禁忌の解剖医 -魔物の臓器を研究していたら、気づけば世界が俺を必要としていた件-

なか

プロローグ

 空に浮かぶ階層都市アルカノス。幾重にも重なる白亜の建物が巨大な塔のように積み上がり、その頂点では魔法の光が常に煌めいていた。魔力を帯びた風が吹き抜け、かすかに甘い香りを運んでくる。上層では魔法貴族たちが優雅な暮らしを送り、庭園には魔力で浮かぶ噴水が美しい虹を描き、水音が清らかな調べを奏でている。


 一方、下層に目を向ければ、薄暗い路地が迷路のように広がっていた。錆びた鉄の梯子からは金属の軋む音が響き、継ぎ接ぎだらけの木の橋が建物をつなぐ。腐った木材の匂いと生活排水の臭気が漂い、魔法の光も届かないその場所で、日々の糧を得るのもままならない人々が暮らしている。


 そんな下層の一角、くすんだ石造りの建物が立ち並ぶ路地の奥に、小さな明かりが揺らめいていた。油のきれかかったランプの光が、薄暗い部屋の中を照らしている。すすの匂いと、病人特有の熱っぽい匂いが混ざり合う。


「お兄ちゃん...苦しい...」


 ミナのか細い声が響く。ベッドには青白い顔をした8歳の少女が横たわっていた。長い黒髪が汗で額に張り付き、かつて愛らしかった丸い頬は痩せこけている。シーツの擦れる音だけが、重苦しい静寂を破る。


 そのベッドの傍らで、13歳の少年――トーラが必死に手を握りしめていた。妹の手から伝わる熱が、異常なほどに高い。やせ細った体つきの少年は、疲れで目の下にくまを作りながらも、真っ直ぐな眼差しで妹を見つめている。


「大丈夫だ。上の先生がすぐに来てくれる。きっと治してくれる」


 声が震えるのを必死に抑える。しかし、その言葉とは裏腹に、トーラの心には不安が渦巻いていた。三日前、ミナは薬草を採りに行った森で魔物に襲われた。鱗のような皮膚を持ち、長い尾を振り回す蛇のような魔物。かろうじて命は取り留めたものの、その傷跡から紫がかった模様が広がり始め、原因不明の熱に倒れたのだ。傷口からは、硫黄のような腐敗臭が漂っている。


「これは面倒なことになったな...」


 魔法貴族の医師は、青い光を放つ魔法陣を投げやかに展開させたが、光が霧のように散っていく。高価な香水の甘ったるい匂いが、病室の重苦しい空気をさらに不快なものにしていた。


「まあ、下層の者が毒を受けるのも珍しいことではないが」

 医師は溜め息まじりに呟く。

「治療費は払えるのか?この程度の治療でも、それなりの金額になるぞ」


 トーラは震える手で、必死に集めた金貨の入った布袋を差し出した。医師は中身を確認すると、やっと本腰を入れ始める。


 ローブには金糸で魔法陣が刺繍され、手には宝石をちりばめた魔法杖を握っている。その豪奢な装いで、何度も魔法陣を展開するが、光は毎回霧のように消えていく。


「...治らんな」

 いくつかの呪文を試した後、医師は興味を失ったように言い放った。

「珍しい毒だ。魔力が通じん。これは私の手には負えない」


 かかとを返す医師の靴音が、トーラの耳に突き刺さる。布袋は、医師のローブのポケットに消えていた。


「なんで...なんで...」


 トーラの掠れた声が、冷たい空気に溶けていく。手の中で、ミナの指が微かに震えている。汗で湿った手が、ゆっくりと、確実に冷たくなっていく。


「お兄ちゃん...ごめんね...」


 掛け布団の擦れる音。ミナが、僅かに首を傾げる。


「薬草...集めに行ったの...お兄ちゃんの...」


 その言葉を最後に、ミナの瞳から光が消えた。青白い顔に、かすかな微笑みが残されている。トーラは、妹の手を握り締めたまま動けなかった。


 ランプの灯りが不規則に揺れ、壁に映る影が歪んでいく。やがて部屋に満ちた静寂が、少年の心を凍らせていった。

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