第2話|「魔導核」

「魔術医学史上、前代未聞の冒涜行為」


 朝もやの立ち込める下層で、査察官が通達を読み上げる。その声に、立ち並ぶ石造りの建物が不気味な反響を返す。


 査察官は痩せぎすの体型に黒い長衣をまとい、その胸元には銀製の紋章が光っていた。紋章には秤と剣が刻まれ、それが「正義」の象徴であることを示している。だが、彼の鋭い眼光と冷徹な表情からは、慈悲のかけらも感じられない。帽子の影に隠れた額には深い皺が刻まれ、その影が顔をさらに険しく見せている。


「被験体たる少女に、魔物から抽出した血清を投与した...か」

 

 その声には、嫌悪と困惑が混ざっていた。


 薄い唇を歪めながら彼は手にした通達書を振り、周囲を睨むように見回す。その仕草は、異端を狩る者としての使命感と同時に、どこか誇張された演技じみた威圧を感じさせる。


 トーラの診療所は、下層の路地の突き当たりにあった。近づくにつれ、周囲の建物とは異質な匂いが漂い始める。甘く重たいホルマリンの香り、そして金属的な血の臭気。査察官は鼻をひくつかせ、一瞬顔を歪めるが、すぐにその表情を冷たい無表情に戻した。


「入るぞ!」


 標本棚が並ぶ診察室の光景に、若い役人たちは足を止めた。琥珀色の液体に浮かぶ無数の魔物の組織。整然と並べられた解剖器具。壁一面に貼られた緻密な図版の数々。


「医術師、トーラ!」

 

 査察官の声が震える。しかし返事はない。代わりに、奥の部屋から物音と、低い呟き声が聞こえてくる。


「この血管の走行、通常の個体とは明らかに異なる。これは...」


「トーラ!」


「...失礼」

 

 扉が開き、白衣の男が姿を現れる。右腕には包帯が巻かれ、その下から紫がかった血管が透けて見えた。手には、まだメスが握られている。


「これはどうも。ご丁寧に朝早くから……」


「実は俺からも報告させていただきたいことが。かなり...興味深い事態が起きていてね」


 トーラは急いでメスを消毒槽に浸し、手を拭う。


「報告だと?」

 査察官が眉を寄せる。

「お前は今、自分が何の罪で告発されているのか理解しているのか?」


「まぁ。だが、それを判断する前に、まずは調査結果を見て欲しい」


 トーラの声はいつもの如く淡々としていたが、その目は異様な輝きを放っている。

「このサンプルなど、非常に興味深い発見が……」


「お前の勝手な実験など、見るつもりは」


蛇魔じゃまの異変についても?」


 その言葉に、査察官の足が止まる。

「...何?」


「通常、蛇魔は神の使いとして崇められ、土地の力を司ると言われている」

 トーラは中庭の扉へと歩みながら説明を続ける。

「俺も普段は切開する部位を最小限に抑え、解剖後は丁寧に供養も...」


「神の使いを切り刻むことに、敬意も何もあるまい」


「それは、これを見てからでも」


 扉が開かれ、朝もやの中に巨大な影が現れた。蛇魔の死骸だ。


 査察官の息が止まる。まるで建物ほどもある巨体が、朝もやの中でうねるように横たわっていた。


「これは...!」


「標準的な蛇魔の五倍以上の大きさを持つ個体です」

 トーラの声が研究者特有の興奮を帯び始める。

「しかも内部構造の異常は、サイズの変化だけでは説明できない。特に――」


 メスを手に取り、既に切開されていた腹部へと歩み寄る。まるで手術室にいるかのような精確な足取りだ。


「魔物の魔導核、いわゆるアルカナコアは、魔力を循環させる中心部。心臓のように脈動しながら、体内の魔力の流れを制御している。だが……」


 腹部を広げると、その奥から異様な光を放つ結晶が姿を現した。心臓のように脈動する紫の輝きに、査察官たちが思わず後ずさる。

 

「通常の魔導核とは異なり、これには異常な膨張が見られている。まるで、魔力を過剰に取り込んだ結果の暴走のような構造だ」


「これは...!」

「魔導核が、こんな形で変異するなんて、ありえない!」

 

 随行の若い魔法使いが、震える声で言葉を漏らす。


「通常の魔導核は、種族ごとに決まった形状をしているはず。体内の魔力を調和させ、種族特有の能力を発揮させる……それが魔物の生命線。こんな歪み方をするなんて」


「興味深いのはここから」

 トーラの声が、さらに熱を帯びる。

「この歪んだ魔導核から分泌される毒は、通常の治癒魔法を完全に無効化する。まるで魔力そのものを喰らうかのように」


「それで、その少女に...」

 査察官の声が途切れる。


 トーラは初めて表情を険しくした。

「一刻を争う状況だった。この毒の性質を理解できたのは、過去の解剖記録があったからこそ。標本の一つ一つが、命を救うためのヒントになる」


 その時、誰かが診療所の扉を勢いよく開ける音が響いた。


「先生!」


 振り返ると、そこにはマリアが立っていた。まだ青白い顔色は完全には戻っていないが、しっかりと自分の足で立っている。首に巻かれた包帯の端が、朝日に照らされて白く輝く。


「これが...噂の少女か」

 査察官の声が震える。

「たった一日前まで、蛇魔の毒に...」


「先生が助けてくれたの!本当だよ!」

 マリアは一歩も引かない。

「この傷を見て!」


 彼女が腕をまくると、そこには薄紫の痕が残っていた。治癒魔法を何度も試みた痕が、まだ肌に残る。


「マリア」

 トーラは静かに遮った。

「もう十分だ」


「でも!」


 トーラの視線が、巨大な蛇魔へと向けられる。

「通常ではあり得ない魔導核の構造変化。魔力を喰らう毒。そして、この異常な成長」


 思わず研究者の顔になりかけたトーラは、慌てて咳払いをした。


「...つまり、これは一医術師だけで扱える問題ではない。魔法貴族の知識も必要だ。あなたたちは、俺を監視しに来たのだろう?」


 査察官は意外そうな表情を浮かべた。部下たちの間でも、小さな囁きが交わされる。


「ふむ...半分正解で、半分不正解だ」

 査察官は顎に手を当て、しばし考え込む。

「貴方の解剖技術を、我々の若手に教えてもらえないだろうか」


 その提案に、トーラは目を細めた。


(教える、か...)


 トーラは自身の右腕に目を落とす。包帯の下の紫の血管が、かすかに脈打つ。今まで医術は異端の道。決して認められないと思っていた。だが、その技術を学びたいと言われるとは。


(本当に技術を求めているのか。それとも、これも監視の口実か)


「医術の基本は、まず解剖学の理解から」

 トーラは慎重に言葉を選ぶ。

「そして、それは実践なしには...」


「まさか、私たちが直接メスを?」

 随行の一人が青ざめる。


「解剖なしに、魔物の構造は理解できません」

 トーラの声は淡々としているが、わずかに研究者の色が混じる。

「メスを入れ、組織を確認し、その痕跡を記録する。そうして初めて、魔物の真の姿が見えてくる」


「...それが条件だ」


 査察官は苦笑を浮かべた。


「随分な強気だな。だが...」


 彼は巨大な蛇魔の死骸に目を向ける。紫に輝く結晶は、今も不気味な脈動を続けていた。その度に、周囲の空気が重く淀んでいく。


「魔法だけでは対処できないのは確かか...。よかろう。若手を二名、貴方の下に付けることにしよう」


「あの、わたしも!」

 マリアが手を挙げる。

「先生の弟子に...!」


「だめだ」

 トーラの声が即座に返る。

「まだ早い」


「えー!でもわたし、解剖図だって全部覚えたもん!心臓の位置も、血管の走り方も、毒腺の構造だって...!」


「解剖図が読めることと、実際に解剖をすることは違う」

 少し表情を和らげ、マリアの頭を撫でる。

「今は、早く傷を治すことだけを考えるんだ」


「むう...」

 マリアが頬を膨らませる。


「では、取り決めを」

 トーラが言いかけたその時、査察官が思い出したように声を上げた。


「そうだ。まずはその標本の...整理を、だな」


「整理?」

 トーラの声が僅かに低くなる。


「これほどの量は不要だろう」

 査察官は標本棚を指差す。

「研究に必要な最小限にとどめてもらいたい」


 トーラの表情が微かに曇る。標本棚に並ぶ一つ一つの瓶。その中には、長年の研究の成果が詰まっている。時には命と引き換えに得た知識の数々が。


(これで貴様の研究の大半は、我が手に...)

 査察官は内心で高笑いを浮かべていた。研究に「必要な」標本は上層に運ばせ、残りは処分させる。そうすれば下層の医者風情の持つ知識も、魔法貴族の所有となる。


「各標本には、詳細な研究記録が付随している」

 トーラは淡々と言葉を重ねる。

「もちろん、上層に提出する報告書にも、全て記載しよう」


 査察官の表情が一瞬歪んだ。記録が残っているとなれば、勝手な標本の持ち出しは難しくなる。


「それに」

 トーラは巨大な蛇魔の死骸に目を向けた。

「あれほどの異変が起きている今、これまでの研究記録は全て重要になるはず。一つの標本からでも、原因を突き止めるヒントが見つかるかもしれない」


 査察官は歯噛みしそうになるのを必死で抑えた。


「なるほど...確かにその通りだ」

 査察官は表情を取り繕う。

「では標本は残すとして、代わりに若手たちには、貴方の研究を細かく記録させてもらおう」


 その言葉には、明らかな意地悪さが滲んでいた。監視と記録。それは間違いなく、研究の妨げとなるはずだ。


「では、二日後から。それまでは新たな解剖は...」


 突如、巨大な死骸が痙攣したような動きを見せた。紫色の結晶から異様な輝きが漏れ出す。


「これは...!」

 トーラの目が、研究者特有の鋭い光を放つ。

「やはり」


 右腕の包帯を掴みながら、彼は巨体に近づく。結晶の中で、何かが蠢いていた。


「二日後では...遅いかもな」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る