200デシベルの愛の告白

有沢楓

200デシベルの愛の告白

「それでさ、飼っている猫の名前がヘリングっていうんだって。僕の好物と一緒なんだよ、すごくない?」


 ご主人の口数が普段より多い日には、ろくなことがない。

 だいたい30にもなろうという男性が、寝ぐせの付いた髪で毎朝毎晩私を世話して、うずくまって撫でているだけでも、一般的には気持ち悪い行為なのに。

 世間離れがいっそう進んで、私が何を言ってもずっとうわの空なのだ。


 ジョウロを持つ手も目もおろそかで、普段は慎重に注ぐ水を跳ねさせるものだから、私の頭が濡れてしまう。

 いくらガラスの温室でも、夏は水滴がレンズの役目を果たしてしまうし、冬は寒くて凍えてしまう。えぐれた土にできた水たまりも不快だ。

 それで彼の黒いローブの裾が泥水を今まさに吸っている。

 きっと目の前のことなんかより、さっきの話相手のことだけ考えているんだろう。


「ただの店主と顧客なのに電話番号を教えてくれたんだから、少しは希望を持っていいよね?」


 分厚い黒縁眼鏡の下のヘーゼルの目が珍しく――たぶん1年ぶりに輝いているのを見るのは嫌ではないけれど、軽薄な発想はいただけない。

 私は電話を見たことがないけれど、遠くの人と話ができる不思議な道具であることは知っている。それから、電話番号の価値が落ちていることも。


「趣味は天体観測なんだってさ。汽車で行けるならとっておきの場所があるんだけどな……」


 ついでに、人間がこの数十年間で開発してきた様々な……船とか、汽車を見ることはこの身体ではまだ叶わないけれど、すごく早く遠くに行ける乗り物であることや、来客の車の、あの気に喰わない排気ガスのことなら知っている。

 彼の丁寧なお世話のおかげで、同族に比べて育ち過ぎてしまったから。


「近くの丘はどうかな、誘ったら来てくれると思う?」


 遠方どころか夜のお出かけもまだ厳しいんじゃないの、と私は思うが言ってあげない。だって、濡れた私を慌ててタオルで拭く手が雑だ。


「それから花も好きらしいよ。実験室は――早いか。この温室を案内して、それで主役の君を見てもらえたらいいなあ」


 それだけは嫌だ、と私は首を振った。

 ここにいる者たちは皆静かでつつましくて、見慣れない人間がずかずか入ってくるなんて、とても耐えられそうにない。

 そして何より、温室でのこの時間は私と彼だけのものだ。

 頭を飾る濃い紫の花と、緑の葉がささやかな抗議に震える。


「……そうだね、君は取扱いに特別注意が必要だ。もし万が一間違って引き抜いたりでもしたら――」


 そうだよ、いくら私が長生きしていたって、と言いかけて。

 彼の目に浮かぶ恋情と、手が私の頭に触れたから、それ以上何も言えなくなった。

 温かく優しい手なのに、体を捻って抵抗しても葉っぱが一枚、抜かれてしまう。


 手が離れていって、私は空気の冷たさに体を震わせる。

 ただのおまじない、効果なんてないって言えたらいいのに。私の葉っぱは錬金術師の彼の手にかかれば、軽い媚薬になってしまう。


「やだな、媚薬にするつもりはないよ。本の栞にするんだ」


 そんな危ないもの間違って混入したらどうするの、と思ったけれど、やはり言えなかった。可能性に思い至ってしまうだろうから。


 いまは良いけど、きっとまた失恋するでしょう。前回まえと同じ匂いがするもの。

 今度はどれくらいめそめそ泣いたら私を見てくれるの。私にしておけばいいのに。庭で何回転んだかも知ってるよ。


 人間が何回失恋に耐えられるのか、植物の私は知らない。



***



「……猫の名前、ずっと片想いしてる人の好物なんだって」


 だばだばとジョウロで私に水を注ぎながら、ご主人はやっぱり泣き言を言っていた。高価そうなイブニングコートが泥で台無しになって、後で執事さんに怒られるんだろう。


「そりゃあ勝手にしたことだけど本を貸したり、花をあげたり、食事をおごったり、家まで送ったり、お金を貸したりしたのに……駄目だった」


 勝手にいけるって勘違いしたんじゃない、と私は葉を揺らす。

 彼は何でもしてあげるタイプではないから、気を持たせた方が悪い、テイよくつかわれたんじゃないのとも思うけれど、それを言ってあげるほど親切ではない。


 私がまた恋をすればいいじゃない、と言おうとした時、ジョウロの雨はやんで、彼は涙に濡れた顔を上げた。

 ずっと一緒にいたのに、その目を私は知らなかった。


「だけど、以前まえに君のことを話したんだ。――命を懸けてもしたい恋なんだ」


 ジョウロが地面に転げて、私の首に手が伸びる。

 明らかに目つきがおかしい彼に、私は体を捻ったけれど、いくら育ち過ぎたと言っても抵抗できるはずがない。

 だって私の手も足も、大地に縫い留められている。


 こんなの彼らしくないけれど、私の視線では正気に戻す力がない。むしろ狂わせてしまうかもしれなかった。

 だって私の葉は媚薬。根である私の四肢はもっと強力な愛の薬になる。


「君が欲しいんだってさ。私が欲しいなら命をかけて、って」


 彼は本気だった。普段と違う低い声は恐いけれど、自分で使うためじゃなく、誰かにあげるためという理由が、それでも彼らしかった。


 だから覚悟した。

 唐突で不本意な理由とタイミングだったけれど、いつかこの日が来ることは分かっていたから。


 ――断末魔なんて、あげてやらない。


 彼の手が私の首にかかり、勢いよく地面から引き抜く――宙に持ち上げられた私は裸身を外気に晒され、半ば本能で叫んだ。

 大声で。多分空を飛ぶ鉄の塊、飛行機なるものが出す音よりも大きく。


「――レオ、だいすき!」


 両手を離した彼は慌てて耳を塞ぐが、そんなもので間に合わないことくらい承知だったろう。


「情けなくて泣き虫で騙されやすいけど、仕事を頑張ってていっぱい私の世話をしてくれるあなたがだいすき!」


 今まで黙っていた分の大声が、温室のガラスをビリビリ震わせる。残念ながら声は調節できない。


 私はマンドレイク。

 地面から引き抜かれる時には悲鳴を上げてしまう。それで、引き抜いた者を狂わせて殺してしまうのだ。

 仕方がない、私の種族はそういうふうにできている。


 でもね、これは悲鳴じゃなくて愛の告白。

 むしろいつか来る時のために、彼を殺してしまわないよう一生懸命練習したんだから、褒めて欲しい。


 たださすがに声の大きさは調整できなかったから気絶してしまうかも。

 そう思ったら、耳を塞いだレオが、泥だらけの私をぼんやり見ながら、ゆっくりと花壇に倒れる。

 うん、成功したみたい。


 私は初めて自由を得て、四肢を動かし、レオがふかふかにしてくれた腐葉土の上で、くるりと一回りもしてみる。

 身長は子供くらいだし、ちょっと緑の髪の頭頂から花や葉っぱが生えているけれど、それ以外はおおむね大人の人間そっくりだ。


 これならきっとそれなりにうまくやっていけるだろう。

 と思ったら、外からどたばたと使用人さんたちの足音が聞こえてきた。


 さて言い訳をするのと、もう一度地面に埋まるのとどちらがいいのかなと考えつつ目を回しているレオを見れば、もうあのとり憑かれたような空気はどこにもなかった。

 いつもの情けなくて優しいレオだ。

 私はほっと息を吐くと、彼を起こして説明させることにした。


「レオ、だいすき」


 マンドレイクには人語の発音が難しい。

 だからつい言いやすい言葉になってしまうのは仕方がない、ということにしておこう。

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