20「訓練生Cクラス船員ルカ・ヴァルディ⑧」


 低く響く機械音と、規則正しい足音が交差する通路。


 ルカはぼんやりとした意識のまま、Cクラス居住区画の歩道を進んでいた。数時間前までいた尋問室の冷たい空気とは違い、ここは整然とした規律のもとで人々が動いている。


 白いLEDライトが等間隔に並ぶ天井。視界の端に飛び込む流線型の壁には情報パネルが設置され、通路を行き交う船員たちは個人端末を確認しながら各自の居住ブロックへ向かっていた。


 カフェテリアの自動ドアが開き、淡いブルーの照明に照らされた空間から、人工的な香辛料の香りが微かに流れてくる。


 作業服を着た船員たちが、簡素なスーツを着たアンドロイドに食事を受け取る姿が見える。隅のテーブルでは数人の船員が端末を操作しながら話をしていたが、誰も焦りを見せていない。まるで、すべてが管理され、保証されている世界であるかのように。


 再生処理プラントの異常が報じられたはずなのに、誰もその危機を気にしていない。


「呆れたな……いつも通りだ」

 

 ルカは歩を止めた。


 彼の視線の先で、艶のある白い装甲をまとった自律型素体オートノームが黙々と床の清掃を行っている。その横を樹形素体フィトモルフの一体が歩いていく。青みがかったラテックス素材の人工皮膚に覆われた細身の体躯――無駄のない動作で船員たちの作業データを処理しながら、彼女たちは次の指示を待っていた。


 漂流世代の彼らにとって、これは日常の光景だった。


 人間が手を動かさずとも、すべてはアンドロイドが遂行する。たとえ、どこかで危機的問題が発生していたとしても、それは自分たちの手で解決するものではない。


(——俺も、そう思っていた)


 ルカが小さく息を吐くと、脳裏に数時間前の尋問の記憶が蘇る。


『選択肢は3つだ。特別任務を受けるか、それとも……』


 無意識に拳を握る。


(考えるな。今は、それを考える時間じゃない)


 そう自分に言い聞かせながら、居住ブロックの自室へと足を踏み入れてルカは深く息を吐いた。


 そこに広がるのは、規則的なLEDライトが天井に沿って配置された無機質な空間。壁際には簡素なデスクとベッドが置かれてあり、船内のCクラス標準仕様の部屋は、機能性を重視した作りになっている。


 視線を動かしてみると、部屋の隅にある個人用端末のインターフェースが薄く青い光を放っていた。


 ドアが閉まると同時に外のざわめきが遮断され、一気に静寂が広がる。ルカは作業服の襟元を緩め、ベッドの端に腰を下ろした。


(尋問が終わってから、まだ数時間しか経っていない)


 だが、尋問室にいた時間のほうが、今よりも現実味があった気がする。

 

 ルカは無意識に手のひらを見つめた。

 指先には微かに汗が滲んでいる。


『お前の選択次第で、今後の待遇も決まる』


 保安員の声が、頭の中で繰り返される。

 ルカは奥歯を噛み締め、考えを振り払うようにベッドから立ち上がった。


 室内に設置された端末のパネルを操作すると、Cクラス用の最新のスケジュールがホログラムとして表示される。


《作業シフト:07:00-19:00/食事ブロック:19:30-21:00/自由時間:21:00-23:00》


 地球時間に沿った何の変哲もない日常のサイクルだ。

 食事ブロックの時間まで、あと十数分ほどある。


 ルカは部屋を出て、通路を歩き出した。


 カフェテリアの自動ドアが開くと、そこには先ほど見かけた船員たちが食事を取っている。各テーブルには規則的に並べられた食器と、船内栽培施設で生産された加工食品。それらの栄養価は計算され尽くしているが、「味」や「個性」といった概念はほぼ存在しない。


「ルカ、こっちだ!」


 知り合いの船員が手を振る。

 同じ漂流世代の訓練生で陽気な笑顔を浮かべることの多いコバヤシだ。


「お前、保安部に呼ばれてたって聞いたぞ。何かあったの?」


 コバヤシがスプーンを持ったまま、軽い調子で訊ねてくる。


「……別に、大したことじゃないさ」


 ルカは適当に返しながら、端末を開く。


 そこには『再生処理プラントの異常に関する報告』と映されてあり、端末に視線を集中すると網膜の動きを読み取った影響で、数時間前に配信された公式アナウンスが表示される。


 再生処理プラントの一部が機能停止し、補修作業が進められているという報告。しかし、それ以外の詳細情報は何も書かれていない。


「プラントの異常ってさ、自律型素体オートノームたちが全部修理するんだろ? それよりさ、今夜の献立って何か知ってるか? また合成タンパクのスープだったら最悪なんだけど」

 

 同席していたコバヤシが、何の疑問も持たないままそう言った。


「……そうだな」


 ルカは短く返し、スクリーンを閉じた。


 周囲の誰もが、船に異常事態が起きていることすら気にしていない。それどころか、船内アンドロイドが人間社会の全てを管理し、船内の秩序が保たれていることよりも次の献立にしか興味を示さない。


 それが「漂流世代にとっての常識」だった。


(だが、俺は知っている)


 ルカはスプーンを置き、考えを巡らせた。


 樹形素体フィトモルフウプシロン。あらゆる生物の過去・現在・そして未来を垣間見る存在。彼女が尋問室のモニター越しにこちらを見ていた記憶が蘇る。ルカの視線の先には、確かに無機質な端末の向こう側から黄金の瞳でこちらを見つめるウプシロンがいた。


 彼女は何かを知っている。

 そして、彼は「知る側」に回らなければならなくなった。


 ルカは食事を半分ほど残し、立ち上がった。


「もういいのか?」


 コバヤシの問いに、彼は軽く頷くだけで応えた。

 カフェテリアを出ると、整然とした通路が続いている。


 天井のLEDライトが等間隔に輝き、滑らかな金属壁には航行状況やシフトスケジュールがホログラム表示されているが、ルカの視線は自然と居住区画を横切るBクラス船員に向けられた。


 ――Bクラス。俺たちよりも上の階級。


 彼らは明らかにCクラスとは違う。

 制服の質感が違う。食堂で使える専用テーブルがある。

 歩き方すら違う。


 ルカの視界の端で、Bクラスの船員たちが通路を進んでいく。彼らはCクラスの船員の列を何の躊躇いもなく割るように歩き、当然のように道を譲らせている。だが、誰もそれに対して何も言わない。


(……この船の秩序は、そういうものだ)


 誰もそれを疑わない。

 BクラスはCクラスより上。CクラスはDクラスより上。

 それが、この船におけるの「人間社会の秩序」だった。


 その場から離れようとした刹那、嘲るような笑い声と鋭い金属音が響く。


 ルカが反射的に視線を向けると、数メートル先の通路で一人のDクラス船員が床に倒れていた。周囲にはCクラスで同世代の女性船員たちの姿があり、彼女たちは肩を寄せ合いながら、あからさまに楽しそうな表情でDクラスの女性船員を見下ろしている。


「なに? つまずいちゃった?」


 一人が、わざとらしく口元に手を当てながら言う。


 床で膝をつくDクラスの女性船員は、簡素な作業服の袖口を掴みながら、何も言わずに立ち上がろうとした。


 その瞬間――ビチャッという音と共に、食堂で食べ終えたばかりの食器がDクラス船員の頭上にぶちまけられる。茶色い液体が髪を濡らし、合成タンパクのスープが床に滴り落ちた。


 ルカの胸の奥が、僅かに軋んだ。


「あーあ、せっかくの食事なのに。もったいないよね」


 Cクラスの女性船員が、Dクラス船員の肩にわざとぶつかるようにして通り過ぎる。


 壁に身を寄せたDクラスの船員は視線を下げたまま、何も言わなかった。彼女は髪からスープを滴らせながら、震える手で散乱した食器を拾い集め、床に溢れたペースト状の高機能栄養食を口に頬張る。


 ――誰も彼女を助けない。


 周囲のCクラス船員たちは見て見ぬふりをし、通路の端を歩いていく。Bクラスの船員は、そもそも彼女の存在に関心すら示していない。まるで、ここで起きている非日常が当然の日常であるかのように。


 何か言うべきなのかもしれない。

 だが、ルカは口を開かなかった。


 足が自然と前に進む。


 通路の奥へと向かうにつれ、Dクラスの船員は視界の端から消えていく。何事もなかったかのように、自分の暮らしに戻ることができる。


(……これでいい)


 そう、自分に言い聞かせた。


 Dクラス船員に関わることは何の得にもならないし、むしろ関わることで、自分がそちら側に引きずり込まれる可能性すらある。


 今の自分には、それを受け入れる余裕はない。


(俺は、黙るしかないのか?)


 しかし、脳裏に焼きついて離れないのは、彼女が床に落ちたペースト状の高機能栄養食を手のひらでかき集め、口に運んでいた姿だった。


 ――それは、飢えた者の動作だ。


 船内では全ての船員に最低限の食事が保証されているはずなのに、まるで彼女は生きるために必死に何かを摂取しようとする動物のようだった。


 ルカは無意識に拳を握る。

 足を前に出そうとするが、体が動かない。


 その時、彼の脳裏に数時間前の尋問の記憶が蘇る。


(あのとき、俺はDクラスのオッサンにLUを渡した。でも、それが何になった?)


 ルカは何も得られなかった。


 Dクラス船員の待遇は変わらない。むしろ、彼は政府に目をつけられ、3つの任務から苦渋の選択を選ばされる状況に追い込まれた。


(この女に手を貸しても意味はない。それどころか、俺は……)


 ルカは深く息を吸い込み、足を止めて振り返った。


 それでも俺は――。


 Dクラスの女性船員は、まだ震える指で床の破片を拾い集めていた。彼女の肩は僅かに強ばり、周囲の視線を気にしているのがわかる。それでも、通路を歩く船員は誰も彼女を助けようとはしない。


 ルカはゆっくりと歩み寄った。


 その気配に気づいたのか、女性船員の手が一瞬止まる。

 だが、彼女は顔を上げない。

 

 助けを求めることすら許されないことを知っているからだ。


 彼は彼女の前に立ち、静かに言った。


「お前、名前は?」


 女性船員の指先が微かに震えたが数秒の沈黙の後、やがて彼女はそっと顔を上げる。


「……イヴァンカです」


 その名前を心の中で繰り返した。彼女の瞳には恐れがあったが、それ以上に「なぜ?」という疑問が浮かんでいるように見える。


(俺がDクラスに声をかけるなんて、思ってもいなかったんだろうな)


 政府の意向に従うなら、彼は何もせず見て見ぬふりをして通り過ぎ、Cクラスの船員として秩序の側に立つべきだった。


 だが――。


(俺は、あんな奴らとは違う)


 ルカはゆっくりと視線を通路に巡らせる。


 Dクラスを見下し、秩序を絶対のものとしているCクラスの船員たちの姿、そして興味すら示さず、自分たちの領域を守るBクラスの船員の姿が視界に入る。


(こんな世界のルールに従って、生きていくのか?)


 ルカは自分の選択を振り返る。

 

 ――尋問室で、自分が下した決断。

 ――「特別任務」という名の先の見えない選択。


 もし、俺がここで何かを変えられるなら――それを選ぶべきじゃないのか?


 深く息を吸い、ルカは静かに歩み寄った。イヴァンカは彼の気配に気づいたのか、身を縮めるようにして床の破片を拾い続けている。


 ルカが言葉を発することなく、携帯していた固形型の高機能栄養食を彼女の前に差し出すと、彼女は驚いたように顔を上げた。


「これは……?」


 彼は視線を逸らしながら、短く言う。


「食べてくれ。必要なんだろ?」


 イヴァンカは動かなかった。


 その瞳には、恐れと困惑が混ざり合っている。まるで「なぜ?」と問いかけるように、彼女はルカを見上げていた。


「……やるよ。俺の分は、もういらない」


 イヴァンカは少しの間、彼の顔を見つめていたが、やがて震える手でカロリーバーを受け取った。ルカはそれを確認すると、何も言わずに背を向けて立ち去る。


 通路を歩きながら、彼は無意識に拳を握った。


(……ただの気まぐれだ。俺は特別任務に進む。それ以外のことは、もうどうでもいい)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る