ベンチへの衝動

人型改造

ベンチへの衝動

 その日の夜、私は仕事ですっかり疲れていました。


 職場と自宅が近いので出退勤は徒歩なんです。で、自宅に帰る途中で小さな公園の横を通るんですが、そこに一つだけベンチがあるんですよ。


 見た目はいたって平凡なベンチです。


 私はその公園のベンチに座りました。あまりにも疲れていたものだから、ちょっと一休みしたかったんです。


 それは白いペンキがところどころ剥げた木製の古いベンチでした。


 肘置きには色褪せたシールが貼ってありました。犬をモチーフにしたキャラクターのシールです。目につくところにあったので、印象に残っています。きっと近所の子供がちょっとした悪戯で貼ったのでしょう。


 お世辞にも綺麗とは言えないベンチだったのですが、これが意外にもよい座り心地で。


 腰を下ろすと、すっと身体全体が馴染んでとても快適でした。


 私はそのままうとうとしてしまって、寝ちゃったんですよ。


 次に目が覚めた時は日付が変わって深夜二時頃になっていました。かなり長い間、そこで眠っていたことになります。寝過ぎちゃったな、疲れが溜まってるんだな、なんて思いながら家に帰りました。


 家に着いて風呂に入った後、持ち帰りの仕事をして……気づいたら、もう四時くらいになってまして。五時には家を出て職場へ向かう必要があるので、夜食とも朝食ともつかない物をだらだらと時間をかけて食べてから、家を出ました。


 その日も仕事を終えて、いつもの道で帰るわけで、また例の公園に入って例のベンチに座りました。疲れてたんですよ。その日も。


 そして例によって眠り込んでしまって……その後の流れも全部同じです。家に帰って、風呂に入って、残ってる仕事をして、食事をとって、出勤。


 そういう生活をずっと続けてきました。


 やっぱり流石にまずいな、とは思ったんですよ。屋外のベンチで夜な夜な寝るなんて普通じゃないですからね。


 雨の日や雪の日は雨合羽を来て例のベンチで寝てたんです。身体にはよくないですね。分かってはいたんですけど。すっかり癖になってて。


 自分の意志が自分の理解に従ってくれないんです。


 それでも何とかベンチに座る衝動を克服しようと思い立って、いつもと違う道を通って帰宅しようとした日もありました。


 例の公園に近寄らなければ、ベンチに吸い寄せられることも無いだろうと踏んだんです。


 でも、家に近づくにつれてだんだん眠くなってきて、意識を失ったんです。


 気がついたら例の公園にいて、例のベンチに座ってました。私はなぜかそこで寝てたんです。


 変ですよね。どうして気を失っている間にいつもの公園へ移動していたのか。不思議です。


 タクシーで帰ろうとした日もあります。結果は同じでした。


 だんだん眠くなってきて、そのままタクシーの中で寝入ってしまい、お馴染みのベンチで目が覚めたんです。


 いつの間にかタクシーからベンチへ移動していたんです。わけが分かりませんでした。


 料金の支払いはどうなったんだろうと心配になってタクシーの会社に問い合わせました。支払った記憶が無かったので。


 でも、その日、その時間帯、その近辺で無賃乗車した客はいないそうなんですよ。


 いまいち釈然としなかったんですが、タクシー会社の人がそう言うなら、気にしてもしょうが無いわけで。


 いっそのこと職場に泊まり込んでしまおうかと思った日もありました。


 それでも駄目なんです。一人で残業していると疲れてうとうとして、はっと気がついたらもうあの公園のベンチに座ってる。


 移動の瞬間をカメラで捉えようとしたこともあります。スマートフォンのカメラを自分に向けて職場のデスクの上に置いておいたんです。職場に一人で泊まり込んで、夜になったらカメラ機能で動画を撮り始めました。自分がどんな風にその場を離れているのか確かめるつもりでした。


 すると、どうなったか。動画が残ってなかったんです。


 いつもの時間帯に眠くなって、その後ベンチに移動してたんですが、次の日にスマートフォンを見ると、その瞬間を撮ったはずの動画データは消えていたんです。


 もう、がっくりしましたね。


 勘弁してくれって思いました。


 だから、やけになって、例のベンチに火をつけました。ガソリンと新聞紙とライターで。


 よく燃えてましたよ。


 ああ、これでやっと解放されるんだ……と肩の荷が下りた思いでした。これで次の日からは普通に帰宅できるぞ、と。


 そのはずだったんです。確かにベンチは燃えてたはずなんです。


 なのに、次の日の夜、私はそのベンチに座ってたんです。


 ベンチは元通りになっていました。焦げ跡すらありません。白いペンキの古びた木製ベンチ。肘置きには犬のシールが貼ってありました。


 何もかもそのままです。燃やす前の状態に戻っていました。


 私はもう駄目です。どうしようもありません。

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