第1話|「命を救うということ」

「...ッ!」


 トーラは目を覚ました。インクの染みた羊皮紙が頬に張り付いている。机に広げられた解剖図の上で眠り込んでいたようだ。重たい頭を上げると、目の前の解剖台に横たわる魔物の死骸が目に入った。


 蛇型の魔物の鱗には、まだ生前の艶が残っている。その体には幾筋もの切開線が入り、内部の組織が丁寧に展開されていた。メスを入れた箇所からは、酸っぱい血の匂いと、腐敗臭が漂う。


 15年の月日が流れ、今や28歳となったトーラは、下層でクリニックを営んでいた。白衣の下には解剖時の血が染み込み、その鉄錆のような匂いが常に付きまとう。細く長い指には無数の傷跡があり、右腕には包帯が巻かれている。時折、その下から紫がかった血管が透けて見え、かすかに脈動している。


 壁には無数の図版が貼られ、黄ばんだ紙が風で微かに音を立てる。棚には標本瓶が整然と並び、ホルマリンの刺激臭が部屋に充満している、それらは全て、彼が独自に研究を重ねてきた証だった。


 生まれつき魔力の弱かったトーラは、まともな治癒魔法すら使えない。それゆえに、彼は魔物の生態を理解し、別の方法で命を救う道を探っていた。解剖台の上で魔物の内部構造を見極めるとき、その鋭い目は研ぎ澄まされた輝きを放つ。


 通りからは人々の噂し声が漏れ聞こえてくる。


「あそこには近づくな。魔物を切り刻む化け物医者だ」

「魔法も使えないくせに、おぞましい真似を...」


 突然、診療所の扉が勢いよく開かれ、埃が舞い上がる。小さな少女が元気よく飛び込んでくる。


「せんせーいッ!今日も持って来たよー!」


 マリアだ。額に擦り傷を作りながらも、満面の笑顔で薬草の束を掲げている。薬草の清涼な香りが、ホルマリンと血の匂いの漂う重苦しい空気を一瞬で払いのけた。


「ったく……」

 解剖図に没頭していたトーラが顔を上げる。その手には、まだメスが握られていた。


「また怪我か」

 事務的な声で言いながら、彼は手の消毒から始めた。アルコールの刺激臭が漂う。

「傷の形状から...木に登って、枝で擦りむいたな」


「すごい!どうして分かったの!?」


「こういう裂傷は...」

 トーラの目が急に輝き始める。

「ああ、なるほど。面白い傷の形状だ。記録に残しておこう」


 マリアは目を丸くする。

「先生ったら、なんでもメモするんだから!乙女心はそれじゃ掴めないぞ!」


「...余計なことは言うな」

 トーラは咳払いをして取り繕う。

「それより、その薬草は...ミントソウか?」


 薬草の葉から、かすかにミントのような清涼感のある香りが漂う。トーラは無言で葉を摘み、光に透かして観察する。


「なるほど...これは上質だな」

 思わず呟く声に、わずかな興奮が混じる。

「この脈の走り方、有効成分が豊富に...」


「でしょ!そうそう、これも見て!新しい魔物の死体見つけたの!」


「マリア、まさか一人で...」


「大丈夫、ちゃんと死んでるの確認したから!」


「そうじゃない」

 トーラの声が厳しくなる。

「どこで見つけた。周りに他の魔物は」


「えっと...」

 マリアは言いよどむ。

「西の森の...」


「あそこは危険だと言っただろう」

 トーラの声に怒りよりも焦りが混じる。


「だって...ほら、見て!」

 マリアは得意げに、背負っていた布包みを広げる。中からは魔物特有の生暖かい体温と、かすかな硫黄の臭気が漂う。

 

「これ、心臓はどこかな?人間と同じ場所?」

 マリアの目が好奇心に輝く。

「ねえねえ、解剖して見せてよ!その代わり、また薬草探してくるから!」


「解剖は...」

 トーラは言いかけて、ふと視線を落とす。一年前、熱病で瀕死だったマリア。誰もが見放した彼女を、解剖で得た知識が救った。


 それ以来、マリアは毎日のように診療所に顔を出すようになったのだ。彼女の存在は、この薄暗い診療所に、かつてのミナのような明るさをもたらしてくれた。ただし、その好奇心も、ミナと同じく――。


「わたしだって医者になりたいの!」

 マリアの声が、トーラの思考を遮る。

「先生はわたしの命の恩人なんだから、お手伝いするのは当たり前でしょ?」


 その瞳には、確かにミナと同じ輝きがあった。命への好奇心、探究への情熱。そして...それゆえの危うさ。


「マリア...」

 包帯を巻く手が止まる。

「魔物を追いかけるのは危険だ。ミナも...」


 診療所に沈黙が落ちる。壁の解剖図が、風で微かに揺れるだけ。


「でも、先生の研究は絶対に必要なんでしょ?」

 マリアの真っ直ぐな声が、静寂を破る。

「だって、魔法じゃ治せない病気がいっぱいあるんだもん」


 その時、鈴が激しく鳴り、診療所の扉が勢いよく開かれた勢いで、埃が舞い上がった。


「マリア!あなた、また一人で森に行ったの!?」


 母親がマリアの腕を掴む。手の爪が、少女の柔らかな肌に食い込んでいく。目には憎悪の炎が燃え、トーラを睨みつける。


「あなたが子供たちに変な考えを吹き込むから...!死体を解剖するなんて、神への冒涜よ!おぞましい!」


 母親の甲高い叫び声が、診療所の空気を震わせる。標本瓶に入ったホルマリンの匂いが、場の緊張をさらに高めていく。通りから人々の足音が近づき、診療所の前に群衆が形成されていく。汗と怒りの匂いが混ざり合う。


「そうだ!魔物は神の使いだ!体を切り刻むなど、言語道断!」

「魔法もろくに使えないくせに、おかしな研究ばかり...」

「最近、西の森で魔物の被害が増えたのも、きっとあんたのせいなんだろ」


 怒号が耳を刺す。壁に貼られた解剖図が、風で不気味にはためく。トーラは重い木の扉を閉めた。軋むような音と共に、外の声は遮られていく。


「気にするな、トーラ。……ミナとの約束を果たすんだ」


 夜更け、蝋燭の温かな光が揺らめく中、トーラは静かに研究記録を広げる。羊皮紙の擦れる音だけが、重苦しい静寂を破る。解剖台の上の魔物が、その光に照らされて不気味な影を落としている。


「...患者は減るだろうな。まぁ今でも月に二、三くれば良い方だが」


 トーラは淡々と呟いた。医術を忌み嫌う目がさらに増えることは確実だ。しかし、彼の手は止まらない。むしろ、魔物の解剖図を描く手つきには、いつもより鋭い熱が籠もっていた。


「面白い...この組織の構造、まるで...」

 研究に没頭する声が、静かな診療所に響く。

「これが毒の経路なら、ここを...」


 ペンを走らせる手が、ふと止まる。机の上に広がる解剖図は、15年前、妹を救えなかった時よりも、はるかに詳細なものになっていた。


「ミナ...」

 トーラは右腕の包帯に目を落とす。

「魔法では救えなかった命。今度は俺が...」


 ふと、窓の外で、木の枝がこすれる音がした。顔を上げると、月明かりの中に小さな影。そして、夜風に乗って漂う薬草の香り。


「この匂い...まさか」

 ペンが床に落ちる音も気にせず、トーラは立ち上がった。

「マリア?」


 影は森の方へと消えていく。椅子を倒す音と共に、トーラは扉に飛びついた。冷たい夜気が頬を打つ。


「待て!」

 記憶が、恐怖となって込み上げる。

西の森そっちは危険だ、マリア!」


 叫び声は闇に吸い込まれる。マリアは、きっと薬草を探しに行ったのだ。トーラは暗がりの中を必死で走った。枯れ葉を踏む音と荒い息遣いだけが、静寂を破る。木々の間から漏れる月明かりが、霧のような靄の中、足元の道をかろうじて照らしている。


 そのとき、森の奥から悲鳴が響いた。駆けつけた先で、トーラは息を呑む。


 そこにいたのは、二階建ての建物ほどもある巨大な蛇魔じゃま――ミナを奪った、あの魔物と同じ種だった。その馬車ほどもある頭部が月明かりに浮かび上がり、人の背丈ほどの牙が不吉な光を放つ。巨体が地響きを立て、まるで生きた城壁のように迫り来る。木々は次々と押し倒され、太い幹さえも枯れ枝のように砕かれていく。


 尾が地面を打つ度に、腐った土の匂いが舞い上がる。成人の腕ほどもある鱗の擦れ合う音は、まるで無数の刃が研ぎ合わされているかのよう。その姿に、15年前の悪夢が重なる。

 

 しかし、何かが違った。鱗には異様な光沢があり、目は赤く妖しく輝いている。その体からは、通常の魔物とは異なる、甘い腐敗臭が漂っていた。この個体は明らかに異常だった。


「いやぁッ!助けてッ、先生……ッ!」


 マリアは岩場に追い詰められ、背後は切り立った崖。魔物の巨体が、月明かりを遮るように覆い被さる。


「マリア……ッ!」


 魔物が振り向く。大きく口を開いた顎からは紫がかった毒液が滴り、地面を焦がしていく。刺すような鋭い臭気が充満する。しかしトーラは一歩も引かない。


「落ち着け、魔脈結節アルカナノードを探すんだ...」


 トーラは必死で記憶を辿る。解剖台の上で何度も確認した構造図が、脳裏に浮かぶ。魔物の体表には「魔脈結節アルカナノード」と呼ばれる急所が点在している。魔力の循環における重要な結び目だ。弱い魔力でも、その一点に集中させれば...。


「まずは、頸部の...!」


 トーラは地を蹴り、魔物の首筋に回り込もうとする。右手の内に微弱な魔力を、まるで注射針のように一点に集中させて放つ。だが、魔物の激しい動きに阻まれ、魔力は空を切る。


 地面を揺るがす重い足音と、鱗同士が擦れ合う不気味な音が森に響く。空気中に漂う腐敗臭が、ただ者ではないことを物語っていた。


「っ!」


 突然、魔物の尾が薙ぎ払うように振られ、トーラは木に叩きつけられた。背骨が軋むような衝撃と共に、口から血の味が広がる。倒れた木々の破砕音が耳を刺す。


「先生!」


 マリアが叫ぶ。魔物がトーラに気を取られている隙を見て、彼女は素早く駆け寄った。小石が転がる音と、彼女の足音が重なる。雨上がりの土の香りが、足元から立ち上る。


「先生ごめんなさい……ごめんなさい……」


 トーラの傍らで、泣きべそをかきながら膝をつくマリア。涙で濡れた頬が月明かりに光る。彼女の小さな手が、トーラの肩に触れる。その指先が震えていた。


「逃げるんだ……!」


「イヤッ!イヤよ!」


 彼女は逃げ出そうとはせず、むしろ、真剣な眼差しで魔物を観察していた。地面が震え、木々が軋む中で、彼女の冷静な声だけが冴え渡る。恐怖で震える声を、必死に抑え込むように。


魔脈結節アルカナノードの位置が、特定できれば……」


「……先生?この魔物...動くたびに首の後ろが光ってる!」


「何...?」


 トーラは背中の痛みに顔を歪めながら顔を上げる。マリアの言う通り、魔物が牙を剥く度に、紫がかった鱗の下で何かが脈動しているのが見える。その度に生暖かい風が吹き込み、硫黄のような刺激臭が漂ってくる。魔物の呼吸に合わせ、紫の光が不規則に明滅していた。


(そうか...!解剖図の中で見た、第二心臓からの血管が通る場所...!)


「マリア、お前...よく気づいた」


「えへへ、だって先生の解剖図、いつも見てるもん!」


 マリアは咄嗟に地面から小石を掴み上げた。解剖図で見た急所――魔物の首筋を狙って。小さな手に石の感触を確かめながら、彼女は深く息を吸う。とっさの判断だったが、目は迷いなく標的を捉えていた。


 石が放たれ、鱗を打つ鈍い音が響く。意図通り、魔物が反射的にそちらを向いた。月明かりに照らされた首筋で、紫の光が妖しく脈打っている。


 次の瞬間、巨大な魔物が毒を放つ。空気が紫に染まり、酸のような臭気が充満する。風が止み、森全体が毒の霧に包まれていく。


「ゔッ!」


「マリア!」


 トーラの声が木霊する前に、紫の霧がマリアを包み込んでいた。生暖かい霧が肌を刺すように襲いかかる。


 マリアは立ち続けようとしたが、膝から崩れ落ちる。腐卵臭の息が、彼女の肺を焼くように広がっていく。


「……先生、胸が、熱いよ……」


 彼女の顔に、見覚えのある紫の筋が広がり始めていた。皮膚の下を這うように、毒が血管に沿って侵食していく。まるで生き物のように蠢く紫の筋。マリアの顔が蒼白に染まり、額に浮かぶ汗が月明かりに煌めく。


 体が熱を持ち始めた彼女の吐息が、冷たい夜気の中で白く靄となる。トーラの脳裏に、15年前の光景が重なった。同じように紫の筋に蝕まれ、同じように熱に浮かされていったミナの姿が。


「この程度の毒は、俺に効かない...」


 トーラは毒霧に身を晒したまま立ち尽くす。長年の実験で作り上げた耐性が、毒の侵食を遅らせる。右腕の紫がかった血管が、体内の毒と共鳴するように蠢く。かすかに金属味を帯びた痺れが、血管を伝っていく。


「俺の体は、もう毒物実験室同然だからな...」


 トーラは魔物との距離を測る。マリアを救うには、速やかに魔物を仕留め、毒を採取しなければならない。耳に残る彼女の荒い息遣い。時間がない。


 すかさずローブの内側から、小さな注射器を取り出した。中には紫がかった液体が満ちている。解剖で得た魔物の組織から抽出し、自分の血液で調合した強化薬。魔物の持つ異常な活性を、人体に適用できるよう改良を重ねた代物だ。


「この量なら...30秒」


「ウグッ!」


 注射針が血管を貫く。一瞬の痛みと共に、体内に紫の液体が流れ込んでいく。すぐに血管が熱を持ち始め、全身が火照るような感覚。視界が鮮明になり、魔物の動きが遅く見え始める。


 しかし同時に、この薬の代償も分かっていた。使用後の激しい脱力。内臓への負担。それでも、目の前の命を救うためなら――。


 薬の効果が全身に行き渡り、視界がクリアになっていく。かつて解剖台の上で何度も確認した急所。マリアが示してくれた魔脈結節の位置が、まるで図面のように鮮明に見えてくる。


「今だ...!」


 次の瞬間、トーラは飛び込んでいた。薬で強化された体は、普段以上の俊敏さで魔物の死角に滑り込む。魔力結節きゅうしょへと狙いを定め、微弱な魔力を一点に集中させる。右腕の紫がかった血管が、注入した薬と共鳴するように妖しく輝きを増していく。


「ミナの二の舞いは、させない!」


 刹那、放たれた魔力が魔脈結節を貫く。巨大な魔物の体が大きく痙攣し、轟音とともに地面に崩れ落ちる。


「まだ……まだだッ!」


 トーラは右手にさらに力を込める。容赦なく追加で魔力を注入し、魔物の双方の心臓を完全に停止させた。異常な大きさの死骸が、月明かりに照らされて横たわる。


「……あとでゆっくり、解剖バラしてやるよ」


 その瞬間、マリアが膝から崩れ落ちたのが見えた。腕には、見覚えのある紫がかった傷跡。すでに毒が回っている。トーラの表情が一変する。


「マリア!」


 トーラは駆け寄り、急いで診察を始める。月明かりを頼りに傷口を確認する。毒は通常よりも濃い。空気中に漂う甘い腐敗臭が、その猛毒性を物語っていた。


「先生...痛い...」


 マリアの声が震えている。蒼白い顔が月明かりに照らされ、汗が光る。熱で火照った皮膚から、不自然な熱が伝わってくる。この症状は...。トーラの脳裏に、15年前の光景が重なる。


「今度は、必ず救ってみせる」


 トーラは素早く魔物の死骸に向かい、メスを取り出した。刃が肉を裂く音が夜の静寂を破る。毒腺を切開し、特殊な組織を露出させる。生温かい体液が指に絡みつく感触。ミナを殺した毒の研究で、何度もこの手順を繰り返した。


「急がないと...」


 手際よく毒液を抽出し、自身の血液と混ぜ合わせる。毒に触れた指先がピリピリと痺れる。彼の体内には既に毒への耐性が作られているが、それでもこの個体の毒は強すぎる。


「マリア、もう少し耐えるんだ」


 調合した液体に微弱な魔力を流し込んでいくと、かすかにオゾンのような刺激臭が立ち上る。魔力が反応する際特有の、雷雨の前の空気のような匂いだ。


「できた...!」


 月明かりの下、紫がかった液体が不気味な光を放つ。液体の中で、魔力の結晶が氷のように煌めいている。トーラは慎重に血清をマリアの傷口に注入し始めた。注射針が皮膚を貫く微かな感触。これが効かなければ...。


「先生...」

「しっかりするんだ、マリア」


 月が傾き始めた頃、ようやく毒の勢いが弱まってきた。マリアの熱で濡れた髪が、トーラの首筋に触れる。彼は少女を背負い、朽ちた木の橋を渡りながら診療所へと急いだ。足音が霧に溶けていく……。


 夜明け前、診療所の扉が激しく開け放たれ、蝋燭の炎が揺らめく。金具の軋む音が静寂を破る。


「マリア?!」


 血相を変えたマリアの母親が飛び込んでくる。その声には怒りよりも、深い恐怖が滲んでいた。


「マリア、マリア……」


 母親は、処置台で横たわる娘の蒼白な顔を目にし、その場に崩れ落ちる。絹のドレスが床を擦る音。


「またお前か...!」

「魔物に襲われたのも、お前が変な考えを...」


 集まってきた村人たちの非難の声が診療所に響く。標本瓶の中の液体が、その振動で微かに揺れる。しかしトーラは、黙々と処置を続けた。メスと薬瓶が、月明かりに冷たく光る。


 夜が明けるころ、ようやくマリアの呼吸が落ち着きを取り戻してきた。規則正しい寝息が、静かな診療所に安堵をもたらす。母親は娘の手を握りしめたまま、ずっと目を離さなかった。


「...なぜ、先生は魔物を」


 長い沈黙の後、母親がつぶやく。その声は、夜明けの空気に溶けるように消えていく。


「15年前、妹を失って分かったんだ」


 トーラの声は静かだが、芯が通っていた。包帯を巻く手が、一瞬止まる。


「魔法は確かに素晴らしい力。だが、それだけでは救えない命がある。ミナは...俺の妹は、上級魔法医師にも治せなかった。だから俺は魔物を解剖し、毒を調べ、治療法を探す。たとえその道が禁忌と呼ばれようと、俺には、これしかない」


 トーラは母親の方を向き、真っ直ぐな眼差しで続けた。


「命を救うということは、時に危険を伴い、時に周りから理解されない。でも、目の前で苦しむ人がいるなら、俺は全ての手段を尽くす。それが...医者というものだと、俺は信じている」


 母親は黙ったまま娘の手を握りしめていた。マリアの手から伝わる温もりに、安堵の涙が頬を伝う。しばらくして、小さな声で言った。


「先生、ありがとうございます...」


 翌朝、上層からの通達が届く。


 高級な羊皮紙に魔法貴族の紋章が輝き、金箔で縁取られた文字が冷たく光る。魔物の死体を扱う禁忌の医術を行ったとして、魔法貴族の査察が入るという。通達には、特別な目的がない限り、魔物の死体に触れることは神への冒涜であり、厳しく禁じられていると記されていた。


 窓の外では、通りを行き交う村人たちの姿が見える。昨夜の出来事を囁き合う声が、かすかに漏れ聞こえてくる。マリアは助かったが、その方法は受け入れがたいと。それは魔法の道を外れた異端の技だと。


 誰かが密告したのだろう。トーラにはそれが誰なのか、想像がついていた。診療所の前を通り過ぎる時、目を逸らしながらも、密かな優越感に浸る者の姿が。結局、人は理解できないものを恐れ、排除しようとする。


 上層からの通達を手に、トーラは窓辺に立つ。朝日に照らされた巨大な階段の向こうで、魔法貴族たちの世界が輝いている。魔力を帯びた風が、上層から届く。そこには、強大な魔力と、それを操る絶対的な権威があった。


「ミナ」


 トーラはつぶやいた。右腕の包帯の下で、紫の血管が脈打つ。かすかにオゾンの匂いが漂う痺れが、血管を伝う。


「たとえ禁忌と呼ばれようと、この医術で道を切り拓いてみせる。それが、お前との約束だから」

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