02「Bクラス船員ライアン」
廊下を急ぐジェレミー・B・ライアンの足音が、船内の冷たい金属の床に響く。手元の通信端末からは、冷ややかなAIの声が流れていた。
「
ライアンは端末を握りしめながら、低く吐き捨てる。
「異常がないだと? 奴の存在そのものが異常なんだよ……」
不愉快な気持ちを隠すこともなく、彼はさらに足を速めた。廊下に等間隔で設置された非常灯が、赤い光を反射しながら彼の険しい表情を浮かび上がらせる。やがて目の前に現れた展望デッキへの扉を開けた瞬間、ライアンは思わず立ち止まった。
そこには、青白い恒星の光に包まれた広大な空間が広がっていた。艶やかな金属の床、全面ガラスの壁、その向こうに広がる無数の星々の光景――だが、ライアンの視線はその中央に佇む人物に引き寄せられる。
「また悠々としやがって……」
視界の中心に立つのは、植物と機械を融合させた「
「おい、植物野郎。ここで何してやがる?」
静寂を破る皮肉めいた声。だが、それに応えるウプシロンの声は、あまりにも冷静だった。
「景色を見ていました。それが問題になるとは思いませんでしたが」
彼女は振り返らず、星々を見つめたままそう言った。その抑揚のない声が、ライアンの神経をさらに逆なでする。
「問題に決まってるだろ。お前みたいな得体の知れない連中が船内をうろついてちゃ、後で面倒なことになる」
ライアンは声を荒げ、彼女に詰め寄る。その怒りが本物かどうかは、自分でもわからなかった。ただ、ウプシロンの「存在そのもの」が彼を落ち着かなくさせる。
「得体の知れない……ですか」
ようやくウプシロンが振り向いた。その顔は驚くほど穏やかで、どこか冷ややかでもあった。
「それは私ではなく、貴方自身の不安から生まれた幻影ではありませんか?」
ライアンは彼女の言葉に反論する隙もなく、拳を握りしめる。それを無視するように、ウプシロンはさらに静かに語り続けた。
「私たち
その一言が、ライアンの中に眠っていた怒りを引きずり出す。
「ふざけんな! お前は俺たちを見下してるだけだろ!」
吐き捨てるような言葉をぶつけるが、ウプシロンはまるで意に介さない。その無関心な態度が、さらに彼を追い詰めた。
「俺たちは感情で動く。だから不完全かもしれないが、それが『人間らしさ』だ。お前にはわからねえだろうけどな!」
感情の高ぶりに任せた言葉が宙に散らばる。それでもウプシロンは、ただ静かに彼を見つめていた。その目には、冷徹さと哀れみが交錯している。
「人間らしさ……それが破滅を呼ぶとは考えないのですか?」
彼女の声は低く、抑揚を欠いている。それでも、その言葉には確かな重みがあった。ライアンは歯を食いしばりながら一歩踏み出し、彼女を指差す。
「お前に何がわかる!?」
その言葉が響いた次の瞬間、ウプシロンがほんの僅かに微笑んだ。それは挑発なのか、それとも単なる興味の表れなのか。彼女の笑みが何を意味しているのか、ライアンには読み取ることができなかった。
「貴方たちの感情――それが導く未来を私は見ています。それが私の役目だから」
「何を――」
「この船が向かう先も、その先に待つ未来も、すべて視えています。そして、その未来には残念ながら、貴方たちの『人間らしさ』が障害になる場面が数多く含まれています」
ウプシロンの言葉は、静かに、しかし確実にライアンの心に突き刺さった。彼は返す言葉を失い、ただ唇を噛みしめる。
ライアンはその言葉に息を飲んだ。だが、すぐに苛立ちを押し殺し、皮肉交じりの声で応じる。
「守る? そんな立派な使命があるんなら、もっと早く何とかしてくれりゃいいだろうが」
ウプシロンは彼の皮肉を聞き流すように目を細める。彼女の左眼が微かに光り、黄金色の軌跡が瞳孔に広がる。
「何とかするという言葉の意味を履き違えていますね。私は未来を見通すことはできますが、それを変えるかどうかは人間の選択次第です」
「選択? 俺たちにそんな自由があるとは思えねぇな。この船も、俺たちの生活も、全部計算済みの枠の中だろう」
ライアンの声には、自嘲の響きが混じっていた。彼は拳を軽く握り締めながら、目の前のウプシロンを睨みつける。
「そう思うのは仕方のないことです。ですが、その枠の外に出ようとした時、初めて未来を動かす鍵を手に入れるのでは?」
ウプシロンの言葉には確信があった。その静かな声は、ライアンの中に隠された葛藤をあぶり出すようだった。彼は視線を逸らし、窓の外の闇へと目を向ける。
「……仮にそうだとしても、俺たちが選べる未来なんてたかが知れてる」
その呟きに対し、ウプシロンは何も言わなかった。ただ、彼女の黄金の瞳には、微かに星明かりが揺れている。
静寂を破るように、耳元の通信端末から
「ライアン、再生処理プラントで新たな異常が発生。早急に現場へ向かう必要があります」
ライアンは通信に反応し、表情を引き締めた。
「人間モドキ、お前も来い。今すぐだ」
「私が必要なのですね?」
「再生処理プラントに問題が起きてるんだ。お前以外の
「つまり、他のフィトモルフではプラントの再稼働が困難だから、私を探していたと?」
ライアンは船内で起きた問題を告げ、ウプシロンを伴い無言で廊下を歩き始める。その背中には硬い決意が感じられたが、その理由までは彼女に伝わらなかった。
廊下に差し込む弱い光の中で、ライアンは胸の内を吐露する。
「俺は船内で育った所謂『漂流世代』だ。ご先祖様が住んでた地球の土を踏んだこともなければ、この鉄船と機械が見せるデータの世界だけしか現実を知らねえ」
「それの何が不満なのでしょうか?」
「漂流世代なんて呼ばれたくねえよ。俺たちは漂流しているわけじゃない。進んでいるんだ。ただ、その行き先が果てしなく遠いだけで……」
「終わりが見えないのが不安なんですね。遠いと感じるのは、それだけ未来が広がっているということです。どんなに長い旅でも、一歩ずつ進めば必ずたどり着けます。それがたとえ、何千年という航行の果てであったとしても――」
ライアンはしばらく黙ったままだったが、その眼差しは少しだけ穏やかに変化していく。ウプシロンの言葉が心に響いたのか、それともただの一瞬の幻想だったのかはわからない。
ただ、彼の目に宿った僅かな希望が、ほんの少しだけ彼自身を動かし始めたように思えた。
傍らを歩むウプシロンは静かにその姿を見守る。その目に浮かぶのは、永遠とも言える百年単位の航行の先に待つ未来の果てしなさではなく、希望を求める一人の人間が見せる微かな変化だった。
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