


 ――このローカル列車の全長は約四〇〇メートル。私の通常時は五~十メートルくらいだから……。

 ――全力で抜刀したとしても、最後尾までは届かない。

 ――それに、私の方程式は殺傷能力が高いから、乗客に当たった瞬間、死亡する場合もある。……あ、人間に当たっても気絶程度なんだっけ? じゃあ大丈夫かな。

 ――それでも、止め方をしっかり考えないと。


「……あぁ。いいこと考えた」


 目を瞑り。純白の刀を両手で握り。美しい景色の広がる空へ突き出した。


「……ふぅ――……」


 己の犠牲を、もう一度、神へと捧げ、そして、誓う。


「方程式、解―――」



「よっと」


 今現在、蓮翔はローカル列車の最後尾よりも後方にある、線路上で刀に寄りかかっていた。蓮翔の足の下には、右腕と右足、左腕と左足、四肢全てをもがれた穢憑影が、身体を『一生懸命』に捻って、なんとか蓮翔から逃れようともがいていた。が、そんな穢憑影の抵抗も無意味に終わる。穢憑影の生命線――人間の急所でもある首には、蓮翔の双刀が重なり合い、まるで罪人の印である『バツ』を描くようにクロス掛けされていた。

 刀の頭に両手を置いて、その上に顎を乗せて。余裕そうに鼻歌を唄いながら、蓮翔は穢憑影の断末魔を聞いていた。


「っぐぅっ!! 離せ!!」

「弱いですねぇ、あなた。そんなんだからすぐにスタミナ切れで、ろくに力も出せないんですよ。あ、動かない方がいいです。俺の発動条件は、『刀が交差』することですから」


 穢や穢憑影は、ただの人間の攻撃は通用しない。たとえどれだけ強大な銃火器を利用しようが、何度刃物で傷つけようが、たとえ世界を脅かすような兵器を使おうとも、人の力では傷一つ強さつかない。代理人のみが持つ、『方程式』と呼ばれる特殊な力を使わなければ、穢達を祓い去ることは出来ないのだ。


 そしてもちろん、穢憑影に抵抗できている蓮翔も、当然ながら『方程式』を持ち合わせていた。


 蓮翔の方程式―――瓢霆ノ交。式の内容は『爆破』。発動条件は神器の『交差』。二本の刀が交わることで、神器の神力と制約に作られた神力が混ざり合って爆ぜる。最大威力は頑張れば山一つを吹き飛ばせる程で、最小でも穢憑影の首を吹っ飛ばすのは容易い程度の威力が出せる。威力が強ければ強いほど密葬衆を圧倒できるが、同時に民間への被害も拡大してしまう、単純だが難しい式。威力のコントロールが重要となるこの式は、蓮翔も使いこなせるまでに年単位の刻を要した。

 が、今ではこの通り。ただの理性があるだけの穢憑影ならば、3回発動する合間にケリが着く。


 ――さて、と。この穢憑影、理性があるだけで雑魚でしたし……情報も持っていなさそうですよね。早急に祓って、和穂と合流しましょうか。


 生かしておいても意味は無いだろう。ならば、早く祓ってしまえ。方程式の発動条件は満たしている。神器に蓮翔の神力を送り込めば、神器の神力と共鳴し爆破が起きて――


「てめぇ知ってるぞ! 楽都夏夜の婚約者だろ!」

「――……」


 真っ暗闇に鎖された心に一瞬だけ光が貫いた。次にはっと息を飲んだ。呼吸を忘れた。目まぐるしい記憶が蘇って目を見開いて穢憑影を直視した。言っていることが理解できなくて刀に寄りかかっていた身体を起こす。横目に見えるきらびやかな海を見ながらふと思い出した。


 ――ああ。他人から、その人の名を聞くのは、久しぶりだなぁ。


「あいつが今どうなってんのか、教えてやろうか!? あぁ!!」


 その名を出されたが最後、蓮翔に穢憑影の声は届かない。


 それほど、あの愛しい人は、蓮翔の全てだった。


 なのに、あの蒸し暑かった日、あの星すら見えぬ闇夜、あの地獄のような瞬間に――全てが、壊されて、奪われた。



 ――ああ……あなたの優しい声が、今でも鮮明に蘇る。



『蓮翔』


 ――……夏夜。


『蓮翔、好きだよ』


 待って。お願い。待ってください。


『だいすき』


 俺もです。俺も大好きです。愛しています。だから――


『だからね』


 嫌だ。聞きたくない。それ以上は、聞きたくない。


『蓮翔だけは』


 あなたがいなければ、この想いに意味は無いんだ。だから、だから――


『死なないで』


 行かないで。


『待ってください蓮翔さん!』

『蓮兄! 行かないで!!』


 大切な貴女に告げた言葉を、今度告げられたのは、俺自身だった。


「聞いてんのかクソ野郎!!」

「お……忘れてた」


 穢が犬みたいに吠える声で、蓮翔は現実に戻ってくる。こんなに穢は耳障りなのに、自然と怒りは感じない。

 それは、『制約』によるものか、はたまた、真実を受け止めているからか。

 それとも――


 ――俺が、仲間から逃げたからですかね。


 貴女のために、貴女が一番苦しんで、悲しんで、涙を流す行為に、足を踏み入れてしまったからか。


「お可哀想になぁ!! てめぇが無能なせいで、あれが密葬衆でどんな扱い受けてるか――」

「穢憑影さん、『方程式』をご存知ですか?」

「……あん?」


 突拍子もない質問に、穢憑影は呆けた声を上げた。


「方程式とは、『(自己犠牲×制約)+神器+発動条件=方程式』と表します。全てが揃ってこそ、方程式と言える代物です」


 穢憑影を気にもかけず、蓮翔は言いたいことを一人で呟く。蓮翔の意図など穢憑影には理解ができない。けれどそれでいい。意図を探られないよう、蓮翔は話を続けた。


『方程式』。代理人特有の異能力であり、『なにかを犠牲』にすれば生きている者全てが取得できる、古来より受け継がれし人間の努力の賜物。方程式を取得することで出雲政府にその存在を認められ、神の器なる特殊な武器、『神器』を授かることができる。代理人達は数千年もの間、この方程式と神器を使い、密葬衆と戦ってきた。


 方程式を取得するためには、己の『なにか』を犠牲にしなければならない。寿命でも、目でも足でも声でも、感情のひとつでも、犠牲にするものは様々。なにか一つでも犠牲にすることで、出雲の古の神にその存在が認められ、出雲を守るための力を授けられる。


 ただし、力に犠牲は付き物だ。たとえ己を犠牲にしたとしても、それだけでノーリスクの能力が得られる訳では無い。

 なにかを犠牲にすることで、その人間は『制約』という神への誓いを憑けられることになる。

 たとえば、感情の一つの『悲しみ』を犠牲に使ったとしよう。すると、その人間から『悲しみ』の感情が消え失せる。それと同時に、『一生涙を流せない』という制約が付け加えられることとなるのだ。この制約の一番の障害は、制約は破ることができる、ということ。犠牲と違い、制約は付け加えられる足枷であるため、制約により封じられたものが己の内から消えることは無い。問題は、制約はあくまで『神への誓い』だ。制約を破るということは神を裏切ると同等の行為に値し、制約を破ることで胸に激痛が走り、心が段々と穢れていく。その激痛に己が耐えられなくなった瞬間、代理人の心は闇に染まり、『穢憑影』へと成ってしまうのだ。


 そして、自己犠牲が認められ制約が付け加えられることで、代理人の身体の中には『神力』という生命力が構築される。神力は身体の隅々、細胞まで浸透する。その神力を発動条件を満たした段階で神器に送り込むことで、式の能力が発動する仕組みだ。また、制約を破った時は神力がそれに反応し、胸部に激しい痛みを与える。所詮、方程式とは昔に存在していた神々達から借りた、仮初の力だ。力の前借りとは、犠牲と代償が付き物だった。


「逆に、穢や穢憑影は、なにも犠牲にせずに、力を手に入れたいと考えた方々の成れの果てですね。楽に生きたい、人の上に立ちたい、自分中心に世界が回って欲しい……汚い人の成れ果て、とでも言えばいいでしょうか?」

「っるせぇ! 代理人なんかに、俺の気持ちがわかってたまるかよ!!!!」

「あっはは! 分かりたくないに決まっているでしょう。俺を、努力しなかったあなたと、同類にしないで下さいよ」

「くっ……てめぇッ……!!」

「ははは、怖い顔」


 屈託のない笑顔で、蓮翔は穢憑影を嘲笑う。


「――俺は爆ぜるような『憎悪』を、犠牲にしましたよ」


 神様のお告げのように、蓮翔は穢憑影を呪った。


 初めは、人々の命を無差別に奪う密葬衆への憎悪だった。初めは心に影響を与えなかった憎悪が、成長するにつれて……否、自分以外の人間の心情がわかるようになるにつれて、徐々に邪魔な物になっていくのを感じた。邪魔なものは主に密葬衆の被害者達の嘆きだ。自分のことでも精一杯な蓮翔の耳には、いつも被害者の悲痛な叫びがこだましていた。他人のために感情を使うことに疲れてしまっているのに、被害者の声は耳に住み着いて離れなくて、ならばいっそ、憎悪を犠牲に力を手に入れてやろうと思って、『憎悪』という感情を遠くに手放した。――捨ててしまったら、楽になった。代わりに怒りを感じなくなってしまったけれど、感情の制御がしやすくなって、方程式を手に入れられて、恨んでいた密葬衆と対等に渡り合えるようになって。全てが、いい方向に進んでいると思っていた。


 けれど。犠牲の意味が、全て変わってしまったのは、あの夜だ。


 夏夜が、奪われた夜。憎悪を『犠牲』にしてしまったことで、密葬衆を恨むことも、動かない身体を怒りで動かすことも、死ぬまで戦うことも出来なかった。あまつさえ、自分を恨むことすら出来なかった。

 感情が人の原動力だと、理解していたはずなのに。大切な人が奪われて、本当の意味を理解した。その時には全てが遅くて、心の底から後悔して喚き散らしたとしても、何一つ取り戻せはしなかった。


 時折、思う。自問する。


 犠牲とは、『逃避』か、はたまた『貢献』か、と。

 そんなこと、犠牲に犠牲を重ね、正解を見出したものにしか、分からない。

 正解すらも分からなかった蓮翔には、わかりっこない。


「……――そしたらなんとっ、怒ることが出来なくなったんです! 制約とは厄介ですねぇ。おかげでストレス発散もできなくて、少し不眠症気味ですよ、トホホっ……………――でも」


 雲ひとつない弾けるような笑顔で、穢憑影の顔を覗き込んだ。


「俺は、憎悪を捨てて力を手に入れたこと、後悔していません。だってそのおかげで俺は、あなた達に奪われたあの人を――」


 ――ああ。会いたいなぁ。


 愛しむように、何度でも、その名前を呼び続けるだろう。これからも、ずっと。


「夏夜を、取り戻すことのできる力を、手に入れましたから」


 だから、後悔などないのだ。


 穢憑影の首に刃を交えようとした時、ふと粉雪が舞い落ちるような神気を感じて、天を仰いだ。


 ――……半年前と変わらず……妬いてしまうほど美しい神気ですね。


 この神気は和穂特有のものだろう。方程式を解放しているということは、どうやら、この事故を終結させる目処が立ったらしい。

 和穂の神気は、冷酷で、気丈で。でも、触れたらすぐに崩れてしまう、儚い寂しさを含めている、そんな神気だった。沢山の代理人に囲まれて育った蓮翔でさえ、こんなにも冷たい神気に触れたことは無い。

 それでも。代理人ならば、絶対と言い切れる事実を、口にした。


「……後悔していないのは、きっと、彼女も一緒ですよ、ね」


 まるで、月の裏を覗くような空漠たる声で、蓮翔は呟いた。




 そう――

 和穂は、神に捧げた。この国で生きるために必要な、力を手に入れるために。


「方程式、解――」


 刀を列車の屋根と平行になるように構える。

 目を伏せて。一息吸って。吐いて。

 緩徐に、刀を抜く。白い刃に猩々緋の映し出された。

 瞼を開き、いつも通りの刀をみて、和穂は優しく綻んだ。

 そして――


 神への誓いを、開口した。


「――雹霽月《ひょうせいげつ》」


 勢いよく刀を抜刀した瞬間、刀光が鳴り響く。

 やがて――


 氷筍が、惨落した。


 和穂が抜刀したと同時に、刀が白光をはっした。それはまさに、三尺秋水の美しさ。

 次の瞬間、ガラスが構築されていくかのように、一枚、二枚、三枚と、明媚に光を灯しながら薄氷が蔓延っていく。和穂を蕾として、列車を茎に、線路を土として添えて。太陽を刻に、刀を雨に、全てを使い、人々を守る花が歩みを進める。葉を伸ばし、花弁を広げ、怖さなんて感じさせない。心がほだされていくような、花を綻ばせる。


 花が咲きこぼれた刹那、一陣の寒風が吹き荒れた。


 出来上がったのは、薄氷の花弁を結合させた、山荷葉だった。和穂達が乗っていたローカル列車は、窓も、扉も、車輪も全て、それはもう想像もできないほど、美しく咲き誇った氷花に包み込まれていた。


「……これで、もう、大丈夫」




「ほぅ……」


 真夏に白い息を吐くことになるなんて。半年前の自分は思いつきすらしないだろう。


「あっはは………相変わらず、規格外の式だなあ」


 からっ風のように蓮翔が笑う。今まで噛みつき続けていた穢憑影でさえ、桁違いの規模に目を見開いていた。


「彼女はね、自分に対する『優しさ』を捨てたんです」


 そんな穢憑影の耳元で、懇切丁寧に、蓮翔は語りかけた。


「残ったものは、凍てついて二度と溶けない、心だけ……」


 語り続けながら、ゆっくりと、穢憑影の身体から身を離す。


「リスクを背負いながらも、己を犠牲にして制約を結び、生まれる力……それが――」


 擦れば、キィィン――と美しく鳴り響く刀を、まるでハサミで紙を包み込むように、傷一つないうなじに重ね合わせた。


「方程式です」


 ぽん、と、―――が弾けた。


 全てが燃えてしまう盛夏の最中。

 美しい氷の花によって氷点下に変えられた、見晴らしのよい壟で呟いた。


「………あぁ、もう、聞こえませんでしたね」

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リコリス・ラジアータ 凩雪衣 @setsui-kogarashi

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