第4話 命の代償は

 男の凄みに負けて、私はしぶしぶスープを一口啜った。……甘い。これまで味わったことのない味だ。更に味をみようと二口、三口と啜るうちに、あっという間に椀を平らげてしまった。


「それは東洋のスープで、味噌汁という名の料理だ。あんたは、見るからに脱水症状を起こしている。オアシスの水を飲んだんだろうが、それだけじゃダメだ。脱水症状には塩分も必要なんだ。それに、弱った胃に食べ物を急に入れると身体に障る」


 私は、男の言葉の半分も理解できていなかったが、男が私のことを気遣ってくれていることだけは判った。驚いたことに、この男は、私の健康状態を見て、それに見合う料理を用意してくれたのだ。怖い見た目とは裏腹に、冷静な観察眼と繊細な心遣いを併せ持っている男なのだ。確かに、先ほどまで空っぽでキリキリと痛んでいた胃袋がほかほかと暖かい。


 そういえば、何も注文の品を聞かれなかったことに今更ながらに気が付いた。普通の外食店であれば、まずは客に何を食べたいか尋ねるものだ。平時であれば、その不手際を責め立てているところが、今はとにかく驚くことばかりで、頭がついていかない。


 茫然と言葉を失う私に、少女がにっこり笑って掌を上にして見せた。


「さあ、食べたのだから、払うものを払ってちょうだい」


 それが代金のことだと判るまで少し時間が掛かった。しかし、私は今、金を一銭も持っていない。私の記憶が確かなら、この砂漠へ来る前までは、自宅で夜の中庭をただ散歩していた。平時ならば、とっくに眠っている時間だったが、考えなければならない厄介ごとを抱えて眠れなかったのだ。念のため懐を探ってみたが、やはり金目のものは一つもない。そもそもこんな場所へどうやって来たのかすらわからないのだ。


 どうしたの、と顔を傾げて純粋な瞳で私を見上げる少女に、私は、今自分の置かれている境遇を語った。


「何と言ったら良いのか……とにかく、無銭飲食をする気はない。自宅へ戻れば金はある。ここがどこだか教えてさえくれれば、一度自宅へ戻って、使いの者をやるから……」


 事情を話せば分かってもらえると思った。何せ相手はまだ幼気いたいけな少女なのだ。男の方は判らないが、見た目ほど怖くはないとつい先程判ったばかりだ。真摯に私の真心が伝わってくれる、そう信じていた。それに私は、泥棒などしたことがないし、それなりに金は持っている。嘘をついて、私を助けてくれた恩人を騙そうなどというつもりは毛頭ない。


 しかし、何が気に障ったのか、少女の態度は私が予想していたものとは全く違っていた。


「ちょーっとお客さん、それは困るわねぇ。こちとら商売でやってんのよ。慈善事業じゃないっつーの!」


 突然、少女の態度が一変した。目は悪魔のように釣り上がり、オアシスのような色だと思った瞳は、燃えるような赤色に変わっている。その変貌に奇怪な声を上げてしまいそうになるのを必死で堪えながら、私は少女に謝罪した。金は必ず返す、嘘じゃない、と。


 すると少女は、悪魔のような微笑みを美しい顔に浮かべながら、ある取引をもちかけてきた。


「そうねぇ。お金がないっていうなら……あなたの魂をもらうしかないわね。戻ってくるなんて保障はどこにもないんだし」


「た、魂だって、そんな莫迦ばかなっ。一体どうやって………」


 わかるでしょう、と怪しげな目つきでぺろりと舌なめずりをして私を見やる少女に、先ほどまでの天使の面影はどこにもない。今にでも頭から角が、背中から悪魔の羽根が生えてきてもおかしくはない。やはり、ここは悪魔の巣だったのか。


 恐怖と驚愕で私は椅子からずり落ちた。今すぐにでもここを飛び出して行きたかったが、それでは自分の嘘を証明してしまうようなものだ。背中を見せた途端に飛び掛かられて殺されても文句は言えない。私は必死で少女に懇願した。自然と少女を見上げる形になる。


「た、頼む。このとおりだ、助けてくれ。私には、まだ死ねない事情があるのだ。ある御方が私の帰りを待っている。とても、とても大事な役目なのだ。契約書でも何でも書く、嘘はつかない。だから、命だけは助けてくれっ」


 少女は、冷ややかな視線で私を見下ろしていた。私の言葉の真偽を見抜こうとしているようにも見える。


 いつの間にか厨房にいた男が、私の背後に腕組みをして立ち塞がっていた。最初に現れた時もそうだったが、大きな体つきの割に気配を消して人に近づくのが得意なようだ。二人に挟まれる形となった今、私に逃げ場はない。これなら砂漠を彷徨ってミイラにでもなったほうがマシだったかもしれない。


 私が震えながら、今日二度目の死を覚悟した時、少女がふぅと息を吐いた。それなら、と腕組みをしながら言葉を続ける。


「何かとびっきり面白い話を聞かせてよ。私が満足するような話をしてくれたら、許してあげるわ。この辺って砂ばっかりで、なんにもないでしょ。退屈で退屈で死にそうなんだもの」


 少女は、両手を上げて肩をすくめてみせた。何か法外な値段を吹っ掛けられるか、肉体労働のようなものを強いられるものと構えていた私は、少女の二度目の提案にいささか拍子抜けした。話を聞かせてくれとは、まるで幼い少女のようではないか。確かにこの一帯には果てしない砂漠が広がっているだけで、この小さなオアシスで暮らすしかない少女には、退屈だろう。


 しかし、見た目は少女のようだが、もし悪魔が化けているとなると、中身は何歳かわからない。穿った見方をすれば、彼女を満足させられる話ができないなら、魂を食らうと言っているのと変わりないのだ。私が何か話をしたとしても、何だかんだと難癖をつけて結局、食らうつもりなのではないか。とは言っても、私に選択肢はない。


「話……と言っても、私はあまり弁論が得意なほうではないのだが……」


「じゃあ、魂」


「ま、待ってくれ。話す、話すから、それだけはっ」


 私の返答に満足した表情で少女は差し出した掌をひっこめた。カウンターの上にひょいっと飛び乗ると、そこに腰を下ろして足を組む。少女のすらりと白い肌がドレスの裾から見え、どきっとする。だが、すぐにこんな幼い少女に色気を感じてしまった自分を恥じて目を伏せた。


「何を話したら良いのか……」


 話題を探すため視線を店内に泳がせた私は、見覚えのある文字に目を止めた。それは、壁一面に埋まっている四角い巻物の内の一つで、私にも読める字で書いてあった。


《パクス・ロマーナ》


(ああ、そうだ。あの人がいつも話していた。あの話……)


 私の脳裏に輝かしい過去の日々が浮かんだ。少女は、私の視線がある一点で止まったことに気付いたようだった。そのことに特に言及はしなかったが、私に話をする準備が整ったと判ったようで、再び椅子に座るよう促された。


「長い話になるかもしれないが……」


 私が椅子に座りながら切り出すと、少女の輝くオアシスの瞳が私を見つめた。


「砂漠の夜は長いのよ」

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