またね

真花

またね

 ため息が沈殿している。店内の商品の場所を覚えようが、レジ打ちがスムーズになろうが、時給は変わらない。陳列したり発注したりの合間にレジに立っているのか逆なのか、どっちでもよくて、自分で望んでバイトをしているのに早くこの時間が終わることばかりを念じている。だが、そう思うほどに時間は粘りを増す。業務の合間にため息をこぼし続ける。それは僕だけじゃなくて他の店員も同じで、混じり合ったため息がドブの色をしている。大学に通って、バイトをして、食って、寝る。その繰り返しから抜けられない。永遠に続くのだ。昨日と今日を分けるものなんてなくて、同じ毎日はどんどん彩りを失って、モノトーンで殺風景に堕ちる。客の切れ目に自らの停滞が胸にウロを穿って、そこからため息が錬成される。

 客は活発だ。膝までため息に浸かっているのに気付きもしない。ポテチ、コーラ、チョコレート。ありがとうございました。新聞、ビール、チーカマ。ありがとうございました。ジャンプ、メントス、おにぎり。ありがとうございました。一瞬だけの交差にお互い何も求めていないことが分かる。コンビニ店員と言う機能が必要であって、僕と言う人間が必要なのではない。唯一、人間同士になるのは同僚と話すときだ。だが、よっぽど暇でない限り業務中に喋ることはないし、終われば挨拶をして帰る。

 今日も同じバイト時間が終わる。交代の人が出て来て、僕達はバックヤードに下がる。金のために僕を売りました。胸の中で呟きながら着替える。隣で制服を脱ぎながら今日一緒にシフトに入っていた安村やすむらが、ちょっといいかな、と声をかけて来た。

「何ですか?」

 僕は低体温の爬虫類のような声を返した。安村は気にする様子はない。

「急なんだけどさ、明日の夜にライヴがあって、チケット取ってたんだけど、彼女が熱出しちゃって行けなくなっちゃったんだ。グラマラスドラゴンフライなんだけど、知ってる?」

 確か、北見きたみが好きだとか言っていた。有名だし数曲は知っている。

「知ってます」

 安村は大当たりを引いた顔になって、カバンからチケットを取り出す。

「よかったら買い取ってくれない? あんまりいい席じゃないけど二枚で一万円でどう? 場所は武道館だよ」

 今日と明日を変えるのに一万円。払える額だが、飛び付くようなアーティストではない。……値切るのは何となく感じが悪い気がするし、元の値段も相場も分からない。だが確実に明日が変わるのなら、試しに行ってみてもいい。ライヴなんて行ったことないから、初めて料金ってことで。

「じゃあ、買います」

 安村は、いやあ、有難い、とチケットを僕に渡し、僕は財布から金を出して渡した。商談が終わると安村はすぐに、じゃあ、お疲れ様、と言い残して去って、二人の会話でいっとき晴れていたため息が再び足元に溜まり出す。僕はそれに溺れないように店を出て自分の部屋に帰る。店の外は澄んでいて、大きく息を吸う。澄んでいてもモノトーンに変わりはなく、星が出ているのに瞬いて見えない。カバンの中のチケットだけが脈動していた。


 次の日の昼休み、食堂で北見を探した。北見は女子三人で食べていて、僕の姿を認めると右手を挙げて、よ、と言った。他の女子も僕の顔を見て挨拶をする。僕達はクラスメイト以上の関わりを持ってはいなかったが、クラスメイトである関わりは持っていた。

「北見、ちょっと耳寄りな話があるんだけど、今、いい?」

「いいけど、ここじゃダメなの?」

 仮にも二人で行くライヴの誘いだ。僕は大したことじゃない顔をして、うん、ダメ、と首を振った。北見は、そう、と立ち上がり、僕は先導して廊下の人気の少ないところに連れて行く。北見は何も言わずに着いて来た。

「それで、話って何?」

「北見って、グラマラスドラゴンフライ、好きだよね?」

 北見は目を見開いて、瞳孔まで開いて、満面の笑みになる。

「好きだよ。めっちゃ好き。グラドラが一番好き。なになに、まさか東海林しょうじもハマっちゃったの? それで語り合いたいってこと? そんなら言ってくれればあの場でも全然問題なかったのに」

 生憎僕はハマってはいない。北見の全身が燃えている、僕が火傷しそうなくらいに。

「うん。ちょっと違う。けどいい話。チケットが手に入ったんだけど、行く?」

 北見は燃えているままでピタリと停止する。状況の整理のためのラグだろう。

「それっていつ?」

「今夜」

「マジか。バイト入ってる。……いや、ちょっと待って。ね、待ってね」

 北見は電話をどこかにかけて、少し話して、切った。

「バイトなくなった。行く」

 北見は地獄と天国の両方を潜って来た顔で笑う。僕にも同じくらい好きなものがあったら毎日の色が違うのだろうか。放課後に落ち合う約束をして北見は元の席に、僕は購入の列に別れた。午後の講義が終わり、待ち合わせ場所のベンチに座る。学校もため息に溢れている。学生が出したものと教員が出したものの両方が渦を巻いている。そのため息を切り裂いて北見が走って来る。生命力の塊の突撃に僕は身を固くする。だが、衝突はしなかった。

「お待たせ。さあ、行こう」

 僕は立ち上がり、肩を並べて駅に向かう。

「グラドラのライヴに行けるなんて、人生最大の幸せだよ」

「それはよかった」

「中学校のときに初めて聴いて、もうズキューンって感じだった。一発で好きになった。それからずっと聴いているんだ。よくぞ私に声をかけてくれた。ありがとう」

 北見は大きな声でグラドラへの愛を語る。僕との明らかな温度差に気付いていないのか、関係ないのか、僕はモールス信号のように相槌を打ち続ける。あの曲がどうで、この曲がどうで、と止まらない。随所で、ありがとう、を挟んで、僕の中に北見のありがとうが飽和する。むしろどうして今までライヴに行ったことがないのか不思議だったが、北見はそこには触れないので僕からも訊かなかった。

 電車に乗っても北見の勢いは衰えなかったが、九段下に到着したら急激に静かになった。多分、周囲に同じかそれ以上のグラドラファンがいることを察知したのだろう。僕達は必要最低限のことしか喋らない仕事人のようにライヴ会場である武道館に入場する。僕達の席は一番後ろだった。北見は何も言わずにステージを凝視していて、言葉を発しなくなったのは周囲を警戒したからではなくて、興奮が限界を超えたからのようだった。その限界の彼岸に今北見はいて、さらに向こう側にずんずんと進んでいるのだ。死なないかな、大丈夫かな。だがだからと言って何も出来ない。僕達は横並びに立って、ライヴの開始を待った。

 会場は満員で、既に熱気の気配が匂う。

 暗転。

 ステージが照らされる。

 グラドラの四人が登場する。ギャー! と北見が人間を超えた叫びを放つが、同じレベルの声がそこら中から鳴っていて、ここはいつもの世界とは違うのだ、だが僕は叫ばない。

 一曲目が始まる。僕も知っている曲だ。僕はライヴとは聴きに来るものだと思っていたが違った。北見は全力で歌った。他の客も歌っているが、声量と距離で、僕の耳には北見の歌が独占配信される。グラドラの声も聞こえはするのだが、まるで北見が僕専用のヴォーカルになったみたいだ――


 最初から最後まで、MC以外ずっと、ずっと北見は歌い続けた。僕の脳は確かに北見の歌声を覚えた。物販で北見がどっさり買い物をしてから、僕達は駅に向かって歩き始めた。北見はどこかふわふわしていて、つつけばまだ歌が漏れて来そうだった。行き道のようなグラドラへの愛の顕示は全くなく、まだ半分夢の時間にいるみたいだ。ふと、顔を覗いたら、やわらかく満面の、幸福をソテーにしたような笑みを見せる。そんな北見の顔は見たことがなかった。僕の心臓が急に焦り出して、胸全体に甘味が流された。北見は笑うだけで何も言わない。僕もずっと顔を見ているのも妙だから、前を向く。黙った二人のまま駅が近付いて来る。僕は自分の胸の反応の意味を測りかねていた。だが、それでも、いやだからこそ、もう少し一緒に時間を過ごした方がいい。夕食に誘おう。そう決めるのに、勇気が出ない。タイミングを計るがその瞬間が来ない。そんな気負う相手じゃないはずだ。ときどき喋るだけのクラスメイトだ。北見がキラキラして見える。こんな顔だったっけ。僕はこんなに臆病だったのか。何を恐れているのだ。夕食に誘え。僕よ、動き出せ。

 北見がふわふわキラキラして、僕がもじもじしている内に駅に着いてしまった。階段を一緒に降りて、改札を通った。ホームから電車に乗っても、北見の様子は変わらなかった。僕は北見を邪魔したくなかった。夕食に誘いたかった。

「私、次の駅で乗り換える」

「そっか」

 また黙って、北見は余韻に、僕は形にならない余震に、浸る。電車が駅に着いて、北見が僕に向き直る。

「ありがとう」

 僕は最後のチャンスに踏み出せない。

「いや、よかった。最高みたいだ」

 北見は煌めく笑顔を見せる。

「またね」

 北見は電車を降りて行った。取り残された僕は窓から北見の後ろ姿を追う。それもすぐに見えなくなって、ガラスに映った自分の顔を見る。あれだけため息を吐き出していたのと全然違う顔がそこにはあった。北見のいっぱいの歌声の上に最後の言葉が乗っかって、僕の中で鳴っている。


(了)

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