第3話|「結晶の胎動」

「階層都市アルカノス」の中層――上層と下層を隔てる場所。白亜の建物群が影を落とす巨大な通路に、濃い霧がたちこめている。足元では小さな光が明滅し、魔力の流れを示すように微弱な波動を放っていた。


 一人の人間がその通路に立ち尽くしている。黒いフードに覆われた顔は影に沈み、表情は読み取れない。足元に浮かぶ小さな魔力の光が、わずかに彼の輪郭を照らし出していた。


「下層からだな……」

 落ち着いた声が静寂を切り裂く。


 目を閉じ、裂けるように吹き抜ける魔力の流れを感じ取る。強烈な波動が階層都市の底部、「浮遊の裂谷」のさらに下――最下層から湧き上がっていた。


魔導核アルカナコアか……面白い。」

 唇がわずかに動き、冷ややかな笑みを浮かべた。


通路の脇には、下層へと続く古びた鉄製のエレベーターがある。錆びついたケーブルが軋む音を立てているが、そちらを無視して、通路の端に近づいた。そこから下を見下ろすと、遥か遠くで紫色の光がわずかに揺れているのが見えた。


「下層の連中がを扱えるとは思えんが……」

マントを翻し、ふっと足元を蹴った。次の瞬間、体が宙へと投げ出される。


周囲の霧の中で、小さな魔力の輪が足元に現れる。その光がゆっくりと体を支え、まるで空を歩くかのように裂谷の方へと向かっていく。


「まあいい。手に入れるのは私だ。」

声が霧に溶け、姿が消えていく。下層の奥深く、紫色の光が一瞬、かすかに脈打った――それがを呼び寄せるかのように。




 診療所の中庭を、朝もやが白く覆っていた。その中に横たわる巨大な蛇魔の死骸から、異様な紫の輝きが漏れ出している。開かれた腹部からの光が、時折強まっては弱まり、まるで生きているかのように脈動を打っていた。


「反応値、通常の約3.2倍......間違いないな」


 トーラは死骸の前に立ち、冷静に数値を記録する。ゴーグル越しの目には、研究者特有の鋭い光が宿っていた。周囲の空気が徐々に重くなり、かすかに金属めいた異臭が漂い始める。


「医術師トーラ、これは本当に魔導核アルカナコアなのですか?」


 査察官長の男が声を震わせる。近寄ることもできず、数歩後ろで足を止めていた。


「黙って見ていろ。記録が先だ」


 トーラの前には、解剖用の器具が整然と並べられている。ノートには細かい数値が次々と書き込まれていく。その動きはまるで機械のように正確で、魔導核の脈動する光のリズムに合わせ、ペン先が滑るように走る。


「脈動の間隔、13.5秒......振幅、増加傾向。表面温度、死後の通常値を大きく逸脱」


 突然、右腕の包帯の下でズキンと痛みが走った。トーラは眉をひそめたが、表情を崩すことはない。包帯の下で紫の血管が脈打ち、熱を帯びていくのが分かる。


「......お前も反応しているのか」


 トーラは包帯越しに右腕を軽く握り締め、改めて魔導核を見据えた。


「通常、死後の魔導核は完全に活性を失う。しかし......」


 トーラは息を整え、魔導核の輝きを指差した。


「この個体のコアは生きている。いや、それどころか活性が高まっている。まるで、何かが目覚めようとしているかのようだ」


 査察官長の顔が青ざめる。


 「それは......どういう意味だ?」


「簡単な話だ。この蛇魔は、死を超えようとしている」


 その冷静な断言に、一瞬の静寂が訪れる。査察官長は反射的に一歩後ずさった。


「無駄に怯えるな。観察に集中しろ」


 トーラは口調を変えず、淡々と温度計を取り出し魔導核に差し込んだ。その瞬間——


 キィィィン......。


 魔導核の表面に細い亀裂が走り、そこから紫の光が漏れ出した。低い振動音が耳の奥を震わせる。空気が更に重く、粘つくような質感を帯び始めた。


「亀裂が......!」査察官長が叫ぶ。


「静かにしろ」


 トーラは鋭い目つきで魔導核を凝視する。その亀裂は徐々に広がり、中から奇妙な音と共に輝きが強まっていく。


「これは......まるで新たな魔力の核を形成しようとしているようだ」


 トーラの声が僅かに震える。それは恐れではなく、研究者としての昂揚だった。手帳に新たなページを開き、魔導核の変化を克明にスケッチしていく。


 その瞬間、亀裂から漏れ出る光が強烈になった。まるで中庭全体を包み込むかのような紫の輝きが広がる。


「全員、下がれ!」


 トーラの一喝と同時に、アルカナコアが大きな音を立てて崩れ始めた。その内部で、何かが蠢いている。紫の光がまるで脈を打つように明滅を繰り返し、その度に空気が重く淀んでいく。


「面白い。これは......予想を超えている。表面温度、約120度。いや、それ以上だ」


 トーラは記録を続けながら、崩壊していく魔導核をじっと見つめていた。亀裂は更に広がり、内部から漏れ出す紫の光が渦を巻いている。光が広がるにつれ、周囲に漂う金属臭が強まっていく。


「トーラ殿!これは危険すぎる!」


「黙れ。これは貴重なデータだ」


 トーラの右腕の包帯の下で、紫色の血管が更に熱を帯び、脈打つ痛みが走る。しかし、それすら彼の集中を乱すことはできない。


「これは通常の死後現象ではないな。むしろ......」


 言葉が途切れた瞬間、アルカナコアが低い唸り声のような音を発した。紫色の光が更に強まり、中庭全体が振動し始める。


「退避しろ。これ以上近づくと巻き込まれる」


 査察官長たちが後ずさる中、トーラは新たな測定器を取り出した。


「体内の魔力流動が通常の3倍以上......これは、単なる再生現象ではない。進化、いや......」


 その瞬間、魔導核の中心から甲高い金属音が響き渡った。亀裂が更に広がり、その内部で何かが形を成し始める。


「変異......だな」

 

 トーラは魔導核の変化を冷静に見つめる。その瞬間、核が眩い光を放ち、轟音と共に砕け散った。衝撃波が中庭を襲い、全員が弾き飛ばされる。

 

「なっ......!」

「こ、これは......!」

 

 査察官長たちが悲鳴を上げる中、トーラだけが静かに立ち上がった。朦朧とする意識の中、彼の目は砕け散った魔導核の先に固定されている。

 

 朝もやの中に、一つの影が浮かび上がった。

 

 青みがかった鱗に覆われた人型の姿。その体には紫の光が血管のように走り、まるで生きた魔力の集合体のよう。蛇のような縦長の瞳からは冷たい光が漏れ、口からは地面を焦がす粘液が滴る。

 

「......想定以上だな」

 

 トーラの声が僅かに震える。それは恐れではなく、研究者としての興奮だった。


 その瞬間、トーラの右腕が激しく疼いた。包帯の下で血管が熱を帯び、まるで魔導核と共鳴しているかのように脈打つ。彼はわずかに顔を歪めたが、すぐに痛みを押し殺し、目の前の状況を冷静に見据えた。


「……ッ、なんだこれは!」

 

 査察官長が絶叫を上げた。彼の声は完全に恐怖に染まっている。その目は紫色の光を放つ魔導核と、異形の存在を見て泳いでいた。


「私の任務は生き残ることだ……こんなところで終わるわけにはいかん!」

 

 彼は咄嗟に隣の若い側近へと視線を向け、顔を引きつらせながら手をかざした。


「す、すまん!お前には死んでもらう!」

 

 査察官長の手から魔法の光が放たれ、側近の足元を狙い撃つ。


「ひっ……!?査察官長!」

 

 若い側近は驚きの声を上げたが、次の瞬間には膝をついて崩れ落ちた。魔法の衝撃で足首が砕け、骨が折れる不快な音が響いた。苦痛に顔を歪める彼の叫びが中庭に響き渡る。

 

 査察官長は側近を盾にするようにその場を離れ、逃げ出そうとする。


「上に報告しなければならんのだ!私がここで死ねば、国家がどうなるか分かっているのか!?」

 

 その言葉には自己保身しかなく、仲間を犠牲にすることへの罪悪感など微塵も感じられなかった。


 トーラはちらりと彼に目を向け、冷たく呟いた。

 

「……人の命を盾にして逃げるか。典型的な下衆だな。」


 査察官長は背後からのトーラの冷たい言葉に気づくこともなく、震える足で遠ざかっていく。顔には脂汗が浮かび、命乞いにも似た言葉を小声で繰り返しながら、朝もやの中へと逃げようとした。


「ワハハ……どうだ!逃げてやったぞ、馬鹿どもめ!」

 

 しかし、その時――。


 異形の存在が静かに動いた。尾のように見える長くしなやかな影が、紫色の光を纏いながら突然鋭く伸びた。それは空を裂くような音を立て、わずか一瞬で査察官長の背後に迫った。


「え……?」

 

 査察官長が振り返る間もなく、尾の先端が鋭い刃のように輝き、彼の首筋を一閃した。


 ゴスッ。鈍い音が響く。


 その瞬間、査察官長の体がその場で崩れ落ちる。切断された首は恐怖に引きつった表情のまま宙を舞い、その瞬間、吹き出した血が朝もやの中で弧を描いた。


 トーラはその光景を冷ややかな目で見つめ、包帯を巻いた右腕を軽く動かしながら呟いた。

 

「……あの尾の動き、蛇魔の特徴に酷似している。鞭のような筋肉の収縮か。それとも魔力の補助か……興味深い。」


 査察官長の体は完全に動きを止め、その血の臭いが朝もやの中に漂い始めた。異形の尾がゆっくりと引き戻され、再び静かに揺れる。


「瞬発力も制御も一級品……ただの怪物とは思えない。」

 

 トーラの声には驚きの色はなく、ただ冷静な観察者としての分析が滲んでいた。


 異形は何事もなかったかのように再びトーラの方へ視線を向けた。


「次は俺の番か……さて、どう出る。」

 

 トーラはわずかに笑みを浮かべながらメスを握り直し、異形のさらなる動きを待ち構えた――。


 その時、診療所の扉が開く音がした。


「先生!」


「マリア、下がれ」


 トーラの声が普段にない鋭さを帯びる。


「地下室へ行け。扉は閉めろ」


 人型の存在が一歩、また一歩とトーラに近づいてくる。その足跡には紫の光が滲み、地面が焦げていく。冷たい蛇の瞳がトーラを見据えた瞬間、右腕の包帯が熱を帯びて紫く輝き始める。


「血管の反応、更に上昇傾向か」


 トーラは包帯の下で蠢く血管を感じ取りながら呟く。その瞬間、人型の存在が微かに首を傾げた。まるで、トーラの言葉の意味を理解しようとするかのように。


「観察しているのか?」


 トーラは人型の動きに目を細める。相手の瞳の奥に、原初的な知性が宿っているのを感じ取っていた。


「お前は......アルカナコアそのものなのか」


 その問いに、人型は動きを止めた。その姿勢には明らかな意図が感じられる。しかし次の瞬間、その表情が一変した。


 ガアアアッ!


 人型が突如、獣じみた咆哮を上げる。その声には言葉らしい響きはなく、純粋な殺意だけが込められていた。口から漏れ出す粘液が地面を腐食させ、異臭が立ち込める。


「やはり……言語機能は未発達か」


 トーラの冷静な観察眼は、恐怖に屈することはない。むしろ、その瞳には研究者特有の昂揚が浮かんでいた。


 突然、人型が四足の姿勢に落ち、獣のような構えを取る。鱗と鱗がこすれ合う音が不気味に響き、全身から紫の光が強まっていく。その様子は、完全に制御された動きというよりも、本能に突き動かされた野性そのものだった。


「構造も不完全......だが、それ故の野性か。」


 トーラが冷静に呟いた瞬間、人型が地面を蹴った。その速度は、肉眼で捉えるのが難しいほどの異常な速さだった。空気を切り裂く音が耳を刺し、地面に爪が叩きつけられた跡がくっきりと残る。


「ッ……来るか。」


 トーラは一歩、半歩と後退しながら人型の軌道を見極める。直線的な動きから一転、急激なカーブを描きながら距離を詰めてくるその動きには、獣じみた本能と人間のような知性が混じっていた。


 紫の閃光が目の前を横切る。爪の一撃が床を抉り、石片が飛び散った。トーラは咄嗟に横へと身をかわし、回避動作の中で冷静に次の手を考えている。


「予測を上回る反応速度か……面白い。」


 人型の爪が掠めた風が、トーラのローブの裾を引き裂いた。だが彼の表情は微動だにせず、ただ観察者としての視線を相手に注いでいる。


 トーラは右腕の包帯を素早く緩め、紫に輝く血管を露わにした。そして懐から小さな注射器を取り出し、無言で腕に突き刺す。


「貴重な研究材料データだ。存分に調べさせてもらおう。」

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禁忌の解剖医 -魔物の臓器を研究していたら、気づけば世界が俺を必要としていた件- なか @naka007769

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